第11話:衝突
スマートフォンが震える。
画面に表示された名前。
――母。
通話を押す。
母「……今、いい?」
背後でテレビの音が小さく流れている。
母「また東の沿岸が映っててね」
少し間。
母「水、まだ上がってるって」
みことは答えられない。
母「研究所も出てたよ」
心臓が強く打つ。
母「みこと、ああいう解析してるんでしょう?」
責めていない。
確かめる声。
母「何か、分かってること、あるの?」
喉が乾く。
収束先:南極。
均衡式が、頭の中で展開する。
母「……何か、知ってるの?」
縋りだ。
それが、一番刺さる。
母「お父さん、助かる方法があるなら……」
その言葉が、刃になる。
南極を沈めれば、東は止まる。
父は助かるかもしれない。
だが、西が再び沈む。
誰かを、犠牲にする。
誰かを。
みことの胸が反射で固まる。
みこと「そんなものない!」
声が強すぎる。
自分のものじゃないみたいに大きい。
電話の向こうが静まる。
母「……そう」
小さな声。
崩れないように抑えた響き。
みことは電話を切る。
通話終了の音。
昔、豪雨災害の夜。
父は深夜に帰ってきた。
作業着のまま、台所に立っていた。
テレビでは、救助打ち切りの速報。
父は味噌汁を冷ましたまま、黙っていた。
「選ばない方法は、なかったのか」
「全部は無理だ」と言った。
それ以上は、何も言わなかった。
その手は、箸を持ったまま止まっていた。
味噌汁の湯気が消えても、動かなかった。
迷っているのを、初めて見た。
背中だけが、やけに小さく見えた。
その瞬間、世界が静かになる。
その静けさが、怖い。
父は、その夜だけ、テレビを消さなかった。
黒い海の映像を、音もなく見続けていた。
「……判断は、間違ってない」
そう言ったあと、
ほんのわずかに、言葉が止まった。
「たぶん、な」
みことは、その“たぶん”を、聞かなかったことにした。
背後で椅子が動く。
紗奈が立っている。
みことは振り向かない。
均衡式が頭の中で点滅する。
収束。
振替。
交換。
代替。
みこと「……誰かを代わりに犠牲にすればいいってこと?」
言葉にした瞬間、
自分の中の構造が、剥き出しになる。
みこと「それで助かるなら、そうしろって言うの?」
声が震える。
自分が言っているのに、
自分に刺さる。
紗奈は、ほんの一瞬だけ、
眉をわずかに動かす。
“代わりに”。
その言葉に、小さな違和感。
だが、触れない。
否定もしない。
肯定もしない。
説教もしない。
紗奈「全部、一人で抱えなくていい」
静かな声。
そのまま、近くにいる。
その時。
研究室の入り口付近で、
何かがわずかに動く音。
気のせいのような、微かな物音。
みことは気づかない。
紗奈も、振り向かない。
廊下の奥に、誰かの影が引く。
ドアが、静かに閉まる。
みことは、初めて泣く。
崩れるというより、
壊れる。
息が止まる。
声が出ない。
選択ができない。
できるのに、できない。
モニターのグラフが上がる。
赤が濃くなる。
期限が近づく。
みことは涙で滲んだ視界のまま、
画面を見る。
自分は、選べる。
選べてしまう。
その事実が、
初めて、憎い。
みことは、
“選べる自分”を、
憎み始める。




