第三話:眼差しに満ちた部屋と鴨川の石
北側以外のすべての壁。そして天井。
その限られたスペースを埋め尽くすように、隙間なく、何十枚、いや何百枚ものポスターがびっしりと貼られている。
すべて、一人の男のポスターだった。
派手なメイクに