第11話 努力は報われる2
東京大学の赤門をくぐった日から、俺の世界は一変した。
3000人の新入生がひしめく武道館。その熱気の中で、俺は改めて自分という存在の小ささを再認識していた。
高校までの「地頭」という名の天才たちに、俺は執念で追いついた。だが、ここはさらなる異形たちの吹き溜まりだ。全国から集められた、それぞれの分野で狂気じみた探究心を持つ人間たち。彼らの議論を聞いているだけで、俺の高校時代の苦闘など、狭い井戸の中の出来事だったように思えてくる。
ただ、この場所には決定的な違いがあった。
高校までの勉強が「用意された正解をいかに速く、正確に導き出すか」という、ある種の作業的側面を持っていたとすれば、ここでは「そもそも、なぜその問いが立てられたのか?」「その前提条件は本当に正しいのか?」という根源的な疑念が求められる。
教養学部での2年間、俺は講義室の椅子を温め、図書館の書棚に埋没し、貪るように本を読み漁った。
高校時代、怪物たちとの競争で身につけた「集中力」と「膨大な暗記量」は、ここでも強力な武器になった。だが、それだけでは通用しない。教授たちが投げてくるボールは、どこに飛んでくるのか予測不能な変化球ばかりだ。最初は戸惑った。自分の論理が脆くも崩れ去る感覚に、何度も夜を徹した。
だが、次第に俺の中に、ある感覚が芽生え始めた。
――すべての事象には、必ず因果という「システム」がある。
それを解明すれば、どんなに複雑な問いにも、論理的な回答を導き出せるはずだ。
俺は、無数の文献を突き合わせ、先人たちがどのような思考回路でその結論に至ったのかを分解していった。
これは、あの高校で奴らの動きを観察していた時と同じだ。
奴らはなぜその解法を選んだのか? なぜその時その選択をしたのか?
俺は、目の前の学問を「過去の自分に対抗する武器」として磨き上げることに、憑りつかれたように熱中していった。泥臭い努力は、もう「苦行」ではない。俺が最強の論客になるための、必要な「データ収集」へと変わっていたのだ。
2年生の2学期。俺は文学部人文学科を選択した。
周囲からは「なぜ歴史学なのか?」「就職に不利だぞ」と訝しげな目で見られた。だが、俺には明確な目的があった。
歴史とは、過去の出来事の羅列ではない。社会という複雑なシステムが、どのような因果関係で変転していくのかを解明するための、巨大なデータベースだ。
俺は、権力者がなぜその決定を下したのか、経済がなぜその地点で破綻したのか、という構造を分析することに没頭した。
そして、研究の合間に、俺はふと考える。――「京子というシステム」はどう動いていたのか。
彼女のあの女王のような振る舞い。周囲を支配し、俺を操り、思い通りに状況を制御する能力。あれは単なる我がままや、子供じみた支配欲ではない。
彼女は、人の欲求と、組織の力学を瞬時に計算し、最適な「報酬」と「罰」を配分することで、周囲を自分の望む方向に動かしていたのだ。それは一種のマネジメントであり、高度な政治的駆け引きだ。
かつての俺は、ただ翻弄されるだけの「観測者」だった。
だが今の俺は、歴史の文献から抽出したロジックを使い、彼女の行動原理を冷徹に分解することができる。
あの時、彼女はなぜあんな表情をしたのか。なぜあのタイミングでジュースを要求したのか。
一つひとつの記憶が、恥ずかしい過去の出来事ではなく、分析対象として整理されていく。
この作業は、かつての屈辱を過去のものへと塗り替える、最高に理知的な復讐だった。
彼女が俺に与えた支配という経験は、実は「組織の動かし方」を学ぶための、この上なく過酷で貴重なフィールドワークだったのではないか。
そう気づいた時、俺の中の澱が綺麗に消えていくのを感じた。俺はもう、過去の京子に怯える必要はない。彼女を「分析可能なシステム」として捉えることができたのだから。
学問を通じて得たのは、知識だけではない。「システムを動かすロジック」そのものだ。
俺は、自分の中に確信を持っていた。
俺の強みは、天才的な閃き(地頭)ではない。複雑に絡み合った因果を紐解き、先手を打つ、泥臭い分析能力だ。
それは、歴史の荒波を読み解く力であり、人間という予測不可能な変数を制御する力でもある。
就職活動の時期が訪れた。
俺は、歴史ある日系大手企業と、外資系企業との合弁会社を選んだ。
ここなら、日本的な年功序列の「古いシステム」と、外資的な「新しいシステム」が混在している。どちらのロジックが、どんな摩擦を起こし、どんな成果を生むのか。その現場で、俺の力を試してみたい。
卒論を書き終えた、春の日のことだ。俺は、かつての自分の弱さを、すべて過去のデータとして処理し終えていた。
もう、翻弄されるだけの俺はいない。あの頃の、言いなりになるだけの子供でもない。
俺のキャリアは、ここから始まる。
次に女王様と会うことがあったら、その時は、かつてのように膝を折ることはないだろう。
俺は、自分の分析能力を武器に、社会というシステムの中で、自分の居場所を勝ち取ってみせる。
もし、彼女が俺の人生に再び現れるなら、その時は「支配する者」と「支配される者」ではなく、プロフェッショナルとして、対等な立場で対峙する。
それが、10年越しに俺がたどり着いた、自分自身への答えだった。
俺は大学のキャンパスを後にした。背中に感じる風は、もうあの日とは違う。
これから向かう社会という名の戦場で、俺は俺の旗を掲げる準備が、ようやく整ったのだから。




