第八話:階段の上のアクシデント
佐々木ひまりからの相談を受けた翌日。
一応の納得を得て、その「市川葵」という女子学生にも了承をもらった俺は、今週末の金曜日に学食で一度、直接会って話をすることに決めた。
正直なところ、自分の胸中は少し複雑だった。
先月、他校の女子大生である九条莉子さんを救ったのは、本当にただの偶然だ。鴨川の石といい、天井を埋め尽くしたビジュアル系バンドのポスターといい、どちらもオカルトというよりは精神的なアプローチと常識的なお片付けで解決したに過ぎない。
俺には霊感がない。それは五年前にプロの霊能者から太鼓判を押された厳然たる事実だ。
「本当に、その市川さんって子に俺を会わせて大丈夫なんだろうか……」
学食の騒がしさの中で一人、そんな不安を頭の片隅で転がしていた。だが、引き受けてしまった以上はやるしかない。何より、あのひまりが心から友達を心配して、俺を頼ってくれたのだ。邪険に扱うわけにはいかなかった。
木曜日の午後。
次の講義を受講するため、俺はレジュメを抱えてキャンパスの三号館へと向かっていた。三号館は古い赤レンガ造りの建物で、中央にある大階段は一段一段が高く、いつも多くの学生が行き交っている。
俺がちょうど大階段の登り口に差し掛かった、その時だった。
数段上、すぐ目の前を歩いていた小柄な女の子が、ふっと糸が切れたように不自然に右側へと傾いだ。
教科書やノートを抱えた両腕から力が抜け、パラパラと白い紙が宙に舞う。
「あ……」
女の子が小さく声を漏らし、そのまま後ろ向きに、階段の下へと倒れ込んできた。
登り始めだった俺との距離は、わずか三段ほど。
考えるよりも先に、身体が動いていた。
(ここで落ちたら、頭を強く打つ――!)
俺はとっさに左手を伸ばし、大階段の頑丈な金属製の手すりを力任せに掴んだ。自分の身体を支えるための命綱だ。
それと同時に、残った右腕を大きく振り、落ちてくる彼女の身体を横から抱きかかえるようにして、強引にその胸元へと受け止めた。
ドサッ、と重い衝撃が右腕と胸に伝わる。
手すりを握る左の掌が、金属との摩擦でじんわりと熱を持った。
ぐっと足を踏ん張り、なんとか二人の体重を支えきる。階段の途中で転倒することだけは、どうにか免れた。
「……っ、ぶぶな、大丈夫か!?」
慌てて声をかける。
腕の中に収まった女の子は、前髪の隙間からうつろな瞳をこちらに向けていた。完全に意識を失っているわけではないようだが、顔色は紙のように白く、呼吸も浅い。
「……あ、う……ごめ、んなさ……」
弱々しい声で謝罪の言葉を口にしようとするが、身体には全く力が入っていない。自分で立とうと足を踏ん張ろうとするものの、膝がガクガクと震えて、どうしてもその場に座り込んでしまう。
とても歩ける状態ではないのは、誰の目から見ても明らかだった。
「無理に動かないで。座ったままでいいから」
俺がそう言って彼女を支えていると、大階段の周囲から「キャッ!」「大丈夫!?」と、周囲の学生たちがざわめきながら集まってきた。
その中から、一人の女の子が心配そうに駆け寄ってくるのが見えた。
「大丈夫ですか!? すごい音がしたからびっくりして……」
駆け寄ってきたのは、肩のあたりできれいに切り揃えられた黒髪が印象的な、知的な雰囲気の女子学生だった。
俺は彼女の顔を見て、とっさに頭を回転させた。
意識が朦朧としているとはいえ、相手は年頃の女の子だ。
男である俺が一人で、こんな風に身体に力が入らない女の子を抱きかかえ、保健室(医務室)まで連れていくのは、彼女にとって精神的な負担が大きすぎるのではないか。それに、人目の多いキャンパス内で、男がぐったりした女子学生を連れ回している姿は、周囲からの外聞もすこぶる悪い。
「すみません!」
俺は、駆け寄ってくれた黒髪の女の子に向かって声を張り上げた。
