第一章 (9)骨折り損のくたびれ儲け
「あの文官野郎」
ロランは血の気たっぷりに、吐き捨てるように呟いた。
☆☆☆
今から五年前、ロランの母アンヌに爵位を授ける話が上がった。私の乳母としての貢献に対し、男爵位を名誉爵位として与えるというものだった。
反対する者は誰もいなかったが、当の本人は「恐れ多い」と頑なに断り続けていた。そんなやり取りが一年ほど続いたある日、王妃がはっきりと告げた。
「アンヌ、貴女には伯爵位と領地を授けます。次は領民と領地のために尽くすのですよ」
元々、亡くなったミュラ子爵は、私を三歳まで預かっていた後に伯爵位を授与される予定だった。
女性でも爵位を継ぐことは可能だったが、アンヌはそれを選ばなかった。
今回与えられた領地は、元は王妃が所有していた土地だった。
他の伯爵領よりは小規模だが豊かな土地で、王宮まで馬車で二日の近さも魅力だった。
予想を遥かに上回る提案に、国王もアンヌも、その場にいた宰相までもが慌てた。だが、王妃は小首をかしげて国王に微笑んだ。
「マリユス、私はあの土地をアンヌに任せたいの。難しいかしら?」
不意の名前呼びに、思わず「問題ない」と応えてしまった国王は、さっそく領地経営に不慣れなアンヌのために優秀な文官を用意した。
……正確には、自ら立候補してきた男がいたのだ。
エドモン・ド・ロベール。ロベール侯爵家の三男として生まれた彼は、自らの力で生計を立てるべく経営学を修め、他国への留学経験もある。
二十六歳で帰国すると、その豊富な知識で国王に気に入られ、国王の定例勉強会で経営学講座の講師も務めていた。
見聞が広く、知的なエドモンは非常に女性にモテたが、本人は自由な独身生活を謳歌していた。
そんな彼が二十八歳のときに出会ったのが、当時三十歳だったアンヌだった。
最初は私たちに普通に授業をしていて、アンヌが講師のエドモンに紅茶を出すだけの関係だった。
しかしある日、エドモンはアンヌが淹れた紅茶に興味を持ち、産地の話をきっかけに、二人は「この紅茶を名産にするにはどうすべきか」という議論で意気投合してしまった。
それからというものの、授業のたびにエドモンがテーマを投げかけ、アンヌと私たちが答えるという、さながら実務会議のようなやり取りが続くようになった。
やがてエドモンのアプローチが始まった。それと同時にロランのエドモンへの視線は鋭くなっていった。
しかしアンヌは母であることを一番としていた。
目の前にはロランと私、さらには王宮にやってきたばかりの少女のような魔女。アンヌの気持ちは三人の母親だったのだろう。
アンヌは巧みにエドモンのアプローチを躱し続けていた。
周囲はいつかエドモンが諦めるだろうと考えていた。
しかしロランだけは油断しなかった。
彼はエドモンを追い出したい一心で、狂ったように経営学を学んだ。エドモンを超えることを目標に、片っ端から知識を詰め込んだのだ。
そしてロランがエドモンに匹敵する知識を得たとき、皮肉な運命が動いた。
「ロランがいるなら安心だ」と、国王はアンヌの右腕としてエドモンを正式に伯爵領に送り出すことを決めたのだった。
アンヌとエドモンが伯爵領に出発する日、ロランはひどく荒れた。
母一人子一人で支え合い、さらにやたらと懐いてきた王子の面倒を見ながら真面目に生きてきたというのに、努力が完全に裏目に出たのだ。気持ちはわかる。
その後もロランは「アンヌがエドモンを頼らなくなる日」を待ち続けた。
しかし、エドモンは献身的にアンヌを支え、右腕としての立場を弁えてアプローチも控えていたという。
そして昨年の社交界シーズン。アンヌは一人で王都にやって来た。
その日は久しぶりの再会を喜んで、私と魔女を含め四人で楽しくティータイムを過ごしていた。
しばらくして、アンヌは意を決したように切り出した。
「ロラン、私が再婚することについて、どう思う?」
お茶を淹れていた魔女は固まり、大好きな蜂蜜ジンジャークッキーを食べていた私の味覚は機能しなくなった。
重苦しい沈黙の間、緊張しながらロランの返答を待った。そしてロランはいつもと変わらない様子で答えた。
「母さんは母さんの幸せを見つけてくれたら、俺は嬉しい。俺はもう成人したんだ。心配いらない」
―――――
【テオドール・ド・クレマン(テオ様)】
ラペデュール王国の第一王子。17歳。ダークブロンドに緑色の瞳。
【ロラン】
テオドールの側近。髪は茶色く肩まで伸びている。
【アンヌ】
テオドールの乳母兼教育係だった。ロランの母。茶色い髪。
【エドモン・ド・ロベール】
ロベール侯爵家の三男。経営学の造詣が深い。
骨折り損のくたびれ儲け【骨折り損のくたびれ儲け】……一生懸命に働いたり努力したりしたにもかかわらず、利益や成果が全くなく、疲労だけが残る無駄な結果に終わること。




