第3話
翌朝も、夜明け前に目が覚めた。
いつもの寒い物置だ。
いつも通りに起き上がって、いつも通りに廊下へ出ようとして、足が止まった。
昨日のことを思い出したからだ。
割れた香水瓶。金色に光った自分の目。シャルロット様の悲鳴。廊下から聞こえた夫妻のひそひそ声。
——いつ何をするかわからない。早めに手を打った方が——
今日はどんな顔をして台所へ行けばいいのか、わからなかった。でも行かなければ怒られる。わたしは蝋燭に火をつけて、いつも通りに歩き出した。
朝食の準備をしていると、台所の入り口にシャルロット様が現れた。
珍しい。シャルロット様が台所に来ることはほとんどないのだ。
「ねえ、やっかいもの」
シャルロット様は腕を組んで、意地悪そうに口の端を上げた。
「お前、よそにやられるんですって。聞いた?」
わたしは鍋をかき混ぜる手を止めなかった。
「知りませんでした」
「そう。早く知りたいかと思って。
私って優しいから」
ふふっと嬉しそうに笑った。
「どこへ行っても同じよ。あなたみたいな化け物、どこも受け入れてくれないわ」
シャルロット様はくすくす笑いをする。
「そうかもしれません……」
「かわいそうにね」
そして、水の入ったバケツを蹴っ飛ばした。
「あらやだ、ごめんなさいね」
あはは、と楽しそうに笑って台所から出て行った。
石の床は水浸しになり、しゃがんでいたわたしも水をかぶった。
怒りをぐっとこらえた。深呼吸をしないとだめだ。
また迷惑をかけてしまう。
息を吸うと、シャルロット様がつけている甘ったるい薔薇の香水の香りがした。
かわいそうに、という言葉を、わたしは何度聞いただろう。
モップで水を拭く手を止めた。
同情しているわけじゃない。見下しているのだ。哀れんでいるのではなく、自分より下だと確認しているのだ。それくらいはわかった。
ゴシゴシと力任せにモップを動かした。
わたしがせめて出来る八つ当たりだった。
夕方、夫人に呼ばれた。
応接間に入ると、男爵夫妻が揃って座っていた。男爵はわたしをほとんど見なかった。夫人だけが、値踏みするような目でこちらを見ていた。
「単刀直入に言うわ。明日、よそへ行ってもらいます」
「……はい」
「ライゼン公爵家よ。亡くなった方の遺言で、あちらがあなたを引き取ることになったのですって。本来ならもっと早くそうすべきだったのでしょうけど、色々と事情があって――。
だって、恐ろしい騎士様なのよ。
そんなところ行きたくないでしょう?ね」
男爵夫人は、わたしのためにそうしたみたいな言い方をした。
でもきっと違う。
色々と事情があって。
その言葉の意味がわかった。引き取り先が決まるまでの間、タダで働かせるつもりだったのだ。掃除も洗濯も食事の支度も、全部わたしにやらせて。
「でもこうなってしまってわねぇ。
シャルロットがお前を怖がってるのよ。
だから、申し出を受けたのよ。荷物はまとめておきなさい。明朝、馬車が来るわ」
「……わかりました」
「それから」夫人は立ち上がりながら言った。
「あちらでは昨日のようなことは絶対に起こさないように。ライゼン公爵のご迷惑になるようなことがあれば承知しないから。
ライゼン公爵はとても厳しいお方ですからね。
お前のような子が、あのうちで務まるのかしら」
承知しない、と言われても。
わたしはもうここを去るのにどうするというんだろう。
荷物をまとめるために物置に向かって廊下を歩いていると、応接間の扉が少し開いたままだった。
夫人とシャルロット様の声が聞こえてきた。
「ねえママ、ライゼン公爵って怖い人なの?」
「怖いなんてものじゃないわ。黒竜と呼ばれているのよ。戦場では無双で、逆らった者は容赦しないんですって。騎士団長で王家筋の公爵で、王都でもっとも恐れられているお方よ」
「そんな人のところに、やっかいものを送るの?」
「ちょうどいいじゃない」夫人が笑った。「化け物には化け物のところへ行ってもらえばいいのよ。どうせあちらも持て余すでしょうけど、それはもうわたくしたちの知ったことじゃないわ」
「ふふ、ざまあみろって感じね」
ふたりが笑う声が聞こえた。
わたしは足を止めなかった。
黒竜と呼ばれる騎士団長。
怖い人のところへ行くのだとわかった。でも今さら怖くはなかった。どこへ行っても同じだから。
物置に戻って、荷物をまとめた。着替えが二枚と、小さな布きれで作った人形がひとつ。全部、古い布に包んだら両手で持てる大きさになった。
それが、わたしの全部だった。
翌朝、馬車は夜明け前に来た。
男爵が頼んだ一番安い馬車だ。
男爵家はわたしが家のことを全部やって、通いの老夫婦がいるだけの「貧乏貴族」というやつらしい。町に行ったときに聞いた言葉だ。
だから馬車も持ってない。
夫人も男爵も玄関に出てこなかった。シャルロット様だけが二階の窓からこちらを見ていたが、目が合っても何もしなかった。手を振るわけでも、声をかけるわけでもなく、ただ冷たい目で見ていた。
ただ、少し、口がうっすら笑っているように見えた。
御者はわたしの荷物を無言で馬車に放り込んだ。わたしもなんとか高いステップを使って乗り込んだ。扉が閉まった。
馬車が動き出した。
窓から男爵家の屋敷が遠ざかっていくのを見た。石造りの小さな屋敷。冷たい廊下。夜明け前の台所。井戸の重い木の蓋。シャルロット様のドレスの繕い。
何も惜しくなかった。
怯えた目や、冷たい態度も慣れている。
ライゼン公爵家、そして騎士と夫人は言った。王都でも名の知れた大貴族だと、どこかで聞いたことがある。
どんな場所だろう。
また怖がられるだろうか。また追い出されるだろうか。きっとそうだ。今までずっとそうだったから。
厳しい人と言っていたから、今までよりもっときちんと仕事をしないといけないかもしれない。
馬車は街道を走り続けた。窓の外に、冬の野原が広がっていた。灰色の空の下、雪からのぞく枯れた草が風に揺れていた。
どうせまた、長くはいられない。
そう思いながら、流れてゆく景色をぼんやりと見ていた。
窓の外の景色を見ながら、荷物の中から人形を取り出した。
古い麻布で作った、不格好な人形だ。どこかの施設にいたとき、端切れをもらって自分で作った。顔も描いていない。でも捨てられなかった。
ひとりのとき、話しかけることがあった。
返事はない。でも、黙って聞いてくれる気がした。
「また、違う場所に行くよ」
人形はもちろん何も言わなかった。




