第五話:朝の光とバスタオル事件
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む白い太陽の光が、リビングの床を照らしていた。
「……進藤さん、起きてください。朝ですよ」
少し低めの、涼やかな声に揺り起こされる。
重い瞼を開けると、そこには制服に身を包み、スクールバッグを肩にかけた柚葉さんが立っていた。
どうやら部活動か何かの朝練があるらしく、早くから出かける準備を整えているようだ。
「う……あ、おはよう、柚葉さん」
「おはようございます。お姉ちゃん、進藤さんが寝ている間にお風呂に入りに行きましたよ」
柚葉さんは、ソファーの上に残された莉子さんの毛布を見つめ、それから俺に視線を戻した。
「お姉ちゃんがお風呂から出たら、進藤さんも入ったらどうですか? 本当だったら、朝になったらさっさと追い出すところですけど……昨日はお姉ちゃんのために、頑張ってくれたみたいですし」
その言葉に、俺は少し驚いて体を起こした。
「……柚葉さんも、分かってたんだね。あの部屋が、何かおかしいって」
「うん」
柚葉さんは小さく息をつき、真剣な表情を浮かべた。
「でも、何がどうおかしいのか、決定的な理由は分からなくて。お姉ちゃんに一緒に寝ようって言われた時も、あの部屋に入ると頭が痛くなるから嫌だって断っちゃった。部屋の外にいる時のお姉ちゃんは、普通のお姉ちゃんだから……。だから、進藤さんが昨日一緒にリビングで寝てくれて、お姉ちゃんも少し安心したみたい」
「まあ、そうだな……」
本能的な恐怖を察しながらも、姉を完全に突き放すわけにはおらず、柚葉さんも心苦しかったのだろう。
「私、そろそろ朝蓮に行かなきゃ。……進藤さん、お姉ちゃんのこと、任せていい?」
「……できる範囲で、やってみるよ」
「よかった。あ、一応、何かあった時のためにルイン交換しとこ」
「了解」
スマホを取り出し、柚葉さんと連絡先を交換する。
「それじゃ、行ってきます。お姉ちゃんをよろしくね」
パタパタと小走りで、柚葉さんが玄関から出て行った。ドアが閉まる音がリビングに響く。
一人残された俺は、ソファーに深く腰掛け、スマホを開いた。
サークルの先輩や仲間に相談する前に、まずは最も「適任」だと思われる男に連絡を取ることにした。
現代仏教文化研究会の仲間である宮田大地を通じて知り合った、他学部の友人、御堂宗佑。
実家が有名な寺でありながら、本人は徹底的なリアリスト。冗談半分で「父親は僧侶だから復活魔法が使える」などとネタにしているが、怪異や寺の知識に関しては誰よりも詳しい男だ。
俺は宗佑にルインを送った。
『朝早くから悪い。ちょっと聞きたいんだけど、亡くなったビジュアル系バンドのギタリストのポスターを部屋中に隙間なく貼って、さらに鴨川から拾ってきた石をベッドの足元に置いて寝てたら、体調悪くなったりする?』
すぐに、既読がついた。早い。
『なんだその地獄みたいな部屋のセッティングは。どこかの呪詛の儀式か?』
すかさず、宗佑からの返信が画面を埋める。
『まあ、医学的な観点から言うなら、そんなことで病気には直接ならない。ただ、精神衛生上は最悪だな。亡くなった人から連想される「死」や「喪失」、「不安」といったマイナスの感情が常に生活空間の近くにあることは、それだけで脳に強烈なストレスを与える』
文字を追う俺の頭に、昨日のあの部屋の光景が蘇る。
『さらに壁全面、天井まで覆い尽くすほどのポスターだろ? しかもビジュアル系なら黒っぽい暗い色調が多いはずだ。そんなものに囲まれていたら視覚的な圧迫感が半端じゃない。脳が「逃げ場がない」と錯覚して、常に軽いパニック状態や緊張状態を引き起こす。肩こりや頭痛の原因としては十分すぎるリアルな理由だな』
さすがリアリスト、実に論理的な分析だ。だが、問題はもう一つある。
『じゃあ、川の石は?』
『石はそもそもダメだろ。法的にも無断採取はアウトだし、感覚的にもな。川の石ってのは、上流から流れてくる過程で角が取れて丸くなってるわけだが……極端な話、数百年前に川の上流にあったお墓の墓石の破片が流れてきて、丸くなったものかもしれない。そういう可能性を考えたら、気持ちのいいものでもないだろ。京都の川ならなおさらな。そんなものを部屋に、それもベッドの足元に敷き詰めるなんて、正気の沙汰じゃない』
