第六章 (7)遠ざかる程思いが募る
残すところ、このお話を含め、あと四話です!
テオ様は翌日、ロランと共にガルダ領に出発した。
その一週間後、漸く兄から手紙の返事が来た。
内容としては『バイカウツギをベースに使っていた香水が存在していたが、既に廃盤となり現在は作られていない』というものだった。
そして、どうにかして手に入れたのであろう使われていた他の香料の資料を一緒に送ってくれた。
「ベルガモットにキンモクセイ、琥珀……」
兄が送ってくれた資料と、ハンカチに微かに残る香りを幾度も行き来させる。
香水は配合量一つで別物になる。
再現できる保証なんてないけれど、挑戦しない理由はない。
私はその日から香水の調香に取り掛かった――
窓の外には実際に金木犀が咲いていた。
窓を開け、オレンジ色の可愛い花を遠くから愛でる。
「あー……良い香り」
金木犀の香りを胸いっぱいに吸い込むと急に切なさに襲われる。
「まだ二週間……たったの二週間じゃない……」
☆☆☆
テオ様が出発してから二ヶ月が過ぎた。
香水の調香には時間がかかる。
アルコールが使われているので混ぜた直後はどうしても香りに角があるのだ。
たくさんのメモを取りながら何パターンもの香水を作る。
つけた瞬間はベルガモットの爽やかでみずみずしいシトラスの香りが弾ける。
そして少し経つとバイカウツギとキンモクセイが香る。
オレンジの花のような、ほんのり甘酸っぱくて純白な香りと、うっとりするような、どこか切なくて熟した甘さがほんのり混ざり合う。
……しかし、最後に残る琥珀が試作を繰り返しても、どうしても納得がいかない。
熟成期間を置いても、他の香りを引き立てるはずの琥珀がどこか浮いてしまい、ハンカチに残る「切ない香り」にはどうしても届かない。
香りのバランスが少しずつ崩れていく焦燥感は、テオ様を想う募る不安と重なって、私の心を削っていく。
テオ様からは見送った日から一度も連絡がない。
私自身も邪魔をしてはいけないと思い、手紙は書いていない。
国王様も王妃様も誰も彼の現状を教えてくれない。
嫌な想像が頭の中を巡る。
必死で「大丈夫だよ」と笑うテオ様を思い出す。
「大丈夫だよって言ってよ……」
柊の花が甘い香りを漂わせていた。
☆☆☆
その日私はヴァランドレ公爵邸に来ていた。
「お久し振りですね、オーレリア嬢」
公爵様の義理の息子アルヴィン様が出迎えてくれた。
「はい。アルヴィン様もお元気そうで」
私がそう言うとアルヴィン様は驚いてから笑った。
「あなたは全く元気そうじゃありませんね。王子殿下の所為だというのが癪ですが」
ガルダ領にテオ様が向かってから既に四ヶ月になろうとしていた。
私はそんなに酷い顔をしているのかしら……。
「あなたをそんなに悲しませるなら、今から攫うこともできますよ?」
彼はいたずらっぽくウインクをしながら言う。
「御冗談を」
私が力なく笑うと、彼は困ったような表情をした。
「本気で受け取っていただいても良いのに」
聞いたところによると、アルヴィン様は養子ということもあり、この三年間、立場を固めるのにはだいぶ苦労したという。
実際、養子の候補は何人かいたようだけれど、公爵様自身とその周囲の人間を納得させる実力があったのは彼しかいなかったそうだ。
冗談めかした調子の裏には、底知れない聡明さがある。
「残念ながら、私自身はアルヴィン様の役には立ちませんよ」
牽制を込めて丁寧にお断りしたつもりだったが、彼はあっさりと肩をすくめて笑った。
「私自身にはもう義母という強力な後ろ盾がいますので、心配ありません。純粋にあなたという人に興味があったのですよ」
失礼なことを言ってしまっただろうか。
「申し訳ありません……」
