第5話
大きなお屋敷の主、そして公爵であり騎士団長であるヴァルナード・ライゼンは、小さな少女について考えていた。
昨日の早朝、突然やってきたエリアだ。
親友アルベルトの遺言で引き取ることになったが、ヴァルナードのもとへ連絡が来たのが遅れ、行方が分からなくなってしまった。
アルベルトが死んだのは3年前だった。
穏やかで知的な男だった。ヴァルナードとは正反対で物腰がやわらかく、学者肌な人物だった。死ぬ少し前に子供を引き取ったと聞いた。研究の調査でよく旅に出ていた。
だがその旅先で事故にあった。
アルベルトが死に、5歳のエリアだけが残された。
身元の確認に時間がかかり、その間にエリアは身元不明の孤児として施設に入れられてしまった。
さらに悪いことに、その頃ヴァルナードは、騎士団の遠征のために隣国にいた。連絡が届いたのは半年後で、急いで帰国したがエリアは各地をたらいまわしにされた後で、行方を追うのに3年かかってしまった。
ようやくクレイン男爵家に居ると分かり、引き取りたいと申し出た。だが男爵は渋った。報酬を寄こせと言わんばかりの態度だった。
それだというのに突如連絡が来て、次の朝には彼女が到着してしまった。
いったい何故なのか。
わからないことだらけだ。
ふうとため息をついた時、ノックの音がした。
「なんだ」
「失礼します。エリア様がその…」
扉を開けたヴァルナードは、そこで動きを止めた。
部屋の入り口に、小さな子供が立っていた。灰色の瞳を丸くして、こちらを見上げていた。頬に絨毯の跡がついていた。髪が少し乱れていた。
ヴァルナードは部屋の中に視線を移した。
ベッドのシーツが、乱れていなかった。枕もそのままだった。布団も綺麗なままだった。誰かが眠った形跡が、どこにもなかった。代わりに、暖炉の前の絨毯の上に小さなくぼみがあった。そこで丸くなっていたのだろう。
「……なぜベッドで寝ていない」
できるだけ普通に聞いたつもりだった。
子供——エリアは叱られたように怯えてうなだれ、少し考えて答えた。
「床の方が、慣れているので」
ヴァルナードは何も言えなかった。
慣れている。
八歳の子供が、床で眠ることに慣れている。ベッドがあるのに使い方がわからない。やわらかすぎて落ち着かない。だから床で丸くなって眠った。
それが、この子の今までの生活だったということだ。
「そうか」
絞り出すように言った。それしか出てこなかった。
「朝食の準備をしなくて、申し訳ありません」
エリアが静かに言った。怒られることを覚悟しているような、平坦な声だった。
「しなくていい」
「でも、わたし、何もしないと——」
「しなくていいと言った」
少し強くなってしまった。エリアが小さくなった。また怒鳴られた、というような顔だった。
ヴァルナードは息をついた。
「……朝食は使用人が作る。お前は食べるだけでいい。わかったか」
エリアはしばらく黙っていた。それから、小さくうなずいた。
「わかりました」
「着替えたら下に来い」
それだけ言って、ヴァルナードは扉を閉めた。
廊下に出て、扉に背をつけた。目を閉じた。
親友の遺言状には、こう書いてあった。
『この子を頼む。この子は、過酷な運命を背負う子だ』
たったそれだけだった。
床で眠ることに慣れている八歳の子供。
ヴァルナードは、静かに拳を握りしめた。
朝食の時間になった。
食堂に現れたエリアを見て、ヴァルナードは眉をしかめた。
ぼさぼさの艶のない灰色の髪。
ぼろぼろの茶色の服、擦り切れた靴。ひょろひょろの体で枝のように細い。
昨日の服もひどかったが、今日もひどい。
クレイン男爵家でまともな服が与えられなかったのだろう。
服だけでなく食事も、何もかも。
執事が椅子を引くと、エリアはまた遠慮しながら座った。
朝食が運ばれてきた。
昨日と同じ、白パンとミルクと卵とベーコン。今朝はスープと果物も足すように言いつけてある。
エリアの冷めた目が、わずかにキラキラと輝いた。
やはり今日も「食べろ」と言わないと食べないが、食べ始めるとすごい勢いだった。
フォークとスプーンを使ってとにかくかきこんだ。卵もベーコンもスープもあっという間にたいらげ、パンをちぎっては口に運び、カゴ空にした。グレープフルーツは食べ方がよくわからないらしく、手づかみで四苦八苦していた。
ヴァルナードは、エリアが昨日の朝食の後、部屋に下がってから、昼も夜も出てこなかったので何も食べてなかったんだと気づき、悪いことをしたと思った。
これまで見てきた社交界の令嬢たちは食が細いし、腹が空けば侍女たちに軽食を持ってこさせるものだったので、そういう風に自分で何かするだろうと思っていた。
エリアが我に返って顔を上げた。また顔が赤い。
執事に目くばせした。新しいパンとハムとチーズが運ばれてきた。
「ゆっくり食べればいい」
「い、いえもう十分いただきました」
「本当か」
「はい」
嘘だと分かった。
目が皿から離れていなかった。
「食べろ」
しばらくの沈黙の後、エリアはおずおずと手を伸ばした。
その様子を見ながらヴァルナードは静かな怒りを飲み込んでいた。
八歳の子供が、腹いっぱい食べることに遠慮している。食べていいかどうか、許可を待っている。それが当たり前になっている。
3年。
3年の間、この子はどこでどんな生活を送ってきたのか。
食事が終わり、エリアが部屋に戻った後、ヴァルナードは執事のグレアムを呼んだ。
「あの子の服を新調しろ。
古い服は処分してもいいと思うが――。確認してからにしてやれ」
「かしこまりました」
「食事も1日3回きちんと出すように。量も多めに。毎回、食事の時間だと呼びに行くこと。間食も用意しておけ」
「はい」
「それから…」
ヴァルナードは少し間を置いた。
「あの子が食べている時に驚いた顔をしないように。どんな時も怖がらせないように。使用人全員に伝えておけ」
「…承知いたしました」
グレアムが下がっていくのを見送って、ヴァルナードは窓の外に目を向けた。
ぼろぼろの姿といい、飢えている様子といい、劣悪な環境が恐ろしいほどありありと想像できた。
ヴァルナード自身、子供が好きというわけでもなかった。
だが、エリアを見ていると同情を禁じえなかった。
3年の空白とそこでの生活が重くのしかかった気がした。
それ以前のことも何もわからない。
アルベルト、お前の大事にしていた子を、長い間ひどい場所に置いてしまった。
すまない。
そう、心の中でつぶやいた。
子どもが好きというわけでも、好かれるわけでもない自分をアルベルトがなぜ選んだのかもわからない。
年齢的に、結婚している者もいるが、ヴァルナ―ドは興味がなかった。
だから、遺言が届けられたことに、困惑した。
だが、思慮深い彼のことだからよほどのことがあるのだろうと承諾した。
受け入れたからには、きちんと貴族令嬢として育てようと思っていたが、もっと基本的な、まともな生活を送らせることからのスタートになった。
暗い目はしているが、考えてから話すところは好感を持った。
苦労した分、大人びているのかもしれない。
気になるのはあの白っぽい髪だ。
杞憂ならいいが――。と、ヴァルナ―ドは厳しい顔つきのまま、アルベルトの遺言をそっとしまった。




