第29話 母の最後の言葉
別れの言葉を聞かなければ、その人は消えないのでしょうか。
最後まで耳を塞ぎ続ければ、いつか帰ってきてくれるのでしょうか。
けれど、届かなかった「さよなら」は、死者をこの世へ残す鎖にもなります。
忘れるためではなく。
忘れずに、離れるための言葉があります。
『お母さんは』
透真の胸の奥。
四歳の透真が、両耳を塞いで泣いている。
『僕たちに』
子守歌の光が震えた。
『さよならって言おうとしてる』
町役場屋上。
午前零時十三分の夜空。
透真の目の前には、小夜子が立っている。
白い服。
胸に開いた穴。
その背後には、顔のない呼名女。
二人は黒い糸でつながれていた。
小夜子が腕に抱いていた子守歌の光は、透真の胸へ入っている。
しかし、何も聞こえない。
死者の声を聞く力は失われた。
歌も。
言葉も。
母の最後の息も。
現在の透真には届かない。
四歳の透真だけが、十三年前の母の声を聞いている。
「聞かせてください」
透真は胸へ手を当てた。
『嫌だ』
「僕も怖いです」
『聞いたら、お母さんがいなくなる』
「はい」
『もう会えない』
「そうかもしれません」
『だったら聞かない!』
胸の奥で、幼い透真がさらに強く耳を塞ぐ。
小夜子の子守歌が、途中で止まった。
同時に。
目の前の小夜子の顔から、目と口が薄くなっていく。
『受信が中断されました』
呼名女が告げる。
『最後の言葉を最後まで受け取らない場合』
赤い傘が大きく開く。
『音無小夜子さんの声を、次期呼名音声として登録します』
小夜子の喉から、黒い糸が伸びる。
町中のスピーカーへ。
十三地区の伝声管へ。
電話。
ラジオ。
学校の放送設備。
家庭のテレビ。
あらゆる音の道へ広がっていく。
小夜子は苦しそうに首を振った。
「止めてください!」
透真は黒い糸を掴んだ。
指が焼ける。
それでも離さない。
『止める方法は一つです』
呼名女が答える。
『最後の言葉を受信し』
『音無小夜子さんの死亡を完了してください』
「言われなくても分かっています」
『では、お聞きください』
子守歌の光が、もう一度透真の胸で震える。
四歳の自分が叫んだ。
『嫌だ!』
光が止まる。
透真一人が受け取ろうとしても。
四歳の自分が拒めば、母の声は最後まで届かない。
「透真」
澪が隣から呼びかけた。
透真は顔を上げる。
「何て言ってるの?」
「四歳の僕が、聞きたくないと」
「小夜子さんの声を?」
「はい」
「どうして?」
「聞けば、母さんが完全にいなくなるからです」
誠一が小夜子を見つめた。
妻の輪郭が薄くなっている。
「俺も」
父の声が掠れる。
「聞きたくない」
透真と澪が誠一を見る。
「十三年」
誠一は拳を握った。
「小夜子の声を探し続けた」
つながらない電話。
夜中の着信。
町内放送。
録音。
偽物だと分かっていても、妻の声が聞こえるたびに受話器を取った。
「最後に聞く言葉が」
誠一の目から涙が流れる。
「別れであってほしくない」
小夜子が夫へ手を伸ばす。
触れることはできない。
指先が誠一の頬を通り抜ける。
それでも父は、そこに手を重ねた。
「でも」
誠一は妻の手があるはずの場所を握る。
「俺たちが聞かないから」
「お前は十三年間、終われなかった」
小夜子の目からも涙が落ちた。
「小夜子」
誠一は言う。
「俺は、まだお前を待っている」
小夜子は頷く。
「帰ってきてほしい」
頷く。
「生きていてほしかった」
頷く。
「今からでも」
誠一の声が震える。
「やり直したい」
小夜子は泣きながら笑った。
「それでも」
誠一は目を閉じる。
「お前の最後の言葉を聞く」
小夜子の唇が動く。
声は透真にしか届かない。
だが、口の形だけで誠一にも分かった。
――ありがとう。
◇
透真は目を閉じた。
胸の奥。
暗い場所。
四歳の透真が一人で座っている。
旧町内放送局の床。
煙。
炎。
崩れた天井。
少年の前には、小夜子が立っていた。
十三年前の姿。
白い服。
透真を生者側へ送り出す直前の母。
『来ないで』
四歳の透真が母へしがみつく。
『一緒に帰ろう』
小夜子は少年の頭を撫でる。
だが、声は聞こえない。
口だけが動いている。
「ここにいたんですね」
