18.三条坊門
翌日。
私は三条坊門にある義朝さまの北の方、由良御前さまのお邸へと伺った。
正清さまは、
「後ほど、俺もご挨拶に参上するゆえ」
と言われて、義朝さまのいらっしゃる寝殿の方へとさっさと行かれてしまった。
女房がたが大勢行き来されている奥向きの御殿の周りはどうも居心地がお悪いらしい。
そのお背中を心細くお見送りして、私は案内役の女房どののあとに従って、北の方さまのお居間であられる北の対屋へと向かった。
「では、こちらでお待ち下さい」
壺庭に面した部屋に案内されて、そう指示された。
そう広くはないけれど、陽がよく入って明るく、気持ちのいい部屋である。
調度品のしつらえも、大仰でなく落ち着いていて。
それでいて、几帳とその飾り紐の色の組み合わせだとか、一つ一つに季節感を意識した気配りが感じられて、このお邸の女主人であられる北の方さまのお人柄をあらわしているようだった。
庭の木々も手入れが行き届いていて、どれも枝ぶりが美しく、目に鮮やかな緑の葉をいきいきと生い茂らせている。
この紅葉の木なんかも、あと一月ほどもたてば見事な秋の色彩をまとうようになるのだろう。
そんなことを思いながら、庭から入ってくる秋の風に吹かれていると。
ちりん。
小さな音が耳に入った。
「?」
空耳かと思ったのだが。
ちり……りん。
木々の葉擦れの音に混じって、やっぱり清げな音がする。
私は立ち上がって濡れ縁に出てみた。
あたりを見回すと音の原因はすぐに見つかった。
壺庭の片隅にある大きな楠の木。
その大きく張り出した枝のひとつに、なんとも可愛い白い毛並みの猫が登っている。
音は、その猫が首につけた絹紐に結ばれた鈴の音色だったのだ。
「まあ、可愛い」
私は思わず声をあげた。
もともと生き物は好きな方で、子供の頃には親戚から貰った子猫を飼っていたこともあるのだけれど。
その白い子猫は特別に可愛らしかった。首に結んだ萌黄色の飾り紐もよく似合っている。
その時。
「ゆき姫?……そこにいるの?出てきてちょうだい」
欄干の脇の萩の茂みの陰からふいに女の子の声がした。
「ゆき姫?」
呼びながら、ガサガサと茂みを揺らして姿を見せたのは、私と同い年くらいの女の子だった。
紅葉襲の小袿の裾を持ち上げて、心許なげにあたりを見回している。
こちらのお邸にお仕えしている女房どのだろうか。
品のいい細面の、白い肌が印象的な可愛らしい子だった。
その子は、私と目が合うと
「あ」
と小さく声を上げて、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございませぬ。お客様がいらっしゃるとは存じませず…失礼致しました」
「あ、いえ」
私も慌てて頭を下げた。
「私こそ、驚かせてしまってごめんなさい。……どうかなされました?」
「え?」
「どなたかをお探しのようであられたから」
私が言うと、彼女は困ったような顔で首を傾げた。
どういう者で、ここで何をしているか分からない私を相手に、どう対応してよいのか分からないのだろう。
「あの……私はこちらの殿にお仕えしている郎党の、鎌田の次郎正清の妻で、佳穂と申します。
今日は、北の方さまにご挨拶に伺いました」
そう名乗ると、紅葉襲の女房どのは、少しほっとしたように表情を和らげた。
「まあ、鎌田さまの……」
「はい。何卒、よろしくお願い申し上げます」
「あら、こちらこそ。私は北の方さまのお側近くにお仕えしている女房で、小妙と申します」
小妙さんは、にっこりと笑って頭を下げて。
それからすぐにまた困ったような表情になった。
「ところで佳穂さま。この辺りで子猫を見かけなかったでしょうか?」
「子猫?」
「はい。これくらいの……小さな白い子猫でございます」
私は目を丸くした。
「あ、では先ほど呼んでおられた、ゆき姫まと仰るのは……」
「はい。その猫のお名前でございます」
なんともまあ。都の上臈のお邸に飼われているとなると、猫までがお姫さまなのねえ。
変に感心しながら、私は庭の楠の木を指差した。
「もしかして、あちらの子猫ではないかしら?」
私の指の先を追って目線を上げた小妙さんが小さく悲鳴をあげた。
「ゆき姫!」
あら。やっぱり。
「北の方さまの飼い猫でいらっしゃいますの?」
呑気に尋ねる私の横で、小妙さんはあたふたと取り乱し始めていた。
「まあ、あんなところに…!どうしましょう…!」
手を組み合わせ、揉み絞り、その場を行ったり来たりして、すっかり狼狽えきっている。
「どなたか殿方をお呼びして、おろしていただけばよろしいのではなくって?」
私が提案すると、小妙さんは楠の木の上を見上げながら泣き出しそうな表情になった。
