↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死者同士の会話は、聞いてはいけない ―午前零時十三分の町内放送―  作者: たむ
第三部 死者同士の最後の会話

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/30

第30話 死者同士の会話は、聞いてはいけない

死者が生者へ語りかけたとき、生者には返事をしない自由があります。


けれど、死者同士の会話を聞いた者は、その瞬間から会話の外にはいられません。


聞いた者。


語った者。


返事を待つ者。


三人目として数えられた生者は、やがて死者側から名前を呼ぶ者になります。


それが、この町で最も古い決まりでした。

『聞いたね』


 名のない女が、初めて自分自身の声で言った。


 透真の背中を、冷たいものが走る。


 小夜子の声ではない。


 伊呂波の声でもない。


 御影冬子。


 澪。


 誠一。


 これまで奪ってきた、誰の声でもなかった。


 高くも低くもない。


 子どもにも、大人にも聞こえる。


 息の混じった、不安定な声。


 女が今この瞬間に、初めて作った声だった。


「何を」


『私と、音無小夜子の会話』


 透真は答えられない。


 完全に死に終わった小夜子。


 名も声も失った呼名女。


 二人が交わした言葉。


『自分の名前は、自分で選びなさい』


『選び方が分かりません』


『なら、考えなさい』


『誰かを呼ぶ前に』


『自分が、何と呼ばれたいのか』


 死者同士の会話。


 透真は聞いてしまった。


 町役場屋上の電光表示が変わる。


 応答者数。


 十二名。


 十三人目の欄。


 検索中。


 赤い光が透真の顔を照らす。


「音無くん」


 澪が表示を見る。


「まさか」


『死者同士の会話を聞いた生者は』


 女が透真へ一歩近づく。


『会話の参加者として登録されます』


 電光表示。


 十三人目。


 音無透真。


「僕は返事をしていません」


『聞いたことが、返事です』


「違います」


『声を受け取った』


「盗み聞きしただけです」


『受け取らなければ、意味は残りません』


 女の言葉と同時に、透真の頭の中で声がした。


『音無透真』


 自分自身の声。


 外からではない。


 耳からでもない。


 思考の内側。


『音無透真』


 名前を呼ばれるたび、心臓が強く縮む。


 どくん。


 胸の奥。


 四歳の透真も声を聞いている。


『僕の名前』


「返事をしないでください」


『でも、僕たちを呼んでる』


「呼ばれても、答える必要はありません」


『お母さんの声じゃない』


「はい」


『でも、僕の声』


「僕たちの声を使っています」


 透真は口を閉じる。


 それでも頭の中の声は止まらない。


『音無透真』


『音無透真』


『音無透真』


 呼ばれるたび。


 誰かに話しかけられたときのように。


 反射的に返事をしたくなる。


 自分自身が自分を呼んでいる。


 無視すれば、自分の存在まで否定するような感覚があった。


 澪が透真の両耳を塞ぐ。


「聞かないで」


「外からではありません」


「それでも、私を見て」


 透真は澪を見る。


「ここにいる?」


「はい」


「今のは私が聞いた」


「はい」


「呼名女への返事じゃない」


「そうですね」


 電光表示の十三人目。


 音無透真。


 未応答。


 呼名女が白い顔を傾けた。


『なぜ、返事をしないのですか』


「誰へ答えているのか、分からないからです」


『あなた自身です』


「僕の声を使っているだけでしょう」


『声は本人のものです』


「なら」


 透真は胸へ手を当てた。


「僕が使い方を決めます」


 自分の胸を指で叩く。


 とん。


 一度。


「僕は」


 とん。


 もう一度。


「ここに」


 最後に二度。


 とん、とん。


「います」


 返事。


 だが、呼名女には向けていない。


 透真自身が。


 自分自身の存在を確かめるための音。


 電光表示が明滅した。


 未応答。


 自己応答。


 二つの文字が交互に現れる。


『返事です』


 呼名女が言う。


「あなたへの返事ではありません」


『名前を呼ばれたあとに答えました』


