西海岸と東海岸
ロサンゼルスの朝は、いつも光が強かった。
雲ひとつない空から降り注ぐ陽射しは、東北の灰色の空とはまったく違う色をしていた。
彼女はその光を浴びながら、ゆっくりと深呼吸をした。
「ここで、もう一度生き直す」
そう決めて渡米したのは、2012年の春だった。
最初の数ヶ月は、慣れない生活に戸惑うことばかりだった。
英語は話せるはずなのに、西海岸のスラングやスピードに苦戦し、スーパーで買い物をするだけでも緊張した。
夜になると、横浜や松島の海を思い出して涙がこぼれた。
それでも、彼女は少しずつ前へ進んだ。
小さなアパートの一室で英語教室を始め、近所の子どもたちが集まるようになった。
「日本の英語の先生は発音がきれいね」と言われるたび、胸の奥が少しだけ温かくなった。
生徒が増えるにつれ、彼女はコミュニティに溶け込んでいった。
保護者たちと話し、地域のイベントに参加し、週末にはサンタモニカの海岸を散歩した。
波の音は東北の海とは違い、どこか軽やかだった。
「時間って、少しずつ癒すんだね」
彼女はそう言った。
その言葉は、かつて横浜で僕に向けて言った「あなたは抜け殻みたい」という言葉とは違い、
自分自身に向けた静かな励ましだった。
ロスでの生活は、彼女をゆっくりと再生させていった。
英語教室は口コミで広がり、地域の新聞に取り上げられ、新しい友人も増えた。
彼女は40代半ばを迎える頃には、「ここが自分の居場所だ」と自然に思えるようになっていた。
しかし、夜になると、ふとした瞬間に1998年の横浜の夜を思い出すことがあった。
水上バスの乗り場で腕を組んだあの感触。
港の見える丘公園で見上げた青い空。
「あなたはどこに向かってるの?」と問いかけた自分の声。
その記憶は、痛みではなく、静かな余韻として胸の奥に残っていた。
一方の僕は、ニューヨークで再生の道を歩いていた。
妻を失った後、しばらくは何も手につかなかった。編集部に戻っても、資料を開いたままページをめくれず、コーヒーの匂いが妻の職場の記憶を呼び起こし、胸が締め付けられる日が続いた。
それでも、時間は少しずつ僕を前へ押し出した。
法律相談コーナーは読者からの反響が大きく、「あなたの記事に救われた」という手紙が届くようになった。その言葉は、僕の抜け殻のような心に、少しずつ血を通わせていった。
編集部の仲間たちは、僕をそっと支えてくれた。深夜のオフィスでジャズを流しながら作業をしていると、誰かがコーヒーを置いてくれたり、「無理すんなよ」と肩を叩いてくれたりした。
ニューヨークの街は、喪失を抱えたまま生きる人々で溢れていた。
その中で、僕は自分だけが特別な痛みを抱えているわけではないと気づいた。
それが、再生の最初の一歩だった。
40代になり、僕は編集者としての仕事に深い充実感を覚えるようになった。
若い記者を育て、新しい企画を立ち上げ、読者の声を拾い上げる。
泥臭く、地味で、派手さはないが、「言葉で人を支える」という仕事に誇りを感じていた。
週末にはセントラル・パークを歩いた。
空を見上げると、1998年に彼女と話した「ニューヨーカーは空を見ない」という言葉を思い出した。
あの頃の僕は、空を見る余裕がなかった。今は、空を見ることができる。
それが、自分が少しずつ再生している証のように思えた。
夜になると、ふとした瞬間に1998年の横浜の夜を思い出すことがあった。
あの夜の横浜は、今でも僕の中で静かに灯り続けていた。
ニューヨークとロサンゼルス。
東海岸と西海岸。
僕たちは互いを知らないまま、それぞれの人生を歩いていた。
それでよかった。
あの頃には分からなかったことを、時間が少しずつ教えてくれていたからだ。
その先で再び同じ場所に立つことになるとは、そのときの僕たちは、まだ知らなかった。
2024年9月、ニューヨークではアーロン・ジャッジの記録的な打棒に引っ張られ、
ヤンキースはア・リーグの大本命だった。
編集の後輩に「やはり日本人だから、大谷を応援するのか」と訊かれたが
「ニューヨーカーには愚問だ」とだけ答えた。
そう答えたものの、大谷翔平が歴史を変える瞬間だけは、この目で見ておきたいとも思っていた。
一方ロサンゼルスでは、
「今年のドジャースは特別ね」
と彼女がテレビに向かってつぶやいていた。
ニューヨークとロサンゼルス。
それぞれ違う街で、違うチームを見つめながら、それでも僕たちは同じ歴史の訪れを待っていた。
その歴史の一日が、僕たち自身の人生を大きく変えることになるとは、まったく想像できなかった。




