第6話
朝食の後、グレアムさんに呼ばれた。
「エリア様、お風呂の準備ができております。こちらへどうぞ」
お風呂。
男爵家にはなかった。体を洗うときは裏庭の井戸で水を汲んで、絞った麻布で拭くだけだった。冬はそれすら省いた。凍えるから。
男爵夫妻とシャルロット様はお湯だった。
案内されたのは、廊下の奥の部屋だった。
扉を開けると、湯気が漂っていた。白いタイルの床。猫足の大きなバスタブ。そこに、なみなみとお湯が張られていた。
周りには植物や花が飾られていた。
「ど、どうやって水を入れるんですか」
思わず聞いていた。
「こちらの蛇口をひねりますと、お湯が出てまいります」
グレアムさんが蛇口をひねって見せた。じゃあっとお湯が流れ出した。
「……蛇口から、お湯が?」
「はい。屋敷には魔法で温められたお湯が出る、給湯の仕組みがございます」
意味はよくわからなかった。でも蛇口をひねるだけでお湯が出ることだけはわかった。
男爵家では井戸から水を汲んで、鍋で沸かして、バケツに入れて、それでようやく体を拭いていた。それが当たり前だと思っていた。
蛇口から、お湯が出る。
「エリア様、何かご不明な点はございますか」
はっと我にかえった。
「……ここに、入っていいんですか」
「もちろんでございます。ごゆっくりどうぞ」
グレアムさんが下がっていった。
一人になった。
浴槽のふちに手を触れた。温かい湯気が登ってきた。恐る恐る手を浸けてみた。気持ちよかった。
でも、入っていいのだろうか。
こんな大きな浴槽に、やっかいもののわたしが入っていいのだろうか。
贅沢過ぎる。
でもここでは、ずっと不思議なことが起きている。
しばらく迷って、覚悟を決めた。
服を脱いで、浴槽の中に入って、ゆっくりと体を沈めた。
あたたかかった。
全身が、あたたかかった。
男爵家の冬の朝、凍えた裏庭で水を汲んでいたこと。冷たい廊下を素足で歩いていたこと。物置の隅で毛布一枚にくるまっていたこと。
全部が、遠い昔のことみたいに思えた。
目を閉じた。
お湯の中で、体がじんわりとほぐれていく気がした。固くなっていたものが、少しずつ溶けていく気がした。
どのくらいそうしていたかわからない。
気づいたら、侍女が後ろに立っていた。
「エリア様、髪をお流ししましょうか」
とてもびっくりしたが、どうすることも出来ない。
「……はい」
侍女が丁寧に髪を洗ってくれた。
いいにおいの液体を頭にかけて、優しく泡立ててくれた。
わたしは目を閉じたままされるがままにしていた。
途中でスポンジが渡された。
体を優しくこすると汚れが落ちるということだった。
確かに、ひとなでするごとにお湯が濁っていった。
「あの……」
侍女の声が止まった。
「はい。どうしましたか」
「いえ、その……エリア様の髪が……」
なんだろうと思って振り返った。
侍女が目を丸くしてわたしの髪を見ていた。
「……白い、です」
「はい、そうです」
「いえ、あの、こんなに綺麗な白銀だとは……気づきませんでした。ずっと汚れ…いえくすんでいらしたので……申し訳ございません」
侍女が慌てて頭を下げた。
自分の髪が白銀だということは知っていた。
「とても珍しい髪色ですね」
「……。知りませんでした」
確かに、どこにいても見たことはなかった。
だけど、自分の髪色がそんなに珍しいものとも思っていなかった。
男爵家では「幽霊みたいな髪色」と言われていた。
浴槽から上がって、侍女に髪を拭いてもらった。鏡の前に座ると、白銀の髪がふわりと広がった。
汚れが落ちると、光を受けてきらきらと輝いた。
初めて見る色になった気がした。
そして自分がいい匂いになったと思った。
シャルロット様とは違うが、甘い花のような匂いだった。
「いい匂い……」
「はい。エリア様のために用意されていたものです」
わたしのために?
どういうことかわからなかった。
部屋に戻ろうとして、廊下でヴァルナード様とすれ違った。
ヴァルナード様の目が、わたしの髪で止まった。
一瞬だけ、表情が変わった。
また、あの顔だ。驚いたようなこらえるような、うまく言えない表情。
「……ヴァルナード様?」
「なんでもない」
ヴァルナード様はそれだけ言って、廊下を歩いていった。
わたしはその背中を見送った。
なぜあんな顔をするのか、やっぱりわからなかった。
お昼になって、グレアムさんに呼ばれた。
「エリア様、昼食の準備ができております」
食堂へ行くと、ヴァルナード様の姿がなかった。
「閣下は本日、王宮へ出向いております。エリア様おひとりでお召し上がりください」
グレアムさんがそう言って、下がっていった。
一人。
長いテーブルに、わたしひとりだった。
男爵家では、わたしは食堂に席がなかった。家族の食事が終わるまで壁際に立って待って、台所で残り物を食べた。だからテーブルに座って食べることが、まだ慣れなかった。
でも今日は、ヴァルナード様もいない。
グレアムさんとは別の執事さんが椅子を引いてくれたので、座った。
昼食が運ばれてきた。温かいスープ、柔らかいパン、鶏肉の煮込み。それからデザートに小さなタルトまであった。
じっと見た。
食べていいのだろうか。
「どうぞ、エリア様のお食事でございます」
侍女が言った。
そういえば彼女の名前を聞いてなかった。
「……ありがとうございます」
質問をしたり自分から話しかけるのはすごく気が重い。
変なことを言ったら怒られてしまうし、相手の機嫌を損ねるのは悪いことだ。
悪いことはだめなこと。
侍女の顔とお昼ご飯を行ったり来たりして、名前はあとで聞こうと思った。
スプーンを手に取った。スープを一口すすった。
あたたかかった。
だしの味がじんわりと広がった。男爵家のスープとは全然違った。
急いで口にいれる。
汗をかいてきた。
ふと周りを見ると、にこにこと温かい目がこちらを見ている。
私が男爵家で壁に立っていたように、侍女と執事が立っているが、彼らはとても嬉しそうな顔をしている。
急がなくていいと気づいたのは、途中からだった。男爵家では仕事が山積みで、残り物を食べたら、洗い物が待っていた。さっさと済ませなければならなかった。でもここでは誰も急かさなかった。
静かだった。
遠くで使用人たちが動く気配はあったけれど、誰もわたしを怒鳴らなかった。誰も嫌味を言わなかった。ただ静かに、お昼ご飯が目の前にあった。
鶏肉を食べた。タルトを食べた。
全部、食べ終わった。
いつもはもっと食べたいと思うのに、今日は思わなかった。
お腹がずっしりしている。
「ごちそうさまでした」と言って椅子から立ち上がって、食堂を出た。
やっぱり今日も廊下が暖かかった。
今日も、追い出されなかった。
そう思いながら、侍女に連れられて部屋への階段を上った。




