第四話:本音の夜とリビングの二人
廊下に出ると、そこは先ほどと同じように不自然な暗さをまとっていた。
そして、その薄暗い廊下で、莉子さんが一人、壁に背を預けて待っていた。
彼女はグラスを片付け終えたようだった。
酔ってはいるはずなのに、その瞳からは先ほどまでのトロンとした甘さは完全に消え失せていた。
莉子さんは、ひどく沈んだ、今にも泣き出しそうな細い声で、静かに俺に問いかけてきた。
「ねえ、駆くん。……やっぱり、あの部屋、おかしいよね?」
「…………」
廊下の不自然な薄暗さの中で、俺は莉子さんを見つめた。
今にも泣き出しそうに肩を震わせる彼女の姿を見て、もう誤魔化すのはやめよう、と決めた。霊感がないはずの俺が感じているこの「異常」は、気のせいなどではない。ここで下手に取り繕うことこそが、彼女を本当に追い詰めてしまう。
俺は小さく息を吐き出し、自分が感じたことをすべて正直に話すことにした。
「……うん。実を言うとね、莉子さん」
俺は言葉を一つずつ選ぶように、静かに語りかけた。
「玄関のドアを開けて中に入ったその瞬間から、俺、ものすごい悪寒がしてたんだ。今が九月だとか、エアコンがついてないとか、そういうレベルじゃない。体の芯が凍るような冷え方をしてる」
莉子さんは小さく息を呑み、縋るように俺の顔を見上げた。
「それに、あのリビングや、キッチン、今さっきまでいたトイレでは、不気味な気配は何も感じないんだ。でも、あの部屋だけは違う。扉の前に立っただけで背筋がゾクゾクして、部屋に入ったら……なんて言うか、壁中のポスターだけじゃなく、部屋の隅にある『何か』から、強い視線のようなものが俺をじっと狙っているように思えて仕方がなかったんだ」
感じたことのすべてを包み隠さず伝えると、莉子さんはこらえきれなくなったようにポロポロと涙を流し、壁に背をあずけたまま、へなへなと床に座り込んでしまった。
「やっぱり……やっぱりそうだよね……。私、自分の頭がおかしくなっちゃったんだと思ってた……」
莉子さんは両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。
「ここ数週間、あの部屋にいると息苦しくて、頭痛も肩こりもどんどん酷くなって……夜も眠れなくて。それで、柚葉に『怖いから一緒に部屋で寝てほしい』って頼んだの。でも、柚葉には『嫌だよ、お姉ちゃんの部屋、なんか息が詰まるから』って冷たく断られちゃって……」
妹の柚葉さん。あのハキハキとした彼女もまた、姉の部屋に漂う決定的な「異常」を本能的に察知し、近づくのを避けていたのだろう。
「それでね、どうしていいか分からなくなって……。そんな時に、気分転換で行った合コンで駆くんに出会ったの」
莉子さんは涙を拭いながら、恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。
「そのあと、合コンをセッティングしてくれた宮田くんに連絡して、駆くんのこと聞いてみたんだ。そしたら宮田くん、『駆はサークルの肝試しでも全然怖がらない、超がつくほどの鈍感男だから大丈夫だよ』って言ってて……」
宮田の大地め、余計なことを。俺が鈍感なのは霊感がないからであって、こんな本物の異常事態に耐えられるほどの強心臓ではない。
しかし、莉子さんの言葉は続いた。
「合コンの時、駆くんは楽しそうにしてたけど、他の男の子たちみたいにがっついてなかったし……。その、私の胸に視線が行くことはあっても、すぐにフイッと外してくれて。すごく紳士的で、優しい人だなって。……だから、この人なら、もしかしたら私を助けてくれるかもしれないって、不純な動機で呼んじゃったの。本当にごめんなさい……」
「いや、いいよ。事情はわかったから」
小さく笑って見せる。がっついていなかったのはともかく、胸から視線を外したのは、単に目のやり場に困って緊張していただけなのだが、それが結果的に彼女の信頼に繋がったのなら、男として悪い気はしない。
「駆くん……お願い。今日は、リビングで一緒に寝てほしいの。もう、言葉にしてしまったら、あの部屋に入るのが怖くてたまらないの……」
莉子さんは懇願するように俺の袖を引いた。
「明るくなったら、どうしたらいいか一緒に考えてほしい。今夜だけでいいから……お願い」
一度その恐怖を共有してしまった以上、あのポスターだらけの極寒の部屋に彼女を一人で戻すわけにはいかない。時計を見れば、すでに終電の時間はとっくに過ぎている。ここから俺のアパートまで、徒歩で帰るにはあまりにも遠すぎた。
「わかった。今日はリビングにいよう。朝になったら、どうするか一緒に考えよう」
「ありがとう……っ、駆くん……」
安堵からか、莉子さんは再び涙をこぼした。
俺たちはリビングに戻り、襖で仕切られた和室から予備の毛布やクッションを引っ張り出してきた。
莉子さんはソファーの上に横になり、俺は床の厚手のカーペットの上に毛布を敷いて横になった。
テレビの音を消すと、静まり返ったリビングに二人の呼吸音だけが微かに響く。
少し離れた廊下の奥にある「あの部屋」の存在を意識しないようにしながら、俺たちは泥のような眠りへと落ちていった。




