第10話 努力は報われる。
KI高校の入学式。真新しい制服の襟元が、少しだけ窮屈に感じられた。
県下屈指の進学校、その門をくぐったとき、俺は自分の人生が輝かしい階段を駆け上がっていくのだと、何の疑いもなく信じていた。
中学時代、独自の暗記術と徹底的な反復練習で「神童」と呼ばれた成功体験。それを携え、最初の模試では学年400名中90位という、及第点以上の成績を収めた。俺は自分の努力が、この場所でも正当に評価されると確信していた。
あの頃の自分を、今の俺が見れば笑うかもしれない。それが最も甘美で、最も残酷な幻想だったことを、当時の俺は知る由もなかったのだから。
転機は2年生の春、内部進学組との合流で訪れた。クラスが混成になり、俺は初めて「怪物」という存在の正体を目の当たりにする。
彼らは、放課後を部活に捧げ、週末は渋谷や原宿で遊び呆けているように見えた。授業中もそうだ。教師の背中で漫画を広げ、消しゴムを投げ合い、明らかに勉強などしていない。俺が睡眠時間を削り、教科書の隅々まで暗記しようと格闘している横で、彼らはあくびを噛み殺し、退屈そうに窓の外を眺めている。
しかし、定期テストが返ってくると、奴らは常に上位を独占した。
ある日の数学の授業。教師が黒板に書いたのは、応用レベルの難解な数式だった。
「この方程式を解くための補助線を引いてみろ」
教師の問いに、俺は脂汗を流しながらノートに論理を構築していた。条件式を整理し、過去の解法パターンを脳内から引き出し、一つひとつ積み上げていく。時間は刻一刻と過ぎていく。
その横で、内部組の生徒は、机の上で回していたペンを止め、あくびをしながら、消しゴムを投げて遊んでいた。
しかし、指名されて立ち上がった奴は、俺が10分かけて導き出そうとした数式を、わずか数秒の暗算で即答してみせた。
「正解。……まあ、こんなの当たり前だよな」
そんなふうに呟く奴の横顔を見て、俺は背筋が凍るような絶望を覚えた。彼らにとっての「理解」は、俺の「苦闘」を軽々と踏み越えていく。努力の量など、彼らの処理速度の前では無意味だと突きつけられた瞬間だった。
俺と彼らの間には、努力の量の差ではない、情報の「処理速度」と「解像度」の決定的な断絶があった。
俺にとっての「理解」は、岩を砕くような重労働だ。だが、彼らにとってそれは、霧が晴れるように瞬時に視界が開ける現象なのだ。
その決定的な才能の差を、俺は、あの教室で何度となく突きつけられた。
「地頭が違う」
教師が何気なく口にするその言葉が、俺の胸に鉛のように沈んだ。彼らは努力していないのではない。彼らにとっての「努力」の基準が、俺たちのそれとは根本から異なっているのだ。
彼らにとっては、この程度の難問を解くことすら、呼吸をするのと同じくらい、自然な所作なのだと。そう理解したとき、俺の胸に去来したのは、嫉妬などという生易しい感情ではなく、どうしようもない理不尽さと、それに抗おうとする、昏い執念だった。
俺の武器は、泥臭いまでの執念だけだった。
放課後の図書室。俺は参考書の背表紙が剥がれ、ページがボロボロになるまで読み込んだ。一問一問を噛み締め、論理を脳に刻み込む。それは、まるで砂漠で水を啜るような、乾いた作業だった。
ふと視線を上げると、隣の席に座った内部組の生徒が、難解な洋書や専門書を広げていた。彼はそれを、まるで夕刊のスポーツ新聞でも読むかのような気怠げな速さでページをめくっている。
彼らにとって、高校の教科書はすでに「既読」の、退屈で無価値な読み物でしかないのだ。
俺は、その光景を横目で眺めながら、自分の無力さを噛み締める。なぜ、あいつらはあんなに余裕があるのか。なぜ、俺だけがこんなに苦しんで、それでも結果が出ないのか。
そして、時間の使い方の質も違った。
俺が予備校の冷たい椅子で腰を痛めながらペンを走らせている間、奴らは渋谷のカフェで笑い合っていた。
「昨日のカラオケ、マジで喉枯れたわ」
と翌朝談笑しながら、模試の結果(全国トップレベルの順位)を無造作にカバンに放り込む。その姿を見るたび、俺の心は音を立てて削られていった。