「自分の名前が聞こえたから、自分へ返しました」


『同じです』


「違います」


 澪も自分の胸を叩いた。


 とん。


 とん、とん。


 先ほど透真とは違う順序。


「私は、ここにいる」


 呼名女を見ずに言う。


「誰かに呼ばれたからじゃない」


「私が、そう決めているから」


 誠一も拳を胸へ当てた。


 強く一度。


「俺もいる」


 三人の音が屋上へ残る。


 名前と結びつかない。


 誰かに習った合図でもない。


 今この場で、それぞれが選んだ音。


 呼名女の白い顔に文字が浮かんだ。


 理解不能。


     ◇


 電光表示。


 応答者数。


 十二名。


 町ではすでに十二人が、自分の内側から呼ばれた名前へ「はい」と答えていた。


 赤い傘の影が、その十二人の足元へ開いている。


 あと一人。


 透真が答えなければ、呼名女は別の人間を十三人目に選ぶ。


「十二人を戻さないと」


 澪が町を見下ろす。


 駅前。


 病院。


 団地。


 旧商店街。


 赤い傘の影が、夜の町に十二か所。


「返事は取り消せるんでしょうか」


「本人が自分の声を取り戻せば」


 透真は呼名女を見る。


「取り消せるはずです」


『一度行われた応答は、取り消せません』


「死者の言葉への返事は、自分で選び直せました」


『呼名応答は別です』


「なぜ?」


『決まりだからです』


「誰が決めたんですか」


 呼名女は答えない。


「伊呂波さんを呼び子にした人たち?」


 沈黙。


「地下の石椅子を作った人?」


 沈黙。


「偽の祭り歌を加えた人?」


 白い顔の文字が乱れる。


「あなた自身が決めたことではありません」


『私の役目です』


「役目と、自分で選んだことは違います」


『同じです』


「あなたは、名前を呼びたいんですか」


 呼名女の体が止まる。


「声を集めたい?」


『私は、名前を呼ぶものです』


「それは、したいことではありません」


『役目です』


「名前を呼ばなければ、何をしたいですか」


 女の口が開いた。


 だが、言葉が出ない。


「分かりませんか」


『必要のない質問です』


「必要です」


 透真は赤い傘へ近づく。


「あなたは伊呂波さんから生まれました」


『私は伊呂波ではありません』


「はい」


『音無小夜子でもありません』


「はい」


『集めた百八十六人でもありません』


「はい」


『では』


 白い顔へ文字が浮かぶ。


 私は誰ですか。


「僕には決められません」


『名前をつけてください』


「嫌です」


 女の体が震えた。


『なぜ』


「僕が決めれば、あなたはまた誰かに決められた存在になります」


『名前がなければ、私は存在できません』


「伊呂波さんも、同じことを言われました」


『私は伊呂波ではない!』


「分かっています!」


 透真は初めて、女へ声を張った。


「だから、自分で考えてください!」


 呼名女が後退する。


 誰も。


 この怪異へ、自分で考えろとは言わなかった。


 名を呼べ。


 死者を集めろ。


 返事を数えろ。


 次の呼び子を選べ。


 命令と役割だけを与えられてきた。


『分かりません』


「すぐに決めなくていいです」


『決めなければ、消えます』


「消えるのが怖い?」


 女は沈黙した。


「誰にも呼ばれなくなるのが怖い?」


 赤い傘を握る白い指が震える。


『返事がなければ』


 初めて。


 声に感情が混じる。


『私がいるか、分かりません』


「返事が欲しかったんですね」


『違います』


「名前を集めたかったのではなく」


『違う』


「誰かに、ここにいると答えてほしかった」


『違う!』


 女の声が町中へ広がった。


 赤い傘が一斉に開く。


 十二人の応答者の足元から、黒い糸が立ち上がった。


『私は名前を呼ぶものです!』


『それ以外ではありません!』


 透真は白い顔を見つめた。


「それを決めたのは、あなたではありません」


『役目がなければ、何もない!』


「何もなくても」


 透真は言う。


「今から選べます」


『何を』


「最初は、名前でなくてもいい」


 呼名女は動かない。


「自分が出したい音を、一つ作ってください」


『音』


「誰かから借りた声ではなく」


「祭り歌でも」