「それはそうなのですけれど……。 ああ。でも、そんな事をしていてこの事が浅茅さまに知れたら、どんなにきついお叱りを受けることか…」
「浅茅さま?」
「北の方さまの乳母であられるこちらの一の女房どのにございます。あのゆき姫は北の方さまがお仕えしている統子内親王さまからご下賜なされたもので……。 決して、無礼があってはならないと厳しく言い渡されておりましたのに」
内親王さまという言葉が出て私は少なからず驚いた。
こちらの北の方さまは、田舎住まいの私なんかには思いも及ばないほどの高貴なご身分の御方らしい。
なんといっても、帝の姫君であられる内親王さまのお側近くにあがれるほどの方なのだもの。
そんな方のもとに挨拶に上がることに、また改めて緊張がこみ上げてきたけれど。
今はそれよりも、まずこちらを何とかした方がいいみたい。
ええっと、今聞いた話を総合すると……。
要はこの小妙さんは、猫のゆき姫のお世話係りを任されていて。
そのゆき姫は、何かの拍子にお部屋から逃げ出して、どういう経緯を辿ってか、今、あの木の上でお寛ぎあそばしていらっしゃって。
そんな事が知れたら、その北の方さまの乳母どのの浅茅さまとやらに、きつーーーーく叱られてしまうので、それが恐ろしくて、出来れば内密のうちにゆき姫を連れ戻したい。だから、表の侍たちを呼んだりして、騒ぎを大きくしたくない、と、こういうことなのよね。
私は袿の裾をからげて、さっさと庭に降り立った。
「佳穂さま…?」
小妙さんが驚いたように目を丸くした。
「騒ぎが大きくならないうちにあの猫さんを捕まえたいのでしょう?お手伝いいたしますわ」
「お手伝いって…」
「とりあえず、あの木の下まで行ってみましょう」
私たちは壺庭のなかを横切ってクスの木の下まで行き、揃って上を見上げた。
ゆき姫は相変わらず呑気そうに前足で顔をこすっている。
「ゆき姫、ゆき姫?」
小声で呼びかけてみるが、チラリとこちらを見ただけで自分から下りてくる気はまったくないみたいだ。
そして木の下まで来て気がついたのだけれど。
ゆき姫が首に巻いている飾り紐。
萌黄色で鈴のついたそれが、小さな枝に絡みついているのが見えた。
それに気づいた小妙さんが、泣き出しそうな声をあげる。
「どうしましょう……。あれじゃ、飾り紐を解くか切るかしないと、ゆき姫は自分では降りてこられないわ」
それは誰かがあの木の上まで登らないとならない、ということだった。
表に行って、正清さまにお願いすれば多分して下さるとは思うけれど……。
義朝さま配下の郎党の方々ばかり集まっていらっしゃる表御殿の方へ、私がウロウロ行って正清さまを探したりしていれば、どうしたって人目についてしまうだろうし。
それでも、今にも泣きだしそうにしている小妙さんを見ていると、とても放っておく気にはなれなくて。
私は吐息をついて、あたりを見回した。
その時、いいものが目に入った。
あとから思えば、全然「いいもの」なんかじゃなかったのだけれど、私は喜んでそれ近づいた。
「佳穂さま……?」
訝しげに振り向いた小妙さんに私は声をかけた。
「小妙さんも手伝ってくださいな。これをちょっとお借りしましょう」
それは庭の木の手入れに入った庭師の誰かが忘れていったと思われる竹を編んだ梯子だった。
「お借りするって……」
「これを使えば私でも、あそこくらいまでは登れます」
「登るって、佳穂さまがですかっ?」
小妙さんは目をまんまるにして叫んだ。
「しっ。騒いだら人が来ます」
「な、なれど……」
小妙さんは口を抑えて、それでも慌てて首を振った。
「いけません。お怪我でもされたらどうなさいます!」
「でも、もう時間がありませんわ。早くしないと人が参ります」
「でも……」
「浅茅さまが怖いのでしょう?」
尋ねると、小妙さんは迷いながらも深々と頷いた。
「はい…。本気でお怒りになった時の浅茅さまは八岐大蛇のように恐ろしゅうございます……!お叱りになるお言葉のひとつひとつが、まるで火のようで」
そう言って身を震わせる。
私はしみじみ彼女に同情した。
八岐大蛇かあ…。
それは安達ケ原の鬼婆よりもだいぶ強力そうだわ。
「でしょう?だったら迷っている暇はないわ。私なら大丈夫。子供の頃は従兄のあとについて木登りなんかもしたことがあるんですよ。それこそ、鬼婆みたいな乳母に目から火が出るほど叱られたけれど」
私がくすっと笑って言うと、小妙さんはそれ以上、制止しようとはしなかった。
まだ、不安そうな表情をしながらも私を手伝って、梯子を木の下まで運んでくれる。
「よし」
梯子を木の幹にもたせかけると、私は袿の裾をたくし上げると、
「よいしょ」
と梯子の段に足をかけた。




