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夢の雫~保元・平治異聞~  作者: 橘 ゆず
第二章 上洛
19/122

19.子猫

 登ってみると、木の枝は下から見るよりもずっと高かった。


 正直、少し後悔したが、下から(すが)るような目でこちらを見上げている小妙(こたえ)さんのことを思えば、そんな事も言っていられない。


 子供の頃、致高(むねたか)さまの後を追いかけて庭の木によじのぼった時のことを思い出して、梯子から身を乗り出し、ゆき姫のいる枝に足をかける。


 体重をかけた途端に、枝が大きく揺れてひやりとしたが、なんとか無事に乗り移ることが出来た。

 枝の上でくつろいでいたゆき姫は時ならぬ闖入者の私を見て、ふーーーっと、全身の毛を逆立てている。


「か、佳穂さま…?大丈夫ですか?お気をつけて」

 下から不安げに声をかけてくる小妙さんに小さく手を振って、私はじりじりと枝の上をゆき姫の方に移動した。


「大丈夫、大丈夫よ」

 安心させるように声をかけ、そっと手を伸ばす。


 けれど、ゆき姫は飾り紐が引っかかって体が自由にならないこともあってか、怯えて奇声を発しながらめちゃくちゃに前足を振り回した。

手の甲を爪が掠めて痛みが走る。私は構わず、すばやくゆき姫の首を押えて飾り紐を解いた。


自由になったゆき姫は「ミャオウッ」と一声、憤りの声をあげて枝からひらりと身を躍らせた。


「ゆき姫っ!」

小妙さんが声をあげる。


「追いかけてっ!」

 私は枝にしがみついたまま叫んだ。


 それを聞いた小妙さんが弾かれたように、走り出す。

 その姿が前栽の陰に消えたのを目の端に捕えながら、梯子に戻ろうとした私は、手の甲の傷の痛みに一瞬気をとられて、ぐらりと態勢を崩してしまった。


「……っ!!」

 咄嗟に枝にしがみついて転落するのだけは避けたけれど、その拍子に、幹に立てかけておいた梯子を倒してしまった。


 ドサッ…。


 と、乾いた音をたてて地面に倒れた梯子を見下ろしながら、私は木の上で途方にくれた。


(どうしよう……)