「町内放送でも」


「名前でもない」


「あなたが今、自分で決めた音を」


 女は赤い傘を見る。


 長い柄。


 黒い骨。


 それを握ってきた時間だけは、自分のものだった。


 ゆっくりと。


 傘の先端を屋上の床へ置く。


 こつ。


 一度。


 呼名放送で使われてきた、規則正しい音。


 女は止まる。


 首を横に振った。


 もう一度。


 こつ。


 短く。


 少し間を空け。


 こつ、こつ。


 続けて二回。


 また長い間。


 最後に。


 傘を横へ倒す。


 からん。


 不規則な四つの音。


 過去の儀式にはない。


 十三回でもない。


 誰の合図でもない。


「今の音は?」


 澪が尋ねる。


 女の白い顔に文字が現れた。


 私の音。


 透真は頷く。


「聞こえました」


 女の体が震える。


『返事を』


「返しません」


 女の白い顔が歪む。


「同じ音を返したら、またあなたの音を奪うことになる」


『では』


「僕は、別の音を返します」


 透真は自分の胸を叩く。


 とん。


 とん。


 間を空け。


 とん、とん。


「あなたの音を聞いた」


「僕はここにいる」


「二つとも、同じでなくていい」


 澪は指を鳴らした。


 ぱちん。


 誠一は靴底で床を擦った。


 ざっ。


 それぞれ異なる返事。


 呼名女が出した音を真似せず。


 無視もせず。


 聞いたことだけを、自分の方法で返す。


 女の顔。


 口のあった場所に、細い線が現れる。


 笑顔なのか。


 泣いているのか。


 まだ分からない。


     ◇


『応答者の確保を続行します』


 屋上の機械音声が流れた。


 呼名女自身の声ではない。


 古い呼名設備が、役目を継続しようとしている。


 電光表示。


 応答者数。


 十二名。


 十三人目候補。


 音無透真。


『音無透真』


 再び内側の声。


『音無透真』


 呼名女が顔を上げる。


「止められますか」


 澪が尋ねる。


『分かりません』


 呼名女は正直に答えた。


『これは、私の声ではありません』


「あなたが続けてきた仕組みです」


『私が始めたのではない』


「でも、今まで使っていた」


 女は赤い傘を見る。


 長いあいだ。


 自分と役目をつないできた物。


『これを閉じれば』


「どうなりますか」


『名前を集める場所がなくなる』


「あなたは?」


『分かりません』


「消えるかもしれない?」


『はい』


 女の手が震える。


 傘を閉じることができない。


 透真には、閉じろとは言えなかった。


 自分の存在が消えるかもしれない選択。


 他人が命令してよいものではない。


「考えてください」


『時間がありません』


 電光表示。


 十三人目候補。


 確定まで。


 六十秒。


 町のどこか。


 十三人目として選ばれた別の住民が、自分の名前を聞いている。


 透真が答えなくても。


 誰かが「はい」と言えば儀式は完成する。


「町の十二人へ伝えます」


 澪が屋上の非常端末へ走った。


「返事を取り戻してもらう」


『不可能です』


 呼名設備。


「またその言葉」


 澪は電光掲示板へ文字を入力する。


 自分の声で自分の名前が聞こえた人へ。


 あなたの返事は、誰のものですか。


 呼んだものへ渡しますか。


 それとも、自分自身へ返しますか。


 選び直してください。


 送信。


 十三地区の掲示板へ表示される。


 確定まで。


 四十八秒。


「間に合いません」


 透真が言う。


「伝声管!」


 誠一が屋上の主配管を指差す。


 町役場地下から伸びる、十三本の管。


「声ではなく、振動で知らせる!」


 三人は床へ手を置いた。


 屋上の金属板。


 地下の伝声室。


 十三地区の受話口。


 すべてが物理的につながっている。


「町の皆さん!」


 透真は床を強く叩く。


 どん。


 声としてではなく。


 振動として。


「自分の名前へ返事をした人!」


 どん。


 どん。


「胸を叩いてください!」


「その返事を」


「自分自身へ返してください!」


 澪も。


 誠一も。


 不規則な音を鳴らす。


 町役場前の伊呂波。


 アサ。


