第四章 (5)深い川は静かに流れる
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ニコニコと……いや、ニヤニヤと男女はこちらに、近づいてきた。
「お久しぶりですね、エリーズさん。お元気でしたか? 私たち、家族でこの子の玩具や洋服を買いに来たんです」
エリーズは何も答えない。彼女のあまりの顔色の悪さに、この男女はおそらくエリーズの元夫と現在の妻だと推測する。
妻は赤ん坊に手を伸ばし、抱き上げると「いい子ね」と言いながら、頬にキスをする。
「あのときの子です。生後六ヶ月を過ぎたので慣れない人でも抱っこしやすくなりましたよ。エリーズさんも抱っこしてみます?」
そう言いながら、赤ん坊を渡そうとしてくる。
「いえ……私は……」とエリーズは一歩下がり俯く。
妻は「あら、残念ねー。おばさん抱っこしてくれないって」と嘲笑を含んだ声色で赤ん坊に言う。
ああ、どうしよう。初めて人を殴りたいと思ったかも知れない。
「エリーズさんがいなくなってから、お店はすごく繁盛してるんですよ。私自身も普通の従業員だった頃よりお客さんにも評判良くて。ね、あなた」
え、この女、従業員だったの?
怒りのあまり叫び出したくなる。
気持ちを落ち着かせるために、静かに深呼吸をする。
私のいる場所からはエリーズの表情は見えない。
元夫も「ああ、そうだな」とニヤニヤしている。急所を蹴り上げてやろうかとイライラが止まらない。
深呼吸をしながら、十数え、彼らを黙らせる一言を考える。
10……9……8……7……
「後継ぎを生んでくれてありがとうってお義母様にも感謝されちゃって」
6……5……
妻の品のない声と、目立つ私の黒髪の所為で、道行く人が徐々に注目し始めるのを肌で感じる。
4……3……
「あ、エリーズさんはまだおひとりなんですか? それって寂しくないですかあ?」
2……1……
「ああ! あなた方でしたか!」
リュカの通る声が響く。
彼はいきなりエリーズの前に立ち、夫の手を掴み、強引に握手する。そして小声で「エリーズの元、結婚相手ですか?」と確認する。相手が「あ、ああ」と怯みながら頷く。
「いやぁ、エリーズがあなたではなく、我々を選んでくれて本当に幸せで、申し訳なく思ってたんですよ」
リュカは元夫の手を握手しながらブンブンと振る。
「実はさっきもね、エリーズはあなたたちが一生掛かっても手にすることがない金額の商談をまとめてくれたんですよ。素晴らしいですよね」
夫婦が顔を顰める。リュカは二人の様子に構わず続ける。
「エリーズはあの天才商人と言われているレスト男爵が認めた人でして、本来あの御方は一度商会を離れた人間を再雇用することはないんですよ。少なくとも俺が働いている十年の間はたった一度だけ。それがエリーズなんです」
リュカは商談のときのように、身振り手振りを交えながら笑顔で話す。
「そして期待以上の働き。これを我々にとって祝福と言わずして何と言うんでしょうね」
そして更に元夫に一歩近づく。そして耳元で囁く。
「あなたが愚かで本当に良かった」
元夫が「お前……」と拳を握りしめたところで、リュカは無表情でこう言った。
「その可愛い赤ん坊が継ぐ店を潰されたくなかったら、二度とエリーズの前に現れるな。目障りだ」
彼らは逃げるようにその場を去った。
一言二言捨て台詞を吐いたように見えたが、何を言っているかは聞こえない。
リュカの見事なまでの、場のいなし方にホッとする。
危なかった……思わず「男って妻より残念な人を浮気相手に選ぶって本当なのね!」と言うところだった。
……これは事実だとしても私の主観、ダメージは与えられないし、少し洗練されてない。
私はうんうんと心の中で深く反省する。
