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第8話

 朝、王宮へ行く前に領土の仕事を片づけていると、グレアムが執務室に来た。

「閣下、ひとつご報告が」

「なんだ」

「エリア様ですが……昨夜もベッドをお使いになりませんでした。暖炉の前の絨毯でお休みになっているようです」


 ヴァルナードは書類から目を上げた。

「……そうか」

「いかがいたしましょうか」

「放っておけ」

 グレアムが下がっていった。


 放っておけと言ったが、頭から離れなかった。

 ベッドが使えない。やわらかすぎて落ち着かない。床の方が慣れている。

 8歳の子供が、そう言った。

 王宮へ向かう馬車の中でも、考えていた。何かしてやれることはないか。だが子供の扱いなど、まったくわからなかった。


 騎士団の詰め所に入ろうとすると、部下たちの話し声が聞こえた。

「閣下が子供を引き取ったらしいぞ」

「あの閣下が?信じられん」

「しかも女の子だとか」

「閣下に子育てができるのか…?」

「閣下に出来なくても、子育てしますって女性ならいくらでも現れるだろう」

「お前ら」

 全員が直立不動になった。

「聞こえていたぞ」

「も、申し訳ございません!!」

 部下たちが顔を青くした。ヴァルナードは冷たい目で一瞥してから、執務室へ向かった。

 だが歩きながら、心の中で思った。

 ——子育て、か。

 確かに、まったくわからなかった。


「おい」

「はっ!」

「子供は何が好きだ?」

「は、はい!自分の妹は人形や絵本が好きです!」

 人形と絵本、何もかも知らない世界だった。

 だが人形は初日にそれらしきものを見た。エリアは麻で出来た人型のものを抱えていた。

 ならば絵本か……。


 帰宅してから、図書室へ向かった。

 広い図書室の棚を端から眺めた。難しい文字が並ぶ本ばかりだった。その中に一冊だけ、場違いな本があった。

 小さな竜と少年が表紙に描かれた、子供向けの絵本だった。

 誰が買ったのか、それとも私の子供のころのものか。

 手に取って、パラパラとめくった。

 竜は怖がられていたが、本当は臆病だった。少年だけが友達だった。

 ヴァルナードはしばらくそれを見ていた。

 これしかない、とは思わなかった。ただ、他に思いつかなかった。

 絵本を抱えて、エリアの部屋へ向かった。


 ◆


 わたしはまたひとりで静かにお昼を食べた。

 ここに来てから、食べる以外の仕事がない。

 仕方がないのでお屋敷とお庭を探検することにした。

 お屋敷の案内はしてもらったが、やっぱり自分ひとりでじっくり見るとたくさんの発見がある。


 廊下を歩いていると笑い声が聞こえた。

 台所の方からだった。

 こっそり覗いてみると、使用人たちが何かを話しながら笑っていた。料理をしながら、笑っていた。特別なことは何もなかった。ただ話して、笑っていた。

 わたしはしばらくそれを見ていた。

 笑う、ということが、よくわからなかった。

 シャルロット様はよく笑っていた。でもあれは、わたしを馬鹿にするときの笑いだった。男爵夫人も笑っていた。でもあれは、わたしを見下すときの笑いだった。


 使用人たちの笑いは、それとは違った。

 楽しいから、笑っている。

 そういうことが、あるのか。


 部屋に戻って、鏡の前に立った。

 笑ってみようとした。

 口の端を上げてみた。なんか違った。目が笑っていなかった。もう一度やってみた。やっぱり違った。怖い顔になった。

 笑い方が、わからなかった。


「あら、エリア様なにをしているんですか?」

 リナさんが部屋にやってきて、鏡の前で表情を動かそうと自分の顔と格闘しているわたしを不思議そうに見た。

「ちょっと…笑ってみたくて」

「まあ。ふふ、焦らなくても笑いたいときに自然と笑えますよ」

 そういうリナさんの笑顔は素敵だ。


 リナさんはいつもほんわかとしていて、よく笑っている。

 さっきの台所の人たちの笑いとはちょっと違うけど、いつも少し、笑っている。

 あたたかい感じがした。

 鏡に視線を戻した。

 鏡の中の自分が、じっとこちらを見ていた。

 灰色の瞳。白銀の髪。薄い緑のワンピース。

 笑えない子が、いた。


 夜になった。