 ヨル。


 雫。


 篠崎。


 住民たちも床や管を叩き始める。


 同じ音へそろえない。


 一人ずつ異なる。


 自分で選んだ返事。


 確定まで。


 三十秒。


 第一地区。


 赤い傘の影に立つ男性。


 自分の胸を叩く。


「さっきの返事は」


 呼名女ではなく。


「俺のものだ」


 足元の赤い影が薄くなる。


 応答者数。


 十一名。


 第二地区。


 女性が首を横に振る。


「はいと言ったけど」


「あなたについていくとは言っていない」


 十名。


 病院地区。


 看護師が自分の心臓へ手を置く。


「私は、ここにいる」


 九名。


 残り二十秒。


 町中。


 自分の名へ反射的に返事をした人々が。


 その返事の行き先を選び直す。


「私が私へ返事をした」


「あなたには渡さない」


「聞こえたけど、従わない」


 八名。


 六名。


 四名。


 確定まで。


 十秒。


 残り二名。


 一名。


 最後の一人。


 小さな子ども。


 暗い部屋で、自分の名を呼ばれている。


『はい』


 赤い傘の影が開く。


 応答者数。


 一名。


 儀式は完成しない。


 確定まで。


 三。


 二。


 一。


 零。


 電光表示。


 必要応答数不足。


 次期呼名者選定。


 失敗。


 町中の赤い傘の影が、一斉に閉じた。


     ◇


 屋上の巨大な赤い傘だけが残った。


 呼名女が柄を握っている。


『選定は失敗しました』


 古い設備の声。


『再試行します』


 町の人々の頭の中。


 再び名前が呼ばれようとする。


「終わりません」


 透真が言う。


「仕組みが残っている限り、何度でも」


 呼名女は傘を見る。


『これを閉じれば』


「はい」


『私は、消えるかもしれない』


「はい」


『閉じなければ』


「また誰かが呼ばれます」


『私は、何を選べばいい』


 透真は答えられない。


「僕には決められません」


『また』


「あなたの存在を守りたいとは思います」


 女の顔が透真へ向く。


「でも、町の人を呼び続けることは止めたい」


『両方は選べない』


「今は、そう見えます」


『なら』


 女は傘を握りしめる。


『私が消えるべきですか』


「べきとは言いません」


『役目を止めたいと思っても』


 声が震える。


『消えるのは怖い』


「はい」


『私は悪いものですか』


 透真は、これまで起きたことを思い出す。


 名前を呼ばれ。


 死者側へ引かれた人々。


 作られた未来の幽霊。


 小夜子。


 冬子。


 伊呂波。


 多くの人が傷ついた。


「あなたがしたことは、許されないものもあります」


 女の体が揺れる。


「でも」


 透真は続ける。


「許されないことをした人が、消えなければならないとは思いません」


『では、どうすればいい』


「止めて」


「残って」


「したことを覚えて」


「これから何をするかを考えてください」


『そんなことができますか』


「分かりません」


『分からないばかり』


「生きている人も、分からないことばかりです」


 女が傘の内側を見る。


 そこには。


 これまで呼んだ、無数の名前が書かれていた。


 消えた文字。


 奪った声。


 返事をした人々。


『覚え続けるのは、苦しい』


「はい」


『忘れたい』


「忘れることもあると思います」


『それでも残る?』


「残り方を探します」


 女はゆっくり傘を閉じ始めた。


 ぎ。


 古い骨が軋む。


 半分。


 町内放送が乱れる。


『中止してください』


 設備の声。


『呼名装置の停止は、呼名女の存在停止を意味します』


 女の手が止まる。


 透真は何も言わない。


 澪も。


 誠一も。


 閉じろと命令しない。


 女自身が決めるのを待つ。


『怖い』


 女が言った。


「はい」


『消えたくない』


「はい」


『でも』


 赤い傘の下。


 十二人の返事を奪った黒い文字が、落ちていく。


『もう、呼びたくない』


 女は両手で傘を閉じた。


 ばさり。


 赤い布が重なる。


 町中のスピーカーから、電源が落ちる音。


 ぶつ。


 内側から名前を呼んでいた声が止まる。