 いくら小さい頃に多少、木登りをしたことがあるとはいっても、そんなのは七つか八つの童女の頃のこと。

 梯子もなしで、この高い木の上から無事に地上に降り立てるとはとても思えない。


 そもそも、あの梯子さえ見つからなかったら、いくら小妙さんを気の毒に思ったとしても、こんな風に木に登ろうなんて考えつかなかったはずで。


 それでも、何とか自力で降りてみようと試みて、何度かの挑戦ののち、私は「やっぱり無理」との結論に到達した。


 となると……。

 誰かにそこの梯子を立てかけ直して貰うしかないわけだけれど。

 ここで大声で助けを呼んだりしたら何にもならないわけで……。


 そうなると、小妙さんが戻ってきて助けてくれるのを待つしかないんだけれど。


 ……戻ってきてくれるかしら。


 小妙さんは私が梯子を倒してしまったのを知らない。

 そうでなくても、ゆき姫を追いかけるので精一杯な感じだったし。


 小妙さんが戻ってこないとなると、他のひとに助けを求めないといけないわけだけれど。


 ……猫のことを持ち出さずに、どうやって私がここにいる理由を言えばいいんだろう。

 私がその難題に答えを出すより早く。

 先ほど、私を小座敷に案内してくれた女房どのが戻ってきてしまった。


 彼女は私の姿が見えないのを見て虚をつかれたように立ち尽くし。


 それから

「もし…どちらへ参られました」

 戸惑ったように言う声が聞こえた。


 まずい…。

 木の枝に不安定な姿勢で捕まりながら、私は困った。


 殿の北の方さまにご挨拶に上がった家臣の妻が、勝手に指示された部屋から姿を消して邸内をうろついてるって…。

 考えるまでもなく、ものすごく失礼よね。

 正清さまのお名前にまで傷がついてしまう。


 けれど。


 挨拶にあがった妻が忽然と姿をくらませてしまったというのと。

 挨拶にあがった妻がなぜかお庭の木によじ登っていたというのと。

 いったい、どちらの方が傷が少なくて済むのかしら。


 そんな事を考えているうちに、女房どのは首を傾げながら部屋を出ていって。


しばらくして、朋輩らしい女性を二人連れて戻ってきた。


「いなくなったって?なぜ?ここでお待ちいただいていたのでしょう?」

「ええ。確かに」

「おかしいわね。どちらへ行かれたのかしら」


 女房どのたちは困惑したていで話合っている。


 騒ぎが大きくなる前に「ここです」と言った方がいいのかしら。


 もっと、騒ぎが大きくなるような気がするけれど……。

 そして、小妙さんの名前も猫のことも出さないで、木の上にいる理由を不自然でなく説明するには……。


 ……どうしたって不自然な気がする。


 その時。


「何をしているのです」


 ぴしりとした厳しい声が響いた。

 隣室との境の襖がすらりと開き、紫苑色の小袿をまとったすらりとした女性が部屋に入ってきた。


「あ、浅茅(あさじ)さま…!」

 女房たちが慌てて頭を下げる。

「北の方さまがすでにお待ちなのですよ。お客人一人ご案内するのに、どれほど時間がかかるのです!」

「も、申し訳ございません!」


 なるほど。あれが浅茅さまね。確かに怖いわ。

 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)と小妙さんが言ったのも頷ける。


「そもそも、鎌田どののご妻女はどちらにいらっしゃるのです!こちらの部屋にお通ししておくよう言ったはずですよ!千夏、あなた、何を聞いていたの!」


 千夏と呼ばれた最初に私を案内してきてくれた年若な女房が、しどろもどろに事情を説明している。


「いえ、それが…。確かにこちらにご案内したはずがお姿が見えなくなってしまって…」

「なんですって?それはどういう事なの?」

 浅茅さんが眉を(ひそ)める。


 三人の女房たちが口々に状況を説明するのを聞いて、浅茅さんはしばらく考え込んでいたけれど。

 やがてキッパリと口を開いた。


「誰か表の方を見ていらっしゃい。何か事情があって夫君のもとへ行かれたのかもしれないわ」

 彼女が出した結論は至極妥当なものだとは思ったけれど。


 ……まずい。


 私は背中を嫌な汗が伝うのを感じて、枝を握る手に力をこめた。


 こんなところを正清さまに見られたら、また何といってお叱りを受けるか分からないわ。ただでさえ、勝手に上洛してしまったことで、まだ微妙にわだかまりが解けていないっていうのに……。


 軽率に、こんな事に首を突っ込んでしまったことを後悔しながら、もう一度、どうにか自分で降りられないか試みてみる。


 と、その時、捕まっている枝が、みしり……という嫌な音を立てて揺れた。


 え……?嘘、これ……折れる……?

 私はその姿勢のまま硬直した。


 全身から血の気が引いていく。


 ちょ、ちょっと待って。やだ、お願い。折れないで……!