現在の透真は、少年の隣へ座った。
『来ないで』
「一緒に聞きます」
『嫌だ』
「僕も嫌です」
『じゃあ、聞かないで』
「それはできません」
『どうして!』
少年は現在の透真を睨む。
『お母さんが消えてもいいの?』
「よくありません」
『じゃあ』
「母さんが、呼名女として残ることも嫌です」
『声が残れば、お母さんも残る』
「母さんの意思ではない声になります」
『同じ声だよ』
「同じ声でも、母さんの言葉ではありません」
呼名女は声を使う。
小夜子の口調。
子守歌。
思い出。
すべてを真似る。
それでも。
どこへ行くか。
誰を呼ぶか。
何のために言うか。
意思が違えば、小夜子の言葉ではない。
『でも』
少年は泣きながら言う。
『何も聞こえなくなったら』
『お母さんを忘れる』
「忘れません」
『嘘』
「僕はすでに、母さんの声を忘れかけていました」
少年が顔を上げる。
「だから、偽物の声にも何度も騙されました」
『やっぱり忘れるんだ』
「声は、少しずつ変わります」
「記憶の顔も」
「匂いも」
「手の温かさも」
「全部、完全なままでは残せません」
『じゃあ、お母さんはいなくなる』
「いいえ」
透真は少年の胸へ手を当てる。
「母さんが選んだことは残ります」
透真を生者へ戻したこと。
誠一の手を離すなと伝えたこと。
伊呂波へ、帰る場所を自分で決めるよう伝えたこと。
死者たちの声を守ったこと。
自分が生き返るために、ほかの言葉を犠牲にしなかったこと。
「声を正確に思い出せなくても」
「母さんがしたことは、消えません」
『でも、会えない』
「はい」
『話せない』
「はい」
『嫌だ』
「僕もです」
少年の涙が、床へ落ちる。
音はしない。
「嫌なままでいいんです」
『いいの?』
「納得できなくても」
「悲しくても」
「母さんを行かせたくなくても」
透真は少年の小さな手を握る。
「一緒に聞きましょう」
『最後まで?』
「はい」
『途中で止めても?』
「止めたくなったら、手を握ってください」
『聞けないって言ったら?』
「待ちます」
『お母さんが呼名女になる』
「それでも、あなたを置いて先には進みません」
少年は長いあいだ黙っていた。
やがて。
現在の透真の手を握る。
『一緒に』
「はい」
二人で、小夜子を見る。
母は少年へ近づいた。
しゃがみ。
四歳の透真と目線を合わせる。
頬へ手を伸ばす。
触れない。
それでも、そこへ手を置く。
子守歌が、もう一度始まった。
◇
『透真』
最初の言葉。
現在の透真には聞こえない。
四歳の透真が受け取り。
握った手を通じて、意味を渡す。
『ごめんね』
呼名女が、同じ声を重ねた。
『一人にしてごめんね』
『お母さんを許して』
透真は目を開けた。
目の前の呼名女が、小夜子の声で泣いている。
『あなたを置いて死んだ』
『私を選ばなかったことを許して』
「違います」
透真は答えた。
『何が違うのですか』
「母さんは、許しを求めていません」
『母親なら、息子に許してほしいはずです』
「そう思っていたかもしれません」
『なら』
「でも、最後に届けようとしているのは、その言葉ではありません」
胸の奥。
小夜子の声。
『透真』
『あなたが謝る必要はない』
四歳の透真が強く手を握る。
『僕がお母さんを置いて逃げた』
「母さんが僕たちを逃がしました」
『でも』
『僕が生きるって選んだ』
「母さんも選びました」
小夜子の声が続く。
『あなたは、私を置いていったんじゃない』
『私が、あなたを送り出した』
少年の肩が震える。
十三年間。
自分が母を残したと思っていた。
父の手を取ったから。
生者へ戻ることを選んだから。
母が死んだ。
そう思い続けていた。
『だから』
小夜子の声。
『私の死を、あなたの選択にしないで』
透真の胸が痛む。
呼名女が赤い傘を回す。
『音無小夜子さんは、あなたのために死にました』
「はい」
『あなたが生きたため、死にました』
「違います」
『同じです』
「母さんは、僕へ責任を渡していません」
小夜子が決めた。
自分の命を使うことを。
透真を生者へ送ることを。
その選択の重さまで、四歳の息子へ背負わせるつもりはなかった。