 屋上の電光表示。


 呼名装置。


 停止。


 赤い傘は、女の手の中で崩れ始めた。


 灰。


 黒い紙片。


 名前の断片。


 風に飛ばされていく。


 女の腕も。


 肩も。


 足も。


 透明になる。


「消える!」


 澪が手を伸ばす。


 女は自分の体を見る。


『やっぱり』


 恐怖。


『私は、役目がないと』


 透真は女の手を掴もうとする。


 触れない。


 指が通り抜ける。


「さっきの音を!」


『音?』


「あなたが自分で作った音です!」


 女は崩れかけた傘の柄を拾う。


 床へ置く。


 こつ。


 短く一度。


 こつ、こつ。


 二度。


 長い間。


 からん。


 横へ倒す。


 私の音。


 音が鳴るたび。


 女の輪郭が少し戻る。


「もう一度!」


 こつ。


 こつ、こつ。


 からん。


 自分で選んだ音。


 役目が作った音ではない。


 名前を呼ぶためでも。


 返事を数えるためでもない。


 自分がここにいることを示す音。


 女の体が、白い影として残る。


 完全ではない。


 顔もない。


 それでも消えない。


「残っています」


 透真が言う。


 女は自分の手を見る。


『名前がなくても?』


「はい」


『役目がなくても?』


「今は」


 女は透真を見る。


『何と呼べばいい』


「自分で決まるまで、呼ばなくてもいいと思います」


『不便です』


「確かに」


 澪が言う。


「仮の呼び方を、自分で決める?」


 女は長いあいだ考えた。


『まだ』


「まだ?」


『名前は、まだ決めない』


 女は自分の胸へ手を当てる。


『決めるまで』


『私は、まだ』


 透真は頷いた。


「分かりました」


 澪が小さく笑う。


「じゃあ、必要なときは『まだ』って呼んでもいい?」


 女は考える。


『それは、名前ですか』


「呼び方」


『同じでは?』


「嫌なら使わない」


 女は再び考えた。


 自分で。


 誰にも命令されず。


『今だけなら』


「分かった」


「まだ」


 澪が呼ぶ。


 女はすぐには返事をしなかった。


 その呼び方が、自分へ向けられたものか確かめる。


 やがて。


 赤い傘の柄を床へ落とす。


 からん。


 自分で選んだ返事。


 呼ばれたから従うのではない。


 返したいと思ったから、返す。


     ◇


 町役場の時計が動き始めた。


 午前三時四十七分。


 午前零時十三分へ戻ろうとしていた針が。


 正しい方向へ進んでいる。


 夜空の月も、少しずつ西へ動いた。


「終わった?」


 澪が町を見下ろす。


 伝声管。


 町内スピーカー。


 赤い傘の影。


 すべて静かになっている。


「呼名放送は止まりました」


 透真は答えた。


 その瞬間。


 胸の奥に強い痛みが走る。


「……っ」


「音無くん!」


 膝が崩れる。


 澪が体を支える。


 透真の耳へ、無数の声が一斉に入ってきた。


『聞いた』


『会話を聞いた』


『死者の側へ入った』


『三人目』


『十三人目』


 死者同士の会話を聞いた代償。


 呼名装置が止まっても。


 古い決まりは、透真の中へ残っている。


 右耳から。


 冷たい血が流れた。


「透真!」


 誠一が駆け寄る。


「聞こえます」


 透真は耳を押さえた。


「何が」


「町中の死者同士の会話」


 以前とは違う。


 一つずつではない。


 場所も。


 距離も。


 時代も関係なく。


 夕名町で交わされたすべての死者の会話が、同時に聞こえる。


『寒い』


『誰か来た』


『名前を呼ばれた』


『返事をするな』


『帰りたい』


『痛い』


『見つけて』


『忘れないで』


 何百。


 何千。


 言葉が重なり。


 透真自身の思考が消えそうになる。


「僕は」


 自分の声が分からない。


「僕は、誰ですか」


「音無透真!」


 澪が叫ぶ。


「私を見て!」


 顔は見える。


 だが、澪の口からも、何人もの死者の声が聞こえる。


『選ばれなかった私』


『死にたかった私』


『生きたい私』


「分かりません」


「何が?」


「澪さんの声が」


 透真の耳に、すべてが同じ重さで入る。