アルヴィン様は腕を組み、大袈裟に「うーん」と悩んでみせる。
「ただ……王子殿下のいない間にアプローチするのは卑怯なので、今回はこの辺りでやめておきます」
私が「ふふ」と小さく笑うと彼はホッとした表情で「よかった」と呟いた。
「あの、これが私が再現した香水です。公爵様のご意見が聞きたくて参りました」
「ええ、義母上も楽しみにしておりました」
アルヴィン様と邸内を歩く。
応接室に案内されると、既に公爵は室内で待っていた。
彼女は「オーレリア嬢、久し振りね」と言いながら着席を促す。
アルヴィン様は軽く世間話をした後、席をはずした。
「早速だけど、香水の香りを確かめてみたいわ」
「はい……」
結局、何度も何度も調香を試したけれど納得する物はできなかった。
公爵様は試香紙に香水を吹きかける。
「素晴らしい。あの香水のようだわ」
「……ありがとうございます」
「どうしたの? 元気がないようね」
「あの……まだその香水は完成じゃない気がするんです」
公爵様は「ああ……そういうことね」と微笑む。
「オーレリア嬢、少し部屋を移動しても良いかしら?」
☆☆☆
そうして私は一つの部屋に案内された。
中に入るとそこは書斎だった。
「ここは夫の書斎だったの」
高い天井まである本棚に、深い色味で落ち着いた印象の家具。
そこで過ごしていた人を表すような部屋だった。
「素敵なお部屋ですね」
「ふふ、ありがとう。嬉しいわ。……実は私、今でも毎日この部屋に来てしまうの」
公爵様が出窓をほんの少しだけ開ける。
「毎日ですか?」
「ドアを開けたら彼がいるような気がして。亡くなって五年も経つのにおかしいわよね」
風に乗って、香水の香りが漂う。
公爵の言う通り、部屋の主がいなくなって久しいのに不思議な感覚だ。
私は部屋の中をくまなく見渡す。
何かおかしい……。
会ったこともない公爵の亡き夫の香りを感じる。
……香りは基本的に上から下に広がる性質を持つ。
「公爵様、本棚の上の方を見たいのですが、よろしいですか?」
公爵家の従者が本棚に立て掛ける脚立を持ってきてくれた。
私は公爵様の心配をよそに、脚立を登ったり降りたりする。
「あ、あった!」
私は一冊の本を手にして脚立を降りる。
「何があったの?」
「これです、フェイクブックです!」
フェイクブック……外側は本物の本に見える小箱を公爵様に渡す。
「これは……」
公爵様が恐る恐る箱を開くと、中にはハンカチに包まれたほんの少しだけ瓶の口が開いた香水と、手紙が入っていた。
『愛するイザベル
貴女を解放できない
愚かな僕を許して』
公爵様の瞳に涙が浮かび、そして溢れた。
☆☆☆
「私はね、ある日、彼の温もりを思い出せなくなっていたことに気づいたの」
公爵様は窓の外を眺めながら、遠い日を思い出すように話し出した。
「温もり……ですか?」
「ええ、私より体温が高かった事実は覚えているんだけどね」
「……」
「そうしたらね、時が過ぎて、彼はどんな顔で笑っていたのか、どんな声で私を呼んでいたのか……いつか思い出せなくなるんじゃないかと思ったの」
「思い出せなくなる……」
「そう。だからあの香水の香りも消えてしまったらと考えると……怖くなってね……」
公爵様がフェイクブックをギュッと抱きしめた。
「そう……ですね」
テオ様の笑顔、優しい声を必死に思い出す。震える指先を握り締める。
「オーレリア嬢、作ってくださった香水は完璧よ。……足りなかったのは彼の温もりだけで」
「……いえ」
「本当にありがとう」
そう言いながら、公爵様はそっと私を抱きしめた。
彼女の華奢な体は想像よりもずっと温かかった。
遠ざかる程思いが募る【とおざかるほどおもいがつのる】……人を思う気持ちは、遠く離れたりして会えない程、強くなるということ。