 祈るようにそう願った甲斐があってか、枝はその場でポッキリいってしまうことはなかった。


 けれど、少しでも力が加わったり、枝を揺らしたりしたらすぐにでも折れてしまいそうなのは明白で。

 私は身動きのとれない状態で、泣くに泣けずに枝にしがみついているしかなくなってしまった。


 永遠とも思える…実際にはほんの少しの時間が流れて、先ほどの小部屋の方で聞きなれたお声がした。


「妻がいなくなったというのは本当ですか?」


 正清さまだ。


「はい。確かについ先刻までこちらにお座りでございましたのに…」

「てっきり鎌田さまのところにおいでかと思ったのですが…いったい、どこにいかれたのか」


 しばらくの沈黙ののち、正清さまが

「お騒がせして申し訳ありません。妻は田舎育ちで、世間知らずでして……鳥の声にでも誘われて庭にでも降りたやもしれません。私が少し探して参ります」

 と仰るのが聞こえた。


 さすが正清さま。よく私のことを分かっていらっしゃる。

 今回の場合は、鳥の声ではなくて猫の声だったけれど。


「まあ、でも……」

「お手数をおかけして面目ない。すぐに連れ戻して参りますゆえ、お方さまにはよしなに申し上げて下さい」

 そう言われて、女房どのたちは腑に落ちない表情をしながら、三々五々、その場を離れていく。


 浅茅さんだけは、厳しい口調を崩さずに

「こちらからお呼び立てしておいて、お一人でお待たせしている間に何かあったとあっては申し訳がたちません。こちらでも邸内を探してみましょう」

とキッパリと言われた。


 なんというか、本当にしっかりとして洗練された、都の女房どのっていう感じの方ねえ。


 妙な感心をしているうちに衣擦れの音がして浅茅さんも別の方へ行かれたようで、あとには正清さまお一人が残られた。


 助けていただくのなら、周りに他に人がいない今しかない。


 私は叱られるのを覚悟で、意を決して口を開いた。


「殿……殿!」


 他の人に聞かれてはいけないので声を抑えて呼びかけたのだけれど、正清さまのお耳にはちゃんと届いたみたいだった。


「佳穂?どこにいる?」

「ここです」

「……どこだ?」


 訝しげにいいながら、濡れ縁から庭に降りてこられる。


「こちらです。上です」


「上?」

 そういって顔を上げた正清さまは、枝の上に私の姿をみとめるなり、絶句された。


「なっ……な、な……何をしておるっ!」

「ええっと……木に登っております」

「見れば分かる!何ゆえ、そんなところにおるのだと聞いておる!」

「それにはその、色々と経緯がありまして…」

「話はあとで聞く!とりあえず降りて来い!」


「それが、降りたいのはやまやまなのですけれど、降りるに降りられないというか、下手したら落ちてしまいそうというか……」

「この馬鹿!」


 正清さまは舌打ちしながらも、すぐに木の下に駆け寄ってきて下さった。


「今行く。そこでじっとしていろ」

「はい」


私はこくこくと頷いた。


 東国での幼少時代、義朝さまとともに木登りばかりしていたという話を以前に伺ったことがあったけれど。

正清さまはさすがに慣れた様子で、倒れていた梯子を使ってあっという間に私のいるところまで上がってきて下さった。


「ほら、つかまれ」

 差し出された手に恐々つかまる。


それだけの身動きでも、枝がたわむように揺れて私は小さく悲鳴を上げた。

「大丈夫だ。枝が折れても俺がつかまえておいてやるから落ちはせぬ。 こっちへ来い」

「は…はい」


 頷いて体重を移動しかけた瞬間。

 枝が大きく揺れ、あっと思った時には私はずるっと枝の上から滑り落ちていた。

 本当に怖い時っていうのは悲鳴なんて出ない。


 声もなく、目をぎゅっと瞑った私は次の瞬間腕を強く引かれて、引っ張り上げられ。

 気がついたら、正清さまの腕のなかにいた。


 正清さまは梯子に足をかけながら、片手で別の枝をつかんで、もう片方の腕で私を抱きとめて下さっていた。

「だいぶ古い木のようだな」


 呟くように言われて、腕のなかの私の顔を覗き込む。


「枝が折れないうちに下りるぞ。怪我はないか、佳穂?」

「は、はい」

頷くと正清さまは、そのまま器用に梯子を降りて地面に降り立たれた。


「大丈夫か?」

 そう言って手をとられてはじめて、私は自分が小刻みに震えていることに気がついた。


「は、はい…」

「まったくなんだってあんな……」


 その途端。

 ぽろっと涙がこぼれて頬を転がり落ちた。


「どうした?」

 慌ててかぶりを振りながらも、涙は止まらない。

 自然にどんどん溢れてくる。


「佳穂?どうした、どこか痛むのか?」

「……いいえ」

 私は子供がいやいやをするように首を振りながら懸命に答えた。


「どこも痛くはございません……でも」

「でも?」

「怖かった……」


正清さまは、はあっ、とため息をついて。


「そんなに怖い思いをしてまで、何であんなところに登ったのだ、この馬鹿!」

「も、申し訳ござりません…」

「泣かずともよい。大事なくて良かった。それより、何故あんなところに……」


 その時。


「まあ、仲のよろしいこと」


 ふいに、銀鈴を振るような涼やかな声がかけられた。


「その方がそなたの若紫の君なの?正清」


 正清さまのお体がびしっと固まる。

 その肩越しにそっとお邸の方を覗いた私は、縁先に零れた鮮やかな色彩に目を奪われた。

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