第四章 (4)聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥
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音もなく背後にいたことに純粋にビックリしてしまった。
あまりの驚きに言葉も出せず固まったまま、至近距離でテオ様の瞳を見つめる。
長い睫毛の隙間から、光を失っていたグリーンの瞳は徐々にとろりと潤んだ輝きを放つ。
「……私に黙って何の相談をしている」
変化した視線とは裏腹に、声色はやはり少し怒っているように感じる。
「……行ったことがないので、他の国も見てみたいなっていう話……です」
「またそんなことを……」
そう言いながら、テオ様は私に向かい合うように立つ。腕を組み、呆れている様子だ。
「あの……王子殿下、謹慎中の身でありながら、軽率なことを言ってしまい申し訳ございません」
テオ様の背後にいる形になったリュカが謝罪する。
「リュカは私を励まそうと冗談を言っただけです。ね、リュカ?」
私がリュカの表情を見ようと体を傾けると、肩を掴まれクイッと引き戻される。
何なのよ、もう!
「テオ様そろそろ本題を」
背後からいきなりロランの声もして、またもや肩をビクリと跳ねさせてしまった。
心臓に悪い。
「今日は先日見せてもらおうとした紙のサンプルを、何枚か借りに来た」
「そうなんですね。お父様にはもうお会いになりましたか?」
「ああ、さっき会って倉庫に君がいると聞いてやって来たら、まさかの国外逃亡の相談だ」
ちょっといいアイデアだなと思ったなんて、口が裂けても言えない空気を肌で感じる。
「申し訳ございません」
「ダメだ」
ちょっと行き過ぎた冗談だと謝ってるのに拒否された。思わず眉間にシワが寄る。
するとテオ様は一歩近づき私の腰に手を回すと、耳元で囁く。
「私への謝罪は『ごめんなさい』だろう?」
「……ごめんなさい」
「『会いに来てくれてありがとう』って言わないと」
「……会いに来てくれてありがとう」
すると満足したように耳元でクスクスと笑う。そして、続けてこう言った。
「一度王宮に戻ってやることがある。しばらく留守になるけれど、良い子にしているんだよ」
そう言いながら、テオ様は右手で私の後頭部をすっぽりと包み込むように引き寄せるとスカーフで覆われた私の額に口づけを落とす。
ふわりと薫る香水が鼻をくすぐる。
昔、父が出掛けるときと同じことをされて――私は急に子ども扱いされたような気がして、ポカンと見上げる。
するとテオ様の肩越しに顔を真っ赤にしているリュカと目が合った。彼は口元を押さえると、スッと目を逸らした。
え? と思い、周りに視線を送ると作業していたはずの従業員たちがこちらを見ている。
やはり皆もまた、私と目が合うと気まずそうに静かに作業を開始する。
私は急に恥ずかしさのあまり息が止まりそうになった。
リュカ以上に自分の耳が焼けるように熱くなっているのがはっきりとわかり、逃げ出したい衝動に駆られる。
一度火がついた熱は引くことを知らず、誰の顔も見ることができなくなった私は、そのまま倉庫を駆け出した。
背後からは「やり過ぎですよ」というロランの声が聞こえた――
会議室に逃げ込み、目眩を起こしそうなほどにぐるぐると考えているとドアがカチャリと開いた。
「あら、リア。こんなところでどうしたの? まさか気分が悪い?」
エリーズが心配そうに近づいてくる。
私はゆるゆると首を振り、エリーズを見つめる。
「リア、捨て猫のような目で見ないで、連れて帰ってしまいそうよ」
エリーズは「ふふふ」と柔らかく笑う。
私は意を決して、先程の出来事をエリーズに話した。
エリーズはうんうんと相槌を打ちながら、真剣に話を聞いてくれた。
「みんなの反応を見たら、急に恥ずかしくなっちゃって……テオ様はどういうつもりだったのかな……」
エリーズは「正解はわからないけど……」と前置きをする。
「私が大勢の前でそれをするのなら……『独占欲』かしら?」
「『独占欲』……」
「うん。まぁ……私にはそんなことする勇気はないから想像だけどね。家族がするようなキスだったら大人のリュカが真っ赤にならないと思うなあ」
「……そっか」
エリーズが私の横に座り、そっと私の手を握る。
「リアはどう思った? 嫌だった? それとも嬉しかった?」
テオ様に何かをされて嫌だと思ったことはない。
ただ、それは家族の愛情に近いものだと思っていた。だからこそ周りに「違うよ」とに言われてしまったようで、自分の中で戸惑いが渦巻いた。
「まだ、よくわからない」
正直に答えると、エリーズは微笑んだ。
「結婚に失敗しちゃった私が言っても説得力がないかもしれないけどね、人は恋をすると相手の視線をすべて自分に向けたくなるの」
少し切なげにエリーズは呟く。夏の到来を感じさせる生温い風が髪を揺らす。
彼女は首を傾げて困ったように続ける。
「自分と同じかそれ以上の熱量で見つめて欲しいし、他の誰も見て欲しくない。愛情は分け与えるものだって教わったのに、独占したくなるなんて『聞いてない』ってなるのよね」
エリーズはそのせいで苦しい思いをしたのだろうか。
今はどことなくサッパリした表情をしているけれど。
「リアが相手の熱を必要としたら、それはきっと恋に落ちてる証拠だと思うわ」
「相手の熱……」
私はテオ様の潤んだ瞳、いつの間にか大きくなった手、耳元で囁く声を思い出した。それらは確かに熱を帯びていたように感じる。
「でも今は、ドキドキしたりするのも楽しいと思うのよね……話してたら、なんだか私も恋したくなったわ!」
エリーズは勢いよく立ち上がり、私の手を引き「その前にまずは腹ごしらえよ」と、そう言って笑った。
その日から、私はずっとテオ様のことを考えていた。
会えない日々では何も答えは出ず、溜め息ばかりが増えていき、頭の中では魔塔主の「テオドールに惚れてはならない」というメッセージが警報を鳴らしていた。
☆☆☆
強い陽射しが市場の石畳を容赦なく照りつけ、白く熱を帯びた路面が陽炎のように揺らめいている。影は濃く、逃げ場のない陽射しは容赦ない。
今日は『エリーズの商談の補佐のリュカ』の更に補助として二人に付いてきた。
リュカがまだ謹慎中のため、エリーズに負担が掛かってしまっている。
もちろん私も謹慎中だけれど、リュカの実力に比べれば影響は……たかが知れている。
そんな中でも、今回もエリーズは大きな商談をまとめてしまった。その手腕は素晴らしい。
「無事に商談もまとまったことだし、美味しいご飯でも食べましょう」
エリーズが屈託なく笑う。仕事のできる女性は美しくて眩しい。
我々は彼女がおすすめする市場にあるカフェレストランを目指す。
すると突然、エリーズが足を止める。どうしたのかと振り返ると、血の気が引いたように顔色が悪い。
私が声を掛けようとした瞬間、洗練とは対極にある、無遠慮に空間を埋め尽くす声が響いた。
「あら、エリーズさんじゃない」
そこには私の知らない女性と子どもを抱いた男性が立っていた。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥【きくはいっときのはじ、きかぬはいっしょうのはじ】……知らないことを尋ねるのは、その場は恥ずかしい気がするが、聞かずに知らないままに過ごせば、生涯恥ずかしい思いをしなければならない。わからないことはその場で素直に学ぶべきという教え。




