灰色の海
同じ頃――彼女は建築家と結婚し、東松島へと移り住んでいた。
穏やかで優しい夫とともに海の見える場所に事務所兼住宅に英語教室を併設し、慎ましくも満たされた生活を送っていた。二児の母となり、1998年の横浜の夜は、過ぎ去った青春の愛おしい一コマとして、胸の奥深くにしまわれていた。
英語教室は口コミで広がり、地域の子どもたちが彼女のもとに集まった。
家の前には季節ごとに花が咲き、冬には子どもたちが雪だるまを作り、春には庭のチューリップが風に揺れた。彼女の生活は、静かで、温かく、満たされていた。
だが、時間という不条理は、彼女のもとにも容赦なく訪れた。
2011年3月11日。
東日本大震災に伴う大規模な津波が、東北の沿岸部を襲った。
入院中の母の見舞いで横浜にいた彼女は無事だったが、夫と二人の子どもとは連絡がつかなった。
何度掛けても繋がらない電話。確認できない存在。
どこにいるのか、生きているのかわからずに眠れない夜を2日過ごした。
13日、意を決して新潟から山形を経由して仙台まで戻ってきた。
それでも東松島まではたどり着かなかった。
翌日、ようやく東松島へ入ることができた。そこにあったのは、知っている街ではなかった。
家は流され、夫は行方不明になり、二人の子どもも避難途中で波に巻き込まれたことを知った。
彼女は瓦礫の中で泣き叫ぶこともできず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
冷たい風が吹きつけ、空は灰色で、世界が音と色を失ったようだった。
「どうして……」
彼女は何度も呟いた。その声は誰にも届かず、ただ海風に消えていった。
行方不明の夫を探し、避難所でのボランティア活動を手伝った。
配給されたパンを配り、年配者の面倒を見、親とはぐれた見知らぬ子どもたちの面倒を見た。
何かをしていないと最悪の事ばかりを考えてしまうのが怖くて、必死に身体を動かしていた。
彼女自身に配給されたパンも、子どもたちの分をと残してしまったり、背格好の似た姿に駆け寄ったりしてしまう。夜になると夫と子どもの名前を呼んでしまう。そんな日々が繰り返された。
繰り返す日々の中で、彼女はもう気付いていた。
どれほど丁寧に積み上げた幸せであっても、人生は予定通りには進まないのだと。
大切なものは、ある日突然、過去へと押し流されてしまう、奪い去ってしまうのだと。
「いってらっしゃい」「またね」と言った人が、もう帰ってこない、という現実を。
時間は、人を待ってはくれない。だからこそ、人は前へ歩くしかない。
喪失の痛みはあまりにも大きく、同じ景色を見続けることが耐えられなかった。
彼女は、
「日本ではもう立ち直れない」
と感じるようになった。
半年が過ぎても、海は何も返してくれなかった。
何度足を運んでも、名前を呼んでも、返事はない。彼女はようやく決めた。
「ここでは、もう生きていけない」
英語を教える力を生かし、アメリカでやり直そう。
ニューヨークではない。ロサンゼルスだった。
「ニューヨークは記憶が重すぎる」
だから彼女は、西海岸へ向かった。太平洋の向こう側へ。
もう一度、生きるために。