「この子、急に貧血か何かで倒れて、自分で歩けそうにないんです。男の俺一人で保健室に運ぶのは、この子も不安だと思うし、周囲に変な誤解をされても困るから……。お願いです、一緒に保健室までついてきてもらえませんか?」
突然の頼み事に、黒髪の女の子は一瞬だけ驚いたように目を丸くした。
だが、状況をすぐに理解したようで、すぐに力強く頷いてくれた。
「分かりました! 私も手伝います。行きましょう」
「助かります!」
俺は女の子の身体を慎重に横抱き――いわゆるお姫様抱っこの形にする。やはり軽い。
黒髪の女の子が、階段に散らばった倒れた子の荷物を素早く拾い集め、俺たちの先頭に立って「道を開けてください!」と周囲の学生に声をかけながらリードしてくれた。
その手際の良さと冷静さに、心の中で深く感謝する。
俺たちはそのまま、一階の奥にある医務室へと急いだ。
「先生、急に階段で倒れてしまって!」
黒髪の女の子が医務室のドアを開け、ベッドの準備を促す。
中から出てきた白衣の看護教諭が「あら大変、すぐにここに寝かせて」と、手際よく指示を出した。
俺は細心の注意を払いながら、意識のうつろな女の子を白いベッドの上へと横たわらせた。
「ありがとうございました。あとはこちらで診るから大丈夫よ」
先生の言葉に、俺と協力してくれた黒髪の女の子は、ようやくホッと胸を撫で下ろした。
これで、次の講義へと向かうことができる。
「よし、じゃあ行こうか。本当に助かっ――」
俺が黒髪の女の子に向かってお礼を言い、部屋を出ようとしたその時、背後から先生の鋭い声が飛んできた。
「ちょっと、そこのお二人。行く前にこれに記入していってちょうだい」
振り返ると、先生の手には記入用のバインダーとボールペンが握られていた。
「連れてきてくれた人の学部、学年、それと名前を書くのが決まりだから。何かあった時のためにね」
「あ、分かりました」
まあ、大学のルールなら仕方がない。
俺はバインダーを受け取り、慣れた手つきで自分の情報を書き込んでいく。
『人文学部・二年・進藤駆』。
書き終えてから、隣に立つ黒髪の女の子へとバインダーを渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
彼女は小さく会釈をしてバインダーを受け取ると、サラサラと綺麗な文字で署名を始めた。
その様子を何気なく眺めていると、彼女の書く文字が目に入った。
『法学部・二年・水瀬遥』
「水瀬……遥さん、か」
心の中でその名前を呟く。
二人分の署名を終え、バインダーを先生に返却した俺たちは、ようやく医務室を退出した。
ドアが閉まり、静かになった廊下を並んで歩き出す。
「水瀬さん、本当にありがとう。急に変なことに巻き込んじゃって、迷惑かけてごめんね」
申し訳なさそうに謝る俺に、水瀬遥は足を止め、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「ううん、気にしないで。私も、進藤くんのあの状況での判断、すごく紳士的で素敵だなって思って見てたから。男の人が一人で抱えていくのは、確かに色々と大変だもんね」
「そう言ってもらえると助かるよ。ちょっと焦ってたからさ」
「うふふ、全然そうは見えなかったよ? それじゃあ、私、次の講義があるから。またね、進藤くん」
遥は小さく手を振ると、軽やかな足取りで廊下の向こうへと去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は「いい人に出会えてよかったな」と温かい気持ちになりつつも、急いで自分の教室へと向かうため、小走りで移動を開始した。
まさか、この偶然の出会いすらも、これから始まる「市川葵」の怪異解決への大きなピースになるとは、この時の俺は微塵も思っていなかった。
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