第六章 (8)運を待つは死を待つに等し
残すところあと三話!
花瓶に飾られた水仙は少し俯いてしまい、私は「おーい、元気出して」と声をかける。
けれど、虚しくも私の声は簡単に静寂に飲み込まれる。
暇になってしまった私がやることといえば、もっぱら魔女の家の片付けだ。
引き出しの奥から見つかった、歴代の魔女様たちの日記をめくる。
皆さま素敵なことをたくさん書かれていた。
日々の薬草の記録でさえ、事細かに書かれ、慈愛に満ちている。
まるで美しい物語のようだ。
それに比べて、私の研究日誌のような事務的な内容とは雲泥の差だと思う。
なんだか無性に恥ずかしい。
次にこの家を継ぐ魔女様のために、もっとまともな情緒のある内容に書き直すことも考えたけれど、日記を偽造したら、それはもう日記とは言えないのでやめることにした。
未来の魔女様はテオ様の子どもの願いを叶えに来るのだろう。
その時の私はどうなっているのか考えそうになり、不安を消し去るために頭を振る。
「あ……」
自分の日記をパラパラとめくり、ふと顔を上げると、窓の外に雪がチラチラと舞うのが見えた。
思わず外に出て、雪の降る夜空を見上げる。
「わあ、すごい」
比較的温暖なラペデュール王国に雪は珍しい。
しんと冷え切った空気の中、空に手を伸ばし雪に触れる。
掌に落ちた結晶は、私の体温を吸って一瞬で儚く消えた。
まるで、テオ様の記憶が少しずつ薄れていくことの焦燥感を表しているようで胸が痛む。
彼に会えないまま、私の時間だけが無意味に過ぎていく。
「……リア?」
幻聴かと思った。
けれど、確かに私を呼ぶ声のする方を振り返る。
そこには、息を切らせ、肩にうっすらと雪を積もらせた外套姿のテオ様がいた。
四ヶ月の間、ずっと待ち焦がれ続けた大切な人。
「テオ様……」
駆け寄ってきた彼は慌てた様子で、自分の大きな外套を私の肩に羽織らせる。
「寒いのにこんな格好で。風邪をひいたらどうするんだ」
心配そうに言いながら、私の頭についた雪をそっと払う。
その指先の温もりに触れた瞬間、私の心の奥底に押し込めていた感情が決壊した。
「テオ様……!」
言葉にならない想いが溢れ、思わず私はテオ様に強く抱き着いた。
「え、えと、リア? 大丈夫?」
つま先で立って、テオ様の首筋に顔を埋める。
衣服に染みついた乾いた木の燻る匂いと、冷たい風。
そして、彼自身の高めの体温。
ああ、なんて落ち着くんだろう。
彼のすべてが、今、私の五感を満たしていく。
先程までの凍えるような不安が、春を待った雪のように溶けていく。
「ちょ、ど、どうしたの?」
動揺して心臓を激しく脈打たせながらも、彼は私の腰にそっと手を回し、愛おしそうに支えてくれる。
その腕の力強さを確かめるように顔を上げ、私は彼に問う。
「あの……テオ様、笑ってくださいませんか?」
一瞬、何事かと眉間にシワを寄せたテオ様は目を閉じ、私の意図を測るように考えた後、ゆっくり目を開き、そして微笑えんだ。
私の大好きな、あの蜂蜜のような甘い笑顔で。
「テオ様、抱きしめてください」
訳もわからないだろうに、彼は私の切迫した気配を察して、言われるままに強く強く抱きしめてくれた。
骨が軋むほどの強さが、彼が本物であると教えてくれる。
「テオ様、私の名前を呼んでください」
彼はそっと顔を上げ、私の耳元に唇を寄せると、甘く切なく囁いた。
「愛しているよ、オーレリア」
安心と幸福で満たされたその瞬間、私の鼓動がかつてなく激しく体内で響いた。
――ドクン
世界を揺るがすような衝撃。
突然、息ができなくなり、魂と体が無理やり引き離されるような激痛が走る。
テオ様の体温が、急に遠くなる。
立っていられなくなり、膝から崩れ落ちる私をテオ様が必死に支える。
「オーレリア! しっかりしろ! 何が起きた!?」
テオ様の美しいグリーンの瞳を見つめ、私は悟る。
初代国王の魔法が私の「幸福」と「愛」を引き金にして起動してしまったのだと。
「て……テオ……さま」
視界が歪む。
テオ様によく似た、けれど決定的に違う見知らぬ男性の残像が、彼の姿に重なっていく。
初代国王の強大な魔力が、私の体に侵食してくる。
脳内に『我が愛しき魔女……』と、私ではない誰かを呼ぶ、掠れた男の声が響く。
座り込む私を支えながら、遠のく私の意識を繋ぎ止めるように、テオ様が狂ったように叫ぶ。
「オーレリア! 私を見ろ!!」
ああ……愛する人よ、泣かないで……
私はあなたに伝えたいことがあるの。
早く……早く……言わなければ……
私は残る力を振り絞って、凍りつきそうな肺に息を吸い込み、心の底から叫んだ――
「私が……私が愛しているのは、テオドール・ド・クレマン、ただ一人よ!!」
☆☆☆
――同時刻 魔塔 最上階
無数の魔石が次々と破裂し、乾いた音を立てて室内に鋭い破片が飛び散る。
魔法道具が、想定外のエラーを起こして激しく赤く点滅した。
頑丈な魔塔さえも不吉な音を立てて大きく揺れ動く。
僕はすべてを察し、狂いそうな恐怖に駆られる。
眠っているエステルに駆け寄り、その手を両手で強く繋いで叫ぶ。
「エステル……!」
彼女の手と瞼が僅かに動き、口元が苦しそうに歪む。
ついに恐れていたことが起きる。
彼女の魂があの男の元へ連れ去られてしまうのか。
「エステル……エステル……お願いだよ、僕を置いて行かないでくれ……!」
視界は涙で膜を張ったようにぼやけ、彼女の顔すら見えなくなる。
拭っても拭っても前が見えない。
すると突然、室内に凄まじい閃光が走り、弾かれるように繋いだ手が離れてしまった。
「あああああ!!」
前が見えない状態で床にうずくまりながら、狂乱してベッドに手を伸ばす。
彼女の頭があった辺りを、狂ったように手探りで触っても、そこには滑らかなシーツの感触しかない。
誰も、いない。
「……っ、エステル……どこに……嫌だ……嫌なんだよ!」
ベッドに顔を押し当てたまま、身を引き裂かれるような嗚咽が漏れる。
流れる涙は枯れることを知らず、シーツを暗く染めていく。
残されたわずかな温もりを、爪が食い込むほどに握り締めた。
僕の太陽が、完全に失われたのだと絶望した、その時。
……そっと、僕の震える頭を優しく撫でる、柔らかな手が降りてきた。
驚いて息を止め、弾かれたように顔を上げる。
そこには、ベッドの上にちょこんと腰掛け、長い眠りから覚めたばかりの瞳で、愛おしそうに微笑むエステルがいた。
呆然と見上げる僕に、彼女は少しだけ首を傾げ、いつもの呆れたような調子で言った。
「レミ様が泣くなんて。明日は槍でも降りますね」
それは、絶望したあの日と変わらない、僕の最愛の彼女の声だった。
運を待つは死を待つに等し【うんをまつはしをまつにひとし】……努力せずに、ただ幸運を待っているのは、自らの死を待つように愚かなことだということ。