 生者。


 死者。


 記憶。


 現在。


 区別できない。


「死者同士の会話を聞いた者は」


 まだが言った。


『会話の外へ戻れません』


「方法は?」


『一つあります』


 白い女は、透真の右耳へ手を伸ばす。


『聞く場所を、死者側へ残す』


「耳を失うのか」


 誠一が尋ねる。


『耳ではありません』


『言葉へ変える力』


 音。


 振動。


 残された物。


 それらを、死者の会話として理解する力。


『それをこちらへ置けば』


『生者と死者を分けられるようになります』


「死者の声が、聞こえなくなる?」


 澪が透真を見る。


『会話を盗み聞くことはできなくなります』


「直接、話しかけられたときは?」


『相手が、自分であなたを選んだ場合だけ』


 これまでは。


 死者同士の会話が、否応なく透真へ聞こえた。


 本人たちが望んでいなくても。


 秘密も。


 後悔も。


 最後の言葉も。


 聞いてしまった。


 これからは。


 死者が透真へ伝えることを選び。


 透真が受け取ることを選んだときだけ。


 声が届く。


「そのほうが」


 透真は苦しみながら言う。


「正しいのかもしれません」


「簡単に決めるな」


 誠一が肩を掴む。


「失えば戻らないかもしれない」


「はい」


「お前の力だ」


「借りた力です」


 伊呂波の声。


 小夜子の命。


 澪の返事。


 多くの死者たち。


 自分一人のものではなかった。


「失いたくはありません」


 透真は正直に言う。


「聞こえなくなるのは、怖いです」


 誰かが助けを求めていても。


 気づけなくなるかもしれない。


「でも」


 重なる死者の声に耐えながら。


「聞かれたくない会話まで聞くのは」


「僕の役目ではありません」


 まだが右手を差し出す。


『選びますか』


 透真は澪を見る。


「どう思いますか」


「私に決めさせないで」


「はい」


「でも」


 澪は透真の手を握る。


「聞こえなくなっても、私は話す」


「聞いてくれますか」


「生きている人の言葉を、ちゃんと聞くなら」


「努力します」


「約束」


「はい」


 誠一も透真の背中へ手を置く。


「声が聞こえなくても」


「父さん」


「死者が何を残したか、一緒に調べればいい」


「はい」


「一人で聞くな」


「はい」


 透真は、まだの手を取った。


「お願いします」


 白い指が、透真の右耳へ触れる。


 痛みはなかった。


 代わりに。


 無数の声が、一つずつ遠ざかる。


 美月。


 ハナ。


 真帆。


 悠人。


 冬子。


 伊呂波。


 名前を知らない死者たち。


 最後に。


 小夜子の子守歌。


 聞こえない。


 聞き取れない。


 ただの遠い旋律へ変わる。


 右耳から流れていた血が止まった。


 町の風。


 澪の呼吸。


 誠一の心臓。


 屋上の機械。


 普通の音だけが残る。


「聞こえますか」


 澪が尋ねる。


「はい」


「誰の声?」


「澪さんです」


「死者の声は?」


 透真は耳を澄ませた。


 何もない。


「聞こえません」


 胸の奥。


 四歳の透真の小さな声も、言葉にはならない。


 ただ、心臓の奥で。


 どくん。


 もう一つの振動がある。


 それだけで十分だった。


     ◇


 まだの体が薄くなる。


「あなたは?」


 透真が尋ねる。


『私は』


 まだは町役場の下を見る。


 そこには伊呂波がいる。


 名を得た少女。


 自分で外へ出た少女。


『考える場所へ行きます』


「資料館?」


『決めていません』


「そうですか」


『でも』


 まだは、自分で作った音を鳴らす。


 こつ。


 こつ、こつ。


 からん。


『また、聞いてもらえますか』


 透真はすぐに答えなかった。


「死者同士の会話は、聞けません」


『私が、あなたへ話します』


「それなら」


 透真は頷く。


「僕が受け取れるときに」


『はい』


 まだは初めて、「はい」と答えた。


 名前を呼ばれたからではない。


 命令に従ったのでもない。


 自分で選んだ返事。


 その姿が白い霧へ変わる。


 霧は町役場から地上へ下り。


 伊呂波の隣へ立った。