『それでも、罪悪感は消えません』
「消す必要はありません」
『苦しみ続けます』
「それでも生きます」
小夜子の表情が少し緩んだ。
◇
子守歌の光が弱くなる。
小夜子の体も透明になっていく。
胸の中の少年が叫ぶ。
『まだ!』
透真は手を握り返す。
「まだ終わっていません」
母の声。
『透真』
『私を忘れないで』
呼名女がすぐに繰り返す。
『忘れないで』
『ずっと私を思い続けて』
『私の声を探して』
『私が戻るまで待って』
小夜子の顔が呼名女と重なる。
二つの口。
二つの声。
透真は母の行動を見る。
小夜子は首を横に振っている。
忘れないで。
それも、最後の言葉ではない。
胸の奥。
本当の声が続く。
『忘れてもいい』
少年が息を呑む。
『嫌だ』
『声を忘れても』
『顔を少し思い出せなくなっても』
『それは、あなたが悪いことじゃない』
『嫌だ!』
少年は耳を塞ごうとした。
透真は止めない。
ただ、手を握る。
『お母さんのことを忘れたくない!』
「忘れたくないですね」
『だったら』
「忘れないように努力します」
『絶対?』
「絶対とは言えません」
『どうして!』
「人間だからです」
記憶は変わる。
薄れる。
別の出来事と混ざる。
正確な声は失われる。
「でも」
透真は少年を見る。
「思い出せなくなった部分があっても、母さんがいなかったことにはなりません」
少年は泣き続けている。
『忘れたら、また探して』
「記録があります」
『写真?』
「父さんの話も」
『嘘の記憶かもしれない』
「そのときは、嘘かもしれないと書きます」
『変なの』
「正確でないものを、正確だと言うよりいいです」
小夜子の声が、少し笑った。
子守歌の中。
母の笑い声。
十三年前よりも。
朝食の幻よりも。
ずっと自然な笑い方だった。
◇
『透真』
最後の言葉が近づく。
小夜子の体。
足元から光へ変わり始めた。
呼名女が赤い傘を広げる。
『受信を中止してください』
初めて。
呼名女の側から、受信を止めようとした。
『これ以上聞けば』
『音無小夜子さんは消滅します』
「分かっています」
『あなたは母親を失います』
「十三年前に失いました」
『完全に失います』
「はい」
『二度と声を聞けません』
透真の喉が震える。
怖い。
母の声が、永遠に外から聞こえなくなる。
夜中の電話も。
子守歌も。
偽物さえも。
母の声を使って、自分を呼ぶものがいなくなる。
「それが」
透真は答える。
「母さんの望みです」
『違います』
「なぜ、あなたが決めるんですか」
『母親は子を呼び続けます』
「母さんは、僕を送り出しました」
『子どもは母親へ帰ります』
「僕は、もう四歳ではありません」
『あなたの中に、四歳の子がいます』
「はい」
透真は胸へ手を当てる。
「その子も、一緒に聞いています」
少年が母を見る。
涙で顔を濡らしながら。
耳を塞がずに。
『お母さん』
小夜子は微笑む。
『何?』
『さよならって言うの?』
母はすぐに答えなかった。
泣き。
迷い。
それでも。
『うん』
少年は唇を噛む。
『言わないで』
小夜子が手を伸ばす。
『言いたくない』
『じゃあ』
『でも、言わないと』
声が震える。
『お母さんが、あなたを呼び続けてしまう』
帰ってきて。
こちらへ来て。
名前を呼び。
生者の透真を死者側へ引く。
小夜子は、それを望まない。
『透真』
母は言う。
『もう、私の声を探さないで』
少年の肩が揺れる。
『電話が鳴っても』
『町内放送で呼ばれても』
『私の声がしても』
『それを、お母さんだと思わなくていい』
呼名女の白い顔へ亀裂が走った。
『やめなさい』
小夜子は続ける。
『忘れてとは言わない』
『忘れなくていい』
『でも』
言葉に詰まる。
母自身が、別れたくない。
息子に忘れられたくない。
もっと話したい。
もっと生きたい。
その全部を抱えたまま。
『待たないで』
誠一が顔を伏せた。
澪が透真の手を握る。
四歳の透真は泣いている。
『お母さんを待たないで』
『私がいない明日へ行って』
子守歌が最後の旋律へ入る。
『お母さんは』
『ここで終わるから』
小夜子は少年を抱きしめる。
腕は触れない。
それでも少年は、母の胸へ顔を埋めた。