 今日もお風呂に入った。

 そして清潔な新しい寝間着を着せてもらった。

 髪も体も綺麗になったので、少し色が明るくなった気がした。

 鏡を見るたびに変わっていく自分の姿が不思議だった。

 変わらないのは目と、細い体だけだ。

 髪の毛を丁寧に乾かして梳いてくれたリナさんが部屋から下がって、ひとりになった。


 暖炉の前の絨毯に座って、膝を抱えていた。ベッドはまだ使えなかった。やわらかすぎて、沈み込みすぎて、落ち着かなかった。

 引き出しにしまっている人形を取り出した。

 心の中で、今日一日の出来事を話しかける。

 人形に名前は付けてなかった。男爵家でいつ捨てられるかわからなかったから、悲しくないようにしておいた。

 広い部屋、豪華な家、おいしい料理、親切な人たち、何もかも落ち着かない。


 突然、扉がノックされた。

 答えるより先に声がした。

「入るぞ」

 ライゼン様だった。


 冷たいいつもの表情。切れ長の目に黒い髪。

 いつも髪の毛は綺麗になでつけられていていたが、今日はお風呂上りなのかちょっとふわふわしていた。服装もいつもはぴったりとしてパリっとしているのに、ゆったりした服だった。


 いつもと違う姿をじっと見つめてしまった。

 とても背が高い。

 お仕事が騎士様だと聞いた。

 だからきっと体が大きいのだと思った。


 そんな大きな手に、小さな本を持っていた。

「……何でしょうか」

「ベッドで寝ろ」

「……床の方が慣れているので」

 ライゼン様は少し黙った。それから、ため息をついた。

「そうか」

 

 わたしの方へ歩いてきて、絨毯の上に、どかりと座った。

 びっくりして固まった。

「読んでやる」

 本を開いた。子供向けの絵本だった。表紙に、小さな竜と少年が描いてあった。


「ライゼン様…」

「ヴァルナードと呼べ」

「……ヴァルナード様……」

「そうだ」

「その本はヴァルナード様向けではありません……」

「お前向けだ。私が読むと言っている」


 ヴァルナード様は咳払いをして、読み始めた。

 低くて、静かな声だった。

 物語は、竜と少年の冒険の話だった。竜は怖がられていたが、本当は臆病で、少年だけが友達だった。少年は竜のために、村人たちと戦った。

 ヴァルナード様は淡々と読んだ。感情を込めるわけでもなく、ただ読んだ。

 施設に居た時に聞いた読み聞かせとは違った。

 わたしは、それを聞いていた。

 竜が村人たちに石を投げられる場面で、胸がちくりとした。少年が竜をかばう場面で、息をのんだ。

 竜が「なぜ助けるのか」と少年に聞く場面があった。少年は「友達だから」と答えた。

 なんでもないセリフだった。

 でも竜の返事はこうだった。

「友達というのは、石を投げてこないものなのか」

 竜は友達を知らないんだとわかった。

 わたしも知らない。

 この竜はわたしみたいだ。

 

 その後、少年と竜は二人で笑い転げた。

「あっはっは。あっはっは」

 そのセリフを読んだとき、ヴァルナード様が少し間を置いた。

 すごく棒読みで、ヴァルナード様が絶対言わない言葉だし、なんだかおかしかった。

 わたしの口元が、わずかに動いた。

 笑いかけた。

 ヴァルナード様がちらりとこちらを見た気がした。でも何も言わなかった。また読み続けた。

 

 物語の終わりで、竜と少年は村を救った。村人たちは竜を受け入れた。竜は初めて、村の真ん中で眠った。

「おわり」

 ヴァルナード様が本を閉じた。

 

 暖炉の火がぱちぱちと鳴っていた。

 眠かった。いつの間にか、体がほぐれていた。目が重かった。

「……ヴァルナード様」

「なんだ」

「竜は、幸せになれましたか」

 少し間があった。

「なれた」

「……そうですか」

 よかった、と思いながら、目を閉じた。

 気づいたら、眠っていた。


 目が覚めると、毛布がかかっていた。

 暖炉の火はまだ燃えていた。

 部屋には、誰もいなかった。

 ヴァルナード様が座っていたところに、昨夜の絵本が置いてあった。

 それを見たら、ヴァルナード様の声を思い出した。

「あっはっは」を思い出して、口がむずっとした。



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