マイアミの奇蹟
2024年9月19日。フロリダ州マイアミ、ローンデポ・パーク。
空気は湿り気を帯び、スタジアムの外には熱気と期待が渦巻いていた。
大谷翔平が前人未到の「50本塁打・50盗塁」に迫る歴史的な一戦。
この日までに48本塁打・49盗塁を記録していた。
アメリカ中のスポーツファンが、この日を待ち望んでいた。
僕がここにいるのは、まったくの偶然だった。
本来は別の編集者が日本からの「大谷観戦ツアー」のアテンドを担当する予定だったが、
急遽僕に代役が回ってきたのだ。
「頼む、キース。お前しかいない」
編集長のその一言で、僕は慌ただしく荷物をまとめ、ニューヨークからマイアミへ飛んだ。
取材ではなく、アテンド。しかも日本からの団体客。普段の僕なら断っていたかもしれない。
だが、この日はなぜか「行かなければならない」と感じた。理由はわからない。
ただ、胸の奥で何かが静かに動いていた。
スタジアムに到着すると、日本からのツアー客たちは興奮した様子で写真を撮り、
「今日は打つぞ」「盗塁もあるぞ」と口々に話していた。
僕はその後ろを歩きながら、久しぶりに「観戦者としての野球」を感じていた。
自分の席を探すと、僕の隣の席にはすでに誰かが座っていた。
キャップを深くかぶり、大谷の背番号17のユニフォームを着た女性。
横顔は見えない。ただ、どこか懐かしい雰囲気があった。
僕は軽く会釈し、席に座った。その瞬間、彼女がゆっくりと顔を上げた。
「……響佑?」
日本名の名前を呼ばれたのは何年振りだろうか。
そして、その声は、26年前の横浜の夜と同じ響きを持っていた。
僕は息を呑んだ。
「……友梨?」
僕も彼女の日本名を呼んだ。彼女はキャップを外し、驚きと喜びが入り混じった表情で僕を見つめた。
スタジアムの喧騒が一瞬だけ遠のいたように感じた。
「なんで……ここに?」
彼女は震える声で言った。
「日本からの観戦ツアーのアテンドで。急遽代役で来たんだ」
僕が答えると、彼女は信じられないというように笑った。
「私は……ただ応援に来ただけ。ロスから」
偶然。いや、偶然という言葉では足りない。時間が、僕たちをここへ連れてきた。
そんな確信が胸の奥に広がった。
試合が始まると、スタジアムは地鳴りのような歓声に包まれた。
大谷翔平が打席に入るたび、観客は総立ちになり、期待と緊張が空気を震わせた。
第一打席、大谷は初球から積極的に振っていった。
彼女は手を握りしめ、僕はその横顔を横目で見ながら、心臓が妙に早く鼓動しているのを感じていた。
「打つよ……今日は絶対に」
彼女が小さく呟いた。
僕はその声に、かつて横浜で聞いた「あなたはどこに向かってるの?」という声を重ねていた。
カウント2-2からの5球目、大谷のバットから放たれた打球は右中間へ。ツーベースヒットで出塁。
ベッツが倒れ、フリーマンが四球を選び、一死一、二塁で4番ウィル・スミスの打席。
何か特別めいたものを感じさせる予感があった。スタジアム全体が息を呑む。
彼女は身を乗り出し、僕も思わず前のめりになった。
「行く……行くよ……」
彼女の声は震えていた。
初球、大谷がスタートを切った瞬間、スタジアムが爆発した。完璧なスタート。完璧なスライディング。
彼女は僕の腕を掴んだ。その感触は、1998年の水上バス乗り場で腕を組んできた時と同じだった。
三塁手のタッチを右足のつま先で上手にかわし、塁審はセーフのコール。
ダブル・スチールを決め「シーズン50盗塁」を達成した。
記念の三塁ベースが記念に取り外され保管となり、新しいベースに交換された。
その興奮が冷めやらぬ中、犠牲フライで大谷が先制のホームを踏んだ。スタジアムが揺れた。
彼女は僕の腕を掴んだ。
「すごい……」
その温もりだけで、1998年の横浜へ戻ってしまった。
2回二死一、二塁での第二打席はライト前にタイムリー・ヒット、二塁からマンシーが生還、
続くベッツの打席に今季51盗塁目を記録。試合開始からまだ20分、
サイクルヒットでも達成するんじゃないか、そんな空気がスタジアムに蔓延していた。
そして、僕の胸の奥で何かが静かに、しかし確実に動き始めていた。
3回二死一、三塁での第三打席、左中間を深々と破ると二者が生還し、
大谷も二塁を蹴って三塁に向かうが、惜しくもタッチアウト。彼女は僕の方を見て言った。
「ねぇ……なんか変だよね」
「何が?」
「あなたとこうして隣に座ってるのが……自然すぎて」
僕は言葉が出なかった。ただ、彼女の瞳を見つめるしかなかった。
スタジアムの喧騒の中で、僕たちの間だけが静かだった。
6回表、「48本塁打・51盗塁」で迎えた第四打席、ホームランを願うファンで総立ちのスタジアム。
その期待に応えるように打球は右中間スタンド中段へ飛び込む49号のツーラン・ホームラン。
スタジアムは興奮を通り越した異様な雰囲気に包まれていった。
このホームランはドジャースのシーズン記録に並んだのだが、それすら通過点に感じていた。
3回のタッチアウトがセーフなら、ここでサイクルヒット達成だった、という声も聞こえていた。
続く7回表、大谷の第五打席。誰もが息を呑んでいた。
カウント1-2からの4球目、大谷のバットがしなり、白球が夜空へ吸い込まれていった。
打球が僕たちの座るレフトスタンドへと向かってくる。
「やった……!」
彼女が叫んだ。
僕も立ち上がり、白球の軌道を追った。
僕たちの頭上を通り越してスタンドイン。
50号。
スタジアムが揺れた。歓声が波のように押し寄せ、人々が抱き合い、叫び、涙を流していた。
彼女は思わず僕の腕を握る。
少し遅れて抱き合う。
その時、お互い少し戸惑う。
そして笑う。その瞬間、26年間の距離が一気に消えた。
大谷の三打席連続ホームランという劇的な「50-50」達成の興奮が冷めやらぬスタジアムで、
僕たちはまだ隣に座っていた。場内の熱気が少しずつ冷めていく中で、彼女は静かに言った。
「ねぇ……今日、あなたに会えてよかった」
「僕もだよ」
その言葉に、彼女は静かに頷いた。もう、急いで取り戻す時間はなかった。
これから積み重ねていく時間だけが、僕たちの前に広がっていた。僕は彼女の手をそっと握った。
彼女は僕の手を握り返した。
26年前、横浜の水上バス乗り場で、彼女は僕の腕を組んだ。
今は違う。
僕たちはもう若くない。遠回りも、別れも、喪失も知っている。
それでも、その手の温もりだけは変わらなかった。
マイアミの夜空を見上げながら、ふとビリー・ジョエルの「マイアミ2017」を思い出した。
ニューヨークを遠くから振り返る歌だった。
けれど今、僕はそのニューヨークを離れることよりも、目の前にいる彼女のことを考えていた。
スタジアムの夜空には、まだ歓声の余韻が残っていた。
その下で、僕たちは静かに、しかし確実に、再び歩き始めていた。