エリーズはリュカの背中を見つめている。
リュカはくるりとエリーズに振り返ると申し訳なさそうに言った。
「あー……ごめん。いい歳してムカついちゃってつい……」
「そんなことないわ。庇ってくれてありがとう。あんな挑発を言い返せないなんてダメね……」
エリーズの瞳にはじんわり涙が溜まっているようで、必死に目をパチパチとさせている。
リュカはエリーズの頬に手を伸ばし、親指で涙を拭う。そして、少し困った表情でそっと彼女の肩を抱いた。
「ちょっと暑いけど、これなら泣いても誰にも見られないから……」
しばらくするとエリーズから小さな嗚咽が聞こえる。
リュカは俯くエリーズの頭に触れるか触れないかの口づけを落とした。
私はそっとその場から離れた。
エリーズはリュカに任せて大丈夫だろう。領主の娘の私がいると無駄に目立ってしまう。
私は市場の噴水までやってきた。噴水の水は陽射しを存分に浴びて、キラキラと輝いている。
近くのベンチに座り、一人考える。
いくら恋愛に鈍い私でも、リュカがエリーズに好意を抱いていることに気づいた。
エリーズが教えてくれた『独占欲』や『相手の熱を必要としたら恋』という言葉を思い出す。
リュカからはそれとはまた違う、傷つけるものから守る盾になるという、無条件の愛を感じた。
遠慮がちに落とされた口づけは、ほんの少しの見返りを請う切なさに満ちていた。
「あれはたぶん……恋」
ぼんやりと考えていると、足元に影が差す。
ふと見上げると、ひまわりの花束を抱えたテオ様が立っていた。
「こんなところで一人でいて、誰かに攫われたらどうするの?」
彼はいたずらっぽく笑う。およそ一ヶ月ぶりに見た彼はまた少し大人になったように見える。
「こんな真っ昼間にここで誘拐するような人間なんていませんよ」
テオ様はクスクスと笑いながら、私の横に座る。
花束を抱える彼は滲み出る気品を隠せず、小説の中の王子様のようだった
……実際に王子様なんだけど。
「リア、いい子にしてた?」
「私は元々いい子です……それに見た目は十六ですけど、中身は立派な二十六歳なんですから」
なんだろう。拗ねた子どもみたいな口調になる。
「はい、これはプレゼント。リアはひまわりも似合うね。ちなみに花言葉は『あなただけを見つめる』だよ」
陽射しの暑さだけではない熱が、体の中でジリジリと燻る。
「……ありがとうございます」
彼は深く腰掛け、長い足を組んだ。
その膝を台代わりに肘を突き、手の甲に頬をあずけている。
傾いた視線の先で、その瞳がこちらの動揺を値踏みするように細められた。
手を伸ばし、私の髪を一束掬うと、指先にクルクルと巻きつけながら遊んでいる。
「文官たちの件は、無事に片付いたよ」
テオ様はさもないことのように言う。「え……」と驚きの声を漏らすと、彼は満足そうに微笑む。
「それと、王宮の文書や年代記などに使用する紙もレスト領の物を使うことに決まった」
私は思わず目を見開く。私たちの不敬罪を取り消すどころか、レスト領の紙を採用させるなんて。
「父上はともかく、宰相はあの性格だから細かく質問してきて骨が折れたよ。あれは、わざとやってると思う」
テオ様は不満げに言う。指先はまだ、私の髪で遊んでいる。
「ああ、リア。大事なことを言うのを忘れてた」
テオ様は私の正面に立ち、身を屈ませる。
「ただいま、オーレリア。会いたかったよ」
そう言って、私の髪に口づけた。
「……おかえりなさい」
そう言いながら、心臓が跳ねたことに私はまだ気づいていなかった。
深き川は静かに流れる【ふかきかわはしずかにながれる】……思慮深くて実力のある人は、浅い川が激しく音を立てるようにペラペラと騒ぎ立てず、穏やかで落ち着いているという意味。