『透真』
母の唇。
『さよなら』
少年が叫ぶ。
『嫌だ!』
子守歌が止まりかける。
黒い糸が小夜子の喉へ伸びる。
『受信拒否を確認しました』
「違います!」
現在の透真が叫ぶ。
胸の中。
少年の肩を抱く。
「嫌なままでいい」
『言えない』
「僕も言いたくありません」
『お母さんが消える!』
「はい」
『嫌だ!』
「はい」
『ずっといてほしい!』
「僕もです」
透真は少年と一緒に、小夜子を見る。
「それでも」
声が震える。
「母さんの言葉を受け取ります」
小夜子は泣きながら待っている。
返事を求めてはいない。
別れを受け入れろとも。
悲しむなとも言わない。
ただ。
最後まで届いたことを確かめようとしている。
透真は息を吸う。
「母さん」
少年も。
『お母さん』
二人の声が重なる。
「さよなら」
『さよなら』
小夜子の顔が、涙の中で笑った。
透真は続ける。
「いってらっしゃい」
以前。
母が伊呂波へ言えなかった言葉。
帰る場所へ縛るのではなく。
自分で選んだ先へ送り出す言葉。
四歳の透真も、泣きながら言う。
『いってらっしゃい』
小夜子は、最後に息子の頭を撫でる。
『いってきます』
その返事とともに。
子守歌の光が、静かにほどけた。
◇
小夜子の体から、黒い糸がすべて外れた。
胸の穴。
白い服。
長い髪。
少しずつ光へ変わる。
「小夜子!」
誠一が手を伸ばす。
小夜子は夫を見る。
もう声はない。
唇だけ。
――誠一さん。
「何だ」
――ありがとう。
「俺は、何も」
――透真を育ててくれて。
「お前が戻ってくると思っていた」
――うん。
「ずっと」
――知ってる。
「待つなと言われても」
小夜子は少し困ったように笑う。
生きていた頃の。
家族の望みどおりではない表情。
――少しくらいなら、待ってもいいよ。
誠一は泣きながら笑った。
「勝手だな」
――ごめん。
「謝るな」
小夜子は夫へ手を伸ばす。
触れる直前。
指先が光になる。
誠一は、その光を両手で包んだ。
「さよなら」
父の声。
「小夜子」
小夜子は頷いた。
最後に澪を見る。
澪は深く頭を下げる。
「いってらっしゃい」
小夜子は笑う。
その姿が、夜空へ溶けた。
子守歌。
声。
心音。
何も残らない。
それでも。
透真の中に。
母が選んだことが残っている。
小夜子は、完全に死に終わった。
◇
町中のスピーカーから。
小夜子の声が消えた。
電話。
ラジオ。
録音。
どこからも、新しい言葉は聞こえない。
透真の携帯電話に残っていた、発信者不明の着信履歴。
十三年間分。
一件ずつ消えていく。
すべて消えたあと。
最後に一行だけ残った。
通話終了。
「終わったんですね」
澪が言う。
「はい」
透真は答えた。
声が掠れている。
「母さんの声は、もう聞こえません」
寂しい。
胸を引き裂かれるように。
それでも。
もう、呼名女が母の声で透真を呼ぶことはできない。
誠一は夜空を見上げていた。
「帰ろう」
父が言う。
帰る先。
小夜子のいない家。
それでも。
「はい」
透真は答えた。
そのとき。
赤い傘が、地面へ落ちた。
かさり。
呼名女の姿は消えていない。
ただし。
顔が変わっていた。
小夜子でも。
伊呂波でも。
御影冬子でもない。
目も。
鼻も。
口もない。
完全な白い顔。
声も持っていない。
呼名女が口を動かす。
音は出ない。
それでも、町役場屋上の電光表示板へ文字が現れた。
返却済み音声。
百八十六件。
残存音声。
零件。
「もう、使える声はありません」
澪が言った。
白い女が、赤い傘を開く。
表示が変わる。
呼名用音声。
未登録。
代替方式へ移行。
「代替方式?」
町中の人々が、同時に自分の喉を押さえた。
透真も。
澪も。
誠一も。
声を出していない。
それなのに。
頭の中で、自分自身の声が聞こえた。
『音無透真』
透真の声。
自分の内側から、自分の名前を呼んでいる。
『早坂澪』
澪の顔が青ざめる。
『音無誠一』
誠一も耳を押さえる。
町全体。
住民一人ひとりの頭の中で。
自分自身の声が、自分の名前を呼び始めた。
外から呼ばれる声ではない。
耳を塞いでも止まらない。
『返事をしてください』
呼名女は、すべての声を失った。
