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This is the "TIME"  作者: 御樹本 正輝


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5/16

4年間の空白

4年前のことを思い出す――

彼女を抱きかかえて2階まで上がるのは、思っていた以上に大変だった。

階段を上るたびに、彼女の髪が僕の首元に触れ、微かに甘い香りがした。

腕の中で彼女はぐったりしていて、呼吸だけが静かに上下している。

僕は落とさないように慎重に体勢を整えながら、ゆっくりと階段を上った。


鍵を開けると、薄暗い部屋の空気がひんやりと肌に触れた。

ベッドに彼女を横たえると、彼女の髪が枕に広がり、額に汗が滲んでいた。

僕は冷えた水をコップに注ぎ、彼女の唇にそっと当てた。

彼女はわずかに目を開け、コクンと喉を動かした。


冷やしたタオルを頭にあてると、彼女は小さく息を吐いた。

その仕草があまりにも弱々しくて、胸が締め付けられた。


特にできることもないので、僕は脚立の上に腰を下ろし、

毛布を肩にかけてビールを飲んだ。

酔いつぶれて苦しんで寝ている女性の横で飲むビールは、変な味がした。



30分ほどして、彼女の呼吸が落ち着いてきた。

目を開けると、僕の方をぼんやり見つめた。

「……電話、貸して」

かすれた声だった。

僕は電話を渡し、彼女はゆっくりと数字を押した。

母親に僕の名前を告げて、酔い過ぎて動けないので僕の家に泊まると言った。

母親は僕と面識があったので、すんなり了解したようだった。


電話を切ると、彼女はしばらく天井を見つめていた。

その横顔が、どこか泣きそうに見えた。


「どうして、あんなに苦しくなるまで飲んでたの?」

僕は呆れるように訊いた。

「だって……セナが死んじゃったんだよ」

彼女は哀しげな声で振り絞るように言った。

そう、音速の貴公子と呼ばれたF1ドライバー、アイルトン・セナがレース中に事故死した。

母国・ブラジルだけでなく、圧倒的な人気のあった日本でも哀しいニュースが飛び交っていた。

セナの事故死を境に、何かが静かに変わり始めた気がした。


僕は枕元に冷えた水の入ったポットを置き、電気を消した。

ステレオを止めようとしたら、彼女は「止めないで」とかぼそい声で制止した。

オートチェンジャーに10枚のCDを入れた。

全部、ジャズ──それもピアノがメインのものばかりだ。

ビル・エヴァンス、キース・ジャレット、チック・コリア、ハービー・ハンコック。

静かなピアノの音が部屋に広がり、夜の冷たさを少しだけ和らげた。


5月にしては、かなり冷え込んだ夜だった。

毛布一枚にくるまっていた僕にはかなり堪える寒さだった。

時々、目を開けて彼女を見ると、苦しそうな表情の時も、穏やかな寝顔の時もあった。

部屋にはピアノの音が静かに流れていた。


僕はベッドにもたれて、眼を閉じた。

眠りはすぐに訪れた。


挿絵(By みてみん)


彼女が28階のレストランで訊いた「あの時、どうして何もしなかったの?」のとおり、

何事もなく朝を迎えた。彼女はその理由を知りたがった。

目の前のパフォーマーは、まだピアノ・マンを演奏していた。

僕はアコーディオンに合わせて口ずさんだ。

大層な理由はなかったけど、単純に色々考えたら面倒臭くなった、というのが本音だった。

しかし、そんな事は口が裂けても言えないと思い

「酔い潰れたのを抱くんじゃ、酒に嫌な思い出が残るんじゃない?

 そう思ったら可哀想だと思って何もしなかった」

と彼女に告げた。20%ぐらいは正解だった。

その他の理由を口にしたら彼女を怒らせるだけだろう。


「親に電話した後だから、手を出せなかったんじゃない?

 あとで友達にはそう言われたけど」

「それはないね」

むしろ、彼女の母親は僕たち二人の関係については好意的で積極的だったからだ。

「好きな人だから……あの時も泊まっていったし、抱かれてもいいと思ってた」

その言葉は、夜の静けさよりも強く胸に響いた。

彼女は小さな声で呟くように言った。


海から強く冷たい風がビュッと吹いた。

風を避けながら、僕の方に潜り込んで彼女は抱きついてきた。

彼女は僕の胸にさらに身体を寄せ、腕を回してきた。

その抱きつき方は、迷いがなくて、まるで4年間の空白を埋めるようだった。

「……ずっと、こうしたかったんだよ」

彼女の声は、涙の手前で震えていた。

僕は彼女の背中に手を回し、ゆっくりと抱き寄せた。

その瞬間、彼女は小さく息を呑んだ。


彼女が僕の胸に顔を埋めた。

僕はその髪をゆっくり撫でた。

彼女が顔を上げた。

目が合った。

今度は、どちらからともなく唇を重ねた。

ほんの短いキスだった。

それだけで、空白が少しだけ埋まったような気がした。


夜の冷たさはもう感じなかった。

4年間の空白を埋めるように、

その夜、僕たちは初めて互いの体温を確かめ合った。

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