第4話
うとうとしていると「もうすぐ着くぞ」と御者に声をかけられた。
窓から外を見ると、立派な黒い鉄の門に金色の飾りが光っていた。
男爵家とはまったく違う、大きな門だった。
その大きな門には衛兵がいて、御者と話すと大きな門はゆっくりと開いていった。
もうすぐ降りるのだと思って、背筋を伸ばしたが、馬車はそれからしばらく止まらなかった。
森のような木々の中を抜けていくと、ようやくお屋敷が見えてきた。
見たことない大きさだった。そしてすべてピカピカしている。
館の前には湖と庭と小川があり、大きな噴水もあった。
冬だからか、水は入ってなかったけど。
見たことのない世界にあんぐりと口を開けていると馬車が突然止まった。
「ここだ」
御者が馬車の上からそう言った。
わたしは小さな荷物と人形を抱きかかえ、馬車のステップを降りた。
馬車はすぐに走り去った。振り返りもしなかった。
目の前のお屋敷を見上げた。
大きかった。これまで連れて行かれたどの場所とも比べものにならないくらい、大きかった。大きな立派な扉。磨かれた石造りの壁。左右に並ぶ窓からは暖かそうな光が漏れていた。扉の両脇にはランプが灯っていて、まだ薄暗い冬の朝日の中でゆらゆら揺れていた。
胃がきゅっとした。
人が多いところは、駄目だ。感情が動くと魔力が暴れる。だから何も感じないようにする。ずっとそうしてきた。
ここでやっていけるとは、ますます思えなくなった。
これではどうせここも、長くはいられない。
そう思いながら、扉の前に立った。
誰もいない。
こんな立派な扉の前にいていいのだろうか。少し不安になってきた。
お屋敷の中から慌ただしい気配を感じる。
使用人の出入口がわからないので、とりあえずここで誰かが出てくるのを待つ。
少し待つと扉が開いた。
出てきたのは、背の高い男だった。黒い外套。短く切りそろえた漆黒の髪。冷たい鋭い目。
堂々と立つ姿は、彫刻のようだった。
顔の造りは整っているのに、笑っていないせいで怖かった。いや、怖いというより——近づいてはいけない、という空気をまとっていた。
この人がライゼン様、ヴァルナード・ライゼン公爵だと思った。
男爵夫人が言っていた。王都でもっとも恐れられる公爵だと。
男は顔をしかめながらわたしを見下ろした。
鋭い目が怖かったが目を逸らせなかった。
相手をじっと見るのは失礼だと言われ、怒られてきたのに。
長い沈黙があった。
男の目がわたしの顔で止まった。それから髪、古びた靴の先まで、ゆっくりと動いた。値踏みじゃなかった。もっと別の、うまく言えない視線だった。何かを確かめるみたいに。
その時、男の表情が、一瞬だけ変わった気がした。
少し、驚いたような。
わたしにはその意味がわからなかった。
「……名前は」
低い声だった。怒鳴られはしなかった。
「エリアです」
「エリア」
静かに繰り返した。それだけだった。質問も説明もなかった。
「入れ。飯にする」
男は踵を返した。
わたしはその背中についていった。
屋敷の扉をくぐった瞬間、暖かい空気が流れ込んできた。
足が止まった。
暖かかった。廊下が。
男爵家の廊下は冬になると凍えるように冷たかった。夜明け前に台所へ向かうたびに、足の感覚がなくなった。だからここの廊下が暖かいことが、うまく理解できなかった。
「どうした」
男が振り返った。
「……なんでもないです」
顔を伏せて、また歩き出した。
案内されたのは二階の部屋だった。扉が開くと、ベッドがあった。白いシーツ。ふかふかの枕。窓際には小さなテーブルと椅子。暖炉にはすでに火が入っていて、部屋全体が柔らかく暖められていた。
「お前の部屋だ」
動けなかった。
自分の部屋。
これまで与えられた場所は物置の隅だった。毛布一枚と薄い敷布だけ。それが当たり前だと思っていた。だからベッドのある部屋を「お前の部屋」と言われても、何をどうすればいいのかわからなかった。
「……ここに、入っていいんですか」