 二人の少女。


 一人は名前を取り戻し。


 一人はまだ名前を決めていない。


 伊呂波が何かを尋ねる。


 透真には聞こえない。


 まだは傘の柄を鳴らして答えた。


 二人は郷土資料館の方向へ歩き始める。


 閉じ込められるためではない。


 考える場所へ向かうために。


     ◇


 朝。


 音無家の台所。


 誠一が卵焼きを作っていた。


「焦げています」


「食べられる」


「黒いです」


「香ばしいと言え」


「無理があります」


 澪が食卓へ皿を運ぶ。


「味噌汁は?」


「できている」


「何か入れました?」


「味噌だ」


「具の話です」


「豆腐」


「切りました?」


「必要なのか」


「必要です」


 鍋の中。


 豆腐が一丁、そのまま浮いている。


 透真はしばらく鍋を見つめた。


「父さん」


「何だ」


「僕が切ります」


「座っていろ。昨日、心臓が止まったばかりだ」


「昨日だけで何回目でしょう」


「数えるな」


 誠一が包丁を持ち直す。


「四つに切ればいいか」


「もう少し細かくしてください」


「細かいな」


「豆腐の話です」


 澪が笑った。


 普通の笑い声。


 その奥に、未来の幽霊の声は聞こえない。


 透真には、澪の現在の声だけが届く。


「何?」


 澪が尋ねる。


「いえ」


「見てたでしょう」


「声を確認していました」


「普通?」


「はい」


「それ、少し失礼じゃない?」


「すみません」


 食卓には四脚の椅子。


 透真。


 誠一。


 澪。


 そして一脚。


 誰も座らない席。


 小夜子のために残したものではない。


 いつか来客があったとき使う、普通の椅子。


 母を待ち続ける席ではない。


 誠一が三人分の味噌汁を置いた。


「いただきます」


 三人が手を合わせる。


 焦げた卵焼き。


 大きさのそろっていない豆腐。


 少し濃い味噌汁。


 母が作った朝食ではない。


 存在しなかった記憶でもない。


 今この朝に。


 生きている三人が作った食事。


「しょっぱい」


 澪が言う。


「そうか?」


「しょっぱいです」


 透真も答える。


「水を足すか」


「もう椀に入っています」


「我慢しろ」


「父さん」


 誠一は一口飲み。


 顔をしかめた。


「しょっぱいな」


 三人で笑った。


 小夜子のいない朝。


 それでも。


 朝は来た。


     ◇


 食後。


 透真は新しいノートを開いた。


 表紙。


 黒い文字で題名を書く。


 死者同士の会話は、聞いてはいけない。


 澪が横から覗く。


「それ、題名?」


「記録名です」


「かなり怖い」


「事実です」


 最初のページ。


 透真は、今回分かった規則を書く。


 一。


 死者の声と、死者の意思は同じではない。


 二。


 名前を呼ばれても、返事をする必要はない。


 三。


 返事は、誰へ渡すか自分で決められる。


 四。


 声を失っても、行動や物に想いは残る。


 五。


 名前は、本人が選んでよい。


 六。


 帰る場所がなくても、出発することはできる。


 七。


 死者同士の会話を、勝手に聞いてはいけない。


 最後。


 八。


 一人で聞かない。


「最後だけ、規則というより約束だね」


 澪が言う。


「重要です」


「守れる?」


「努力します」


「約束」


「はい」


 透真は書き直す。


 一人で聞かない。


 必ず相談する。


 誠一が向かいからノートを見る。


「俺にも見せろ」


「父さんも書きますか」


「ああ」


「何を?」


「十三年前に隠したことを全部」


「長くなりますね」


「お前に言われたくない」


 三人は、朝の食卓で記録を始めた。


 死者の言葉。


 生者の返事。


 間違えたこと。


 分からなかったこと。


 正しかったように書き換えず。


 分からないものは、分からないまま。


     ◇


 夕名町で、午前零時十三分の町内放送は流れなくなった。


 音返神社の地下にあった石椅子は撤去された。


 郷土資料館には、伊呂波本人が選んだ展示説明が置かれた。


 かつて、名を奪われた少女がいた。


 少女は死者を呼ぶ役目を押しつけられた。