俺が必死に「100位の壁」に挑み、それでも110位、120位と順位を落としていく間、彼らは一度もその「高み」から落ちることはなかった。
圧倒的な「余裕」。
俺が寝る間を惜しんで積み上げた努力を、彼らは呼吸をするように、遊びの合間に追い抜いていく。
「努力は、才能という名の余裕に勝てないのか?」
その問いが、夜な夜な俺の喉元に刃を突き立てる。
だが、俺はペンを置かなかった。ここで辞めたら、俺は本当の意味で「ただの凡人」として終わる。
あの頃の俺が、かつて京子という名の「女王」に翻弄され、悔しい思いをしてきた日々。ここで挫折して終わるような人生なんて、まっぴらごめんだ。
俺の勉強法は、あまりに不器用だった。
参考書は五周どころではない。十周、二十周と回し、ページの角が擦り切れ、背表紙が剥がれるまでやり込んだ。
夜中の三時まで電灯をつけ、朝は一番に教室について予習を済ませる。
それでも順位は落ちていく。クラスメイトが気遣わしげに声をかけてくる。
「松田、そんなに根を詰めるなよ。倒れるぞ」
彼らの優しさが、今の俺には毒にしか感じられない。彼らには分からない。このままでは、俺という存在が、凡人という檻の中に閉じ込められたまま、一生を終えてしまうという恐怖が。
だからこそ、俺はさらに自分を追い込む。
偏差値という数値化された世界で、俺は泥臭く、しかし誰よりも正確に、合格への道を逆算し続けた。
彼ら怪物たちには敵わなかったかもしれない。でも、このテスト用紙に向き合っている今この瞬間だけは、俺は俺のやり方で、最高の結果を出せると確信していた。
俺は、彼らのように軽やかに合格するつもりはない。
泥を啜り、岩盤を穿ち、その先にある合格を、執念で掴み取る。それが、凡人である俺に許された、唯一の「復讐」なのだと理解していた。
志望校判定の結果が返ってくるたびに、廊下では彼らの会話が聞こえてきた。
「東大? あー、まあ受けるつもりだけど。その先、研究室で何をやるかが問題だよな」
「だよな。まあ、東大行くのは当たり前として、海外の大学院とのコネクション作っとくか」
彼らにとって、東大は「目的地」ではなく、単なる「通過点」に過ぎなかった。
俺にとっての東大が、人生のすべてを賭して掴み取るべき「執念の結実」であるのとは、決定的に異なっていた。
彼らにとって、それは呼吸をするように到達できる場所であり、俺にとっては、息を止めて、血を吐きながらようやくたどり着ける「聖域」なのだ。
その温度差を感じるたびに、俺は自分の胸の中に溜まっていく黒い炎を燃やした。
いいさ、見ていろ。
お前たちがただの通過点として通過するその場所を、俺は、俺の人生の記念碑として刻んでやる。
3月。合格発表の日。
掲示板に並ぶ番号の羅列。
俺は震える足で、一番端から番号を確認していく。
……あった。
間違いようのない、俺の番号。
涙が溢れた。
努力が、報われた。いや、違う。努力は報われるという保証なんてない。
けれど、あの「地質」のような積み重ね。あの、擦り切れた問題集と、寝不足の毎日と、怪物たちを見上げ続けたあの悔しさ。あの執念が、この紙切れ一枚を俺の手元に運んできたのだ。
やったぜ。
俺は小さくガッツポーズをした。
これで、俺の人生の第一幕は終わりだ。
高校の教室で、彼らの圧倒的な背中を見つめながら感じたあの劣等感。あれを乗り越えられたことは、一生の誇りになるだろう。
俺はスマホを取り出し、母さんに合格の連絡を入れる。
東大。
ここから先は、また新しいステージだ。
今度はもっと、論理的に、もっと冷徹に。
俺は、俺だけの新しい武器を磨いていくことになるだろう。
これで、少しはあの「女王様」に見せつけられるような、立派な男に近づけたのかな。
ふとそんなことを思いながら、俺は大学キャンパスへの期待を胸に、学校を後にした。
背中を叩く春の風が、少しだけ心地よかった。
怪物たちには理解できないだろう、凡人が辿り着いたこの景色。
俺は、この景色を、一生忘れない。
次のステージでは、彼らのような「怪物」を、今度は俺がシステムで圧倒してやる。
そう心に誓い、俺は歩き出した。
物語の歯車が、またひとつ、確実に動き出した瞬間だった。