「お前の部屋だと言った」
男はそれだけ言って、廊下へ戻っていった。
一歩だけ踏み込んだ。部屋の中も暖かく、暖炉の火がぱちぱちと鳴った。ベッドに近づいて、シーツに指先だけ触れた。
やわらかかった。
きっと何かの間違いだ。こんな部屋がやっかいもののわたしに与えられるはずがない。明日になったら「やっぱり物置を使え」と言われるに決まってる。それかもっと早く、今夜中に間違いに気づいて追い出されるかもしれない。
ぐるぐると混乱した頭で考えていたら、もしかしたら誰かと間違えているのかもしれない、と思った。
誰かと話をしなくてはと、部屋から出ると、綺麗なメイド服を着た侍女とぶつかった。
「きゃっ」
「ごめんなさい!」
とっさに深く頭を下げた。
すると向こうが目を丸くして
「も、申し訳ございません!」
と言ったのだ。
ますますわけがわからなかった。
「わたしは誰かと間違えられています。
わたしはクレイン男爵家からここに来た使用人です」
そう伝えた。
すると、侍女はますます目を丸くして
「エリア様はこちらのお部屋で間違いございません」
と言ったのだ。
荷物を解いて(といっても2着の服と人形はすぐ収まった)、1階へ降りて行った。
朝食の時間だという。
心臓がどきどきするのを抑えるのに必死だった。
そして豪華なテーブルに通された。
執事が椅子を引いてくれたのも、何をしているのかわからなかった。
わたしのために椅子を引いたのだ。
「どうぞ」
と言われ、はっとしてどぎまぎしながら椅子に座った。
これは何かの間違いだ。
そう思っていると、朝食が運ばれてきた。
いい匂いが立ち込める。
ふかふかの白いパン。なみなみと注がれたミルク。
こんがりと焼かれた卵とベーコン。
おもわず凝視してしまう。
「どうした。食べろ」
急に声をかけられ、びくっとすると、長い机の反対側にライゼン様がいた。
まったく気づかなかった。
失礼のないように、何か言わなくては、と思うのに口の中は既につばがあふれ出てきていて、何も言えない。
「ふん」
無言のわたしから目を逸らし、ライゼン様は朝食を食べ始めた。
おずおずとわたしも食べ始める。
今まで食べた何よりもおいしかった。
ひと口食べるともう止まらず、いっきにむさぼった。
お皿を空にして、カゴのパンも全部食べ切った時に我に返った。
周りがびっくりしている。
なんだかわからないが、急に恥ずかしくなった。
何かやってしまったんだ。
おそるおそる公爵を見た。
恐ろしい顔でこちらを見ていた。
「も、申し訳ありません…」
公爵は近くの執事に何か耳打ちした。
少し経つと、新しいパンとハムとチーズがやってきた。
「腹が減っているなら食べるといい」
「い、いえもう十分です」
「本当か?嘘は許さんぞ」
嘘…。本当はもっと食べたい。でもそんなことを言っていいのだろうか。
どこにいても、たくさん食べることは悪いことだった。
急に食べていいなんてどう考えてもおかしい。
「食べろ」
公爵は言った。
夢かもしれないと思った。
変な夢を見ているのだと言い聞かせて食べた。
味はやっぱりおいしかった。
おなかがいっぱいになると、頭がぼーっとしてきた。
公爵が部屋に戻れと言った。
さっきの侍女に案内されて、部屋に戻った。
ベッドに腰を下ろした。沈み込むやわらかさが、なんだか申し訳なかった。
やっぱり落ち着かなかった。やわらかすぎて、沈み込みすぎて、自分がどこにいるのかわからなくなる気がした。
それに、汚してしまいそうだ。
そっとベッドから降りた。
暖炉の前に近づくと、絨毯がふわふわだった。足の裏で踏むたびにふかふかと沈む。こんな絨毯も、初めてだった。
膝を抱えて、暖炉の前に座った。
火がぱちぱちと鳴っていた。オレンジ色の光が揺れていた。暖かかった。
どうせ明日には追い出される。今日だけだ。
そう思っているうちに、目が重くなってきた。
気づいたら、眠っていた。