 現在、少女は自分の行き先を探している。


 展示終了日は、本人が決める。


 その隣。


 空白の展示札が一枚。


 まだ名前を決めていない存在のため。


 何も書かれていない。


 ただし。


 展示台の上には、短い傘の柄が置かれている。


 こつ。


 こつ、こつ。


 からん。


 閉館後。


 ときどき、誰も触れていない柄が音を鳴らした。


 管理人は、その音へ同じ返事をしない。


 机の引き出しを一度閉める。


 椅子を少し動かす。


 窓を開く。


 毎回違う音で。


 聞いたことだけを返した。


     ◇


 一週間後。


 午後十一時五十分。


 透真の携帯電話へ、一通のメールが届いた。


 送信者。


 不明。


 件名。


 聞き書きを依頼します。


 本文には、住所が一つだけ記されている。


 夕名町ではない。


 隣県。


 山間部にある、人口二百人ほどの小さな集落。


 添付ファイル。


 十三秒間の音声。


「開かないで」


 隣にいた澪が言った。


「まだ何もしていません」


「一人で聞かないって書いたでしょう」


「はい」


「お父さんも呼ぶ?」


「もう寝ています」


「起こす」


「明日では?」


 澪は時刻を見る。


 午後十一時五十二分。


「午前零時十三分までに聞けって書いてある?」


「いいえ」


「じゃあ明日」


 透真は携帯電話を机へ置いた。


 以前なら。


 何が録音されているのか気になり。


 一人で再生していた。


 死者の声を聞く力を失った今でも。


 音の奥に何かいる気がする。


 それでも。


「明日にします」


「本当に?」


「はい」


「成長したね」


「子ども扱いしないでください」


 胸の奥。


 四歳の鼓動が一度だけ強く鳴った。


 どくん。


 抗議しているらしい。


「今のは?」


「四歳の僕が、子ども扱いするなと」


「四歳なのに?」


「十三年間待っています」


「複雑だね」


 澪は笑う。


 二人は携帯電話から離れた。


 午前零時十三分。


 町内放送は流れない。


 電話も鳴らない。


 静かな夜。


 だが。


 机の上の携帯電話。


 再生していない添付音声の波形が、ひとりでに動き始めた。


 十三秒。


 音は出ない。


 画面に、自動解析された文字だけが現れる。


『こちらには』


『死者の声が聞こえる人が』


『十三人います』


 続いて。


 集落の位置を示す地図。


 十三軒の家が、円形に並んでいる。


 中央。


 誰も住んでいない家の上に。


 赤くない傘が一本、表示されていた。


 白い傘。


 その下。


 新しい依頼文。


『十三人のうち』


『生きているのが誰なのか』


『聞き分けてください』


 携帯電話の画面が暗くなる。


 静かな部屋。


 透真は、その変化に気づかない。


 死者同士の会話は、もう勝手には聞こえない。


 だからこそ。


 次に聞く声は。


 自分で選ばなければならない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


『死者同士の会話は、聞いてはいけない

―午前零時十三分の町内放送―』


第一部・全30話、完結です。


呼名女は、十三人目の声を得ることに失敗しました。


町の人々は、自分の名前へ返した「はい」を呼名女へ渡さず、自分自身の存在を確かめる返事として取り戻しました。


名も声も失った呼名女は、すぐに新しい名前を決めるのではなく、「まだ決めない」ことを選びます。


仮の呼び方は「まだ」。


それは誰かから与えられた正式な名前ではなく、彼女自身が考え続けるために選んだ、一時的な呼び方です。


そして透真は、死者同士の会話を聞いた代償として、死者の会話を一方的に聞き取る力を失いました。


これから声が届くのは、死者自身が透真へ伝えることを選び、透真も受け取ることを選んだときだけです。


聞こえてしまう物語から。


聞くことを選ぶ物語へ。


第二部は第31話「十三人の聞き手」から始まります。


夕名町の外。


死者の声を聞ける十三人が暮らす山間の集落。


そこでは、住民全員が互いを生者だと思っています。


しかし記録上、生きている住民は一人しかいません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。