宗佑の言葉は、霊的なオカルト話ではなく、極めて現実的で、それゆえに説得力があった。
『そうだよな。……悪いな、朝から変な質問して』
『別に。女に振り回されて右往左往してるお前を見てるのも、なかなか一興だからな。無問題。また何かあったら連絡しろよ』
『言ってろ』
やり取りを終えて息を吐き、スマホをポケットにしまった。
その時だった。
パタパタ、と廊下から濡れた足音が聞こえ、リビングのドアが静かに開いた。
「ふぅ、さっぱりした……」
濡れた髪をタオルで拭きながら入ってきたのは、お風呂上がりの莉子さんだった。
――そして、俺は息を呑んだ。
莉子さんは、俺がまだリビングにいることを完全に失念していたのだろう。
お風呂上がりで、上半身にバスタオルを巻いただけの、極めて無防備な姿だった。
ふっくらとした白い肩、そしてバスタオルを押し上げるようにして主張する、豊満すぎるその胸元。リビングの白い光の中で、彼女の眩しい肌色が、ドアの隙間からいやでも目に飛び込んできた。
そのままリビングに一歩踏み込んだ瞬間、莉子さんは、ソファーに座っている俺と真正面から目が合った。
「あ…………」
「…………」
リビングに、心臓が止まるほどの沈黙が流れる。
莉子さんの顔が、みるみるうちに耳の先まで真っ跨に染まっていくのが分かった。
俺の脳裏に、凄まじい葛藤が駆け巡る。男の本能としては、その圧倒的な肢体に視線を釘付けにしたい。しかし、ここで視線を下に落としたら、昨日せっかく築いた「紳士的で優しい人」という信頼がすべて音を立てて崩壊する。
俺は必死に理性を稼働させ、絶対に下に目をやらないよう、莉子さんの瞳『だけ』を限界まで凝視した。
一ミリたりとも視線をブレさせない。胸元なんて存在しない。俺が見ているのは彼女の目だけだ。
「……お、おはよう、莉子さん」
かすれそうになる声を必死に整え、極めて自然なトーンを装って挨拶する。
「……っ、おはようございます……っ!」
莉子さんは蚊の鳴くような声で蚊細く返事をすると、バスタオルを両手でギュッと掴み、その場にカチコチに硬直してしまった。
「あ、あの……お風呂、借りるね」
「は、はい……!」
俺は立ち上がり、莉子さんの横を通り過ぎる。
すれ違う瞬間、お風呂上がりの温かい蒸気と、甘い石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。視界の端に映りそうになる白い肌を全力で意識から排除し、前だけを見て、風呂場へと繋がる脱衣所のドアを開ける。
俺が脱衣所に入り、ドアをパタンと閉めるその瞬間まで。
莉子さんはリビングの入り口で、真っ赤な顔をしたまま、まるで石像のように硬直して固まっていた。
第七話:光を呼び戻す片付け
シャワーの蛇口から溢れ出る温水を浴びながら、俺は必死に高鳴る心臓を鎮めていた。
脱衣所をくぐる前、誰もいないことを慎重に何度も確認してから風呂を出る。
リビングに残してきた昨日の服。仕方がなく、少しヨレてしまったシャツとジーンズをもう一度身につけて、俺は再びリビングへと足を踏みれた。
莉子さんはすでに服を着替え、エプロン姿でキッチンに立っていた。
トントントン、と軽快な包丁の音が響き、やがてテーブルの上に美味しそうな和朝食が並べられた。炊きたての白いご飯、お味噌汁、だし巻き卵、それに焼き鮭。
「……どうぞ。大したものは作れなかったけど」
「ありがとう。いただきます」
テーブルを挟んで向かい合って席につく。
箸を進めながらも、莉子さんの視線はどうにも落ち着かずに泳いでいた。だし巻き卵を口に運び、お茶を一口すすった彼女が、意を決したように上目遣いで俺を見てきた。
「……駆くん」
「ん? 何?」
「……あの、見ました……?」
その問いに、俺の背中に一筋の冷や汗が流れた。
ここで「バスタオル姿、めちゃくちゃ綺麗でした」なんて言おうものなら一発アウトだ。俺はあらかじめ用意していたポーカーフェイスを全力で維持し、キョトンとした顔を作って見せた。
「え? 何をですか?」
俺のあまりにも自然な(と自分では思っている)ボロの出ない返しに、莉子さんは少し拍子抜けしたような、どこかホッとしたような顔をした。
「……ううん、なんでもない! 見てないなら、いいの。……うん、いいの!」
自分に言い聞かせように莉子さんはだし巻き卵をパクりと口に入れた。




