水上バス
「アイルトンが死んだからだよ」僕は呟くように答えた。
「そうだよね。あの日はセナが死んじゃったんだよね」
彼女は記憶を呼び戻すように天井を見つめた。94年5月、アイルトン・セナが死んだ。
店を出てエレベーターに乗ると、彼女は僕の左側に自然と立った。
昔からそうだった。人混みでは必ず僕の左に寄る。
扉が閉まる瞬間、彼女の肩が軽く触れた。
その小さな接触が、妙に懐かしく胸に残った。
地上へ降りると、台風の影響で風が強かった。
彼女は「こっちだよ」と言いながら、スルッと僕の左側に回り込んで腕を組んできた。
その動きがあまりにも自然で、僕は驚くよりも先に、体温の近さに意識を奪われた。
「寒いね」
「ん。ニューヨークもこれから冬だよ」
「私より英語苦手だったあなたが、ニューヨークで生活して仕事してるっておかしい」
「そうだね。それは自分でもそう思うよ」
彼女は笑いながら、組んだ腕に少し力を込めた。
風が吹くたびに、彼女の肩が僕の腕に寄りかかる。
そのたびに、大学時代の曖昧な距離感が、少しずつ溶けていくようだった。
水上バスの乗り場に着くと、係員が怪訝な顔をしている。
台風の影響で欠航を決めたらしい。
「乗りますか?」と嫌そうな表情で訊ねる。
「YES」僕は皮肉っぽく英語で答えた。
「これに乗るのを毎晩夢見てたんだ」と英語で言うと、
彼女はクスッと笑い、僕の腕を軽く叩いた。
結局、僕たち二人だけが乗船した。
元々、山下公園へ戻る便だったため、運賃も無料にしてくれた。
船内はほとんど照明が落とされ、窓の外の夜景だけがぼんやりと浮かんでいた。
僕たちは並んで座った。
座った瞬間、彼女は自然と僕の肩に寄りかかった。
「風、冷たいね」
「うん。横浜ってこんなに寒かったっけ」
「寒いと、こうしたくなるんだよね」
そう言って、彼女は僕の腕に自分の手をそっと添えた。
その手は少し冷たくて、僕は反射的に手を重ねた。
彼女は驚いたように僕を見て、すぐに柔らかく笑った。
「どうしてニューヨークだったの?」
彼女は僕の肩に寄りかかったまま訊いた。
声が近い。息が触れるほど近い。
「クミコ先生が推薦してくれたんだ」
「授業のレポート見て『視点が面白い』って興奮して、勝手に推薦状書いてたんだよ」
21歳の秋に「遊びにいらっしゃい」と誘われたニューヨーク。
僕の知らぬ間に、ニューヨーク留学の手続きが進んでいた。
僕はMSGでビリー・ジョエルを観たかっただけなのに。
「そうだったんだ」
彼女は僕の手の甲を軽くなぞるように触れた。
癖なのか、安心した時にこうして触れてくる。
大学時代にも、時々こうして僕の袖を引っ張ったりしていた。
水上バスから眺める横浜の夜景は見事だった。
漆黒の闇から浮かび上がる光が、静かに揺れている。
彼女はその光景を見ながら、僕の肩に頭を預けた。
「こういうの、好きなんだよね。夜景って」
「知ってるよ」
「覚えてるんだ」
「そりゃ覚えてるよ」
彼女は嬉しそうに僕の腕を軽くつねった。
その仕草があまりにも自然で、僕は思わず笑ってしまった。