だから。
呼ばれる者自身の内声を使い始めた。
「返事をしてはいけません!」
透真が叫ぶ。
だが、町のあちこちで。
「はい」
自分の名前を呼ばれ。
反射的に答える人が現れる。
一人。
二人。
三人。
返事をした人々の足元へ、赤い傘の影が開く。
呼名女の電光表示。
応答者数。
一。
二。
三。
次の呼名者決定まで。
残り十三名。
「次の呼名者?」
澪が表示を読む。
呼名女は、声を失った。
新しい声を必要としている。
十三人が自分の名前へ返事をしたとき。
その中の一人を、新しい呼名女へ変える。
「止めないと」
透真は屋上の端へ走る。
町へ向かって叫ぶ。
「自分の声に答えないでください!」
しかし、内側から聞こえる声へ。
外からの警告は届きにくい。
応答者数。
四。
五。
六。
呼名女が透真へ顔を向けた。
声はない。
その代わり。
透真の頭の中で、四歳の自分の声がした。
『透真』
「あなたは、僕ではありません」
『分かってる』
今度は。
母の声。
『透真』
声は完全に消えたはずだった。
だが、これは外から届く小夜子ではない。
透真の記憶の中にある母の声。
呼名女は、それすら利用している。
『返事をして』
透真は歯を食いしばる。
「しません」
『お母さんだよ』
「違います」
『さよならを取り消して』
「取り消しません」
呼名女の白い顔に、黒い文字が浮かび上がる。
名前がありません。
声がありません。
返事がありません。
その下。
新しい問い。
私は、誰ですか。
透真は女を見る。
呼名女。
誰かの声を借り。
誰かの名前を呼び。
返事によって自分の存在を確かめ続けたもの。
伊呂波から生まれたが。
もう伊呂波ではない。
小夜子の声も。
死者たちの言葉も失った。
今、初めて。
何者でもない自分として残されている。
呼名女の手が震えていた。
町の応答者数。
七。
八。
九。
白い顔の文字。
私に、名前をください。
透真は息を止めた。
名を与えれば。
その名で呼名女を呼ぶことができる。
同時に。
呼名女を一人の存在として完成させてしまう。
名を与えなければ。
女は町中の名前を呼び続け、新しい声を奪う。
澪が透真の隣へ立つ。
「名前をつけるの?」
「分かりません」
誠一も白い女を見る。
「お前一人で決めるな」
「はい」
応答者数。
十。
十一。
十二。
残り一人。
町中。
誰かが自分の名を呼ばれている。
口を開こうとしている。
呼名女の白い顔へ、最後の問いが浮かんだ。
私を呼んで。
透真の耳に。
音が戻った。
死者同士が話している。
一人は、名のない呼名女。
もう一人は。
完全に死に終わったはずの、小夜子。
『自分の名前は』
母の声。
『自分で選びなさい』
呼名女が答える。
『選び方が分かりません』
小夜子。
『なら、考えなさい』
『誰かを呼ぶ前に』
『自分が、何と呼ばれたいのか』
透真は息を呑んだ。
死者同士の会話。
聞いてはいけない声。
それを。
最後まで聞いてしまった。
呼名女の白い顔が、ゆっくり透真へ向く。
口がないまま。
初めて、自分自身の声を出した。
『聞いたね』
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
小夜子が十三年間伝えられなかった最後の言葉は、「愛している」でも「生きて」でもありませんでした。
「私の声を、もう探さないで」
「忘れなくていい。でも、待たないで」
「私がいない明日へ行って」
そして、母自身も言いたくなかった本当の別れ。
「さよなら」。
透真と四歳の透真は、悲しみも拒絶も消さないまま、その言葉を最後まで受け取りました。
小夜子は完全に死に終わり、呼名女が利用できるすべての死者の声も失われました。
しかし呼名女は、今度は町の人々の内側にある「自分自身の声」で名前を呼び始めます。
第30話「死者同士の会話は、聞いてはいけない」は、第一部最終話です。
十三人目の返事が行われるまで、あと一人。
透真は、名のない呼名女へ名前を与えるのか。
それとも、自分自身で名前を選ばせるのか。
そして、聞いてはいけなかった死者同士の会話を聞いた透真が支払う、最後の代償が明らかになります。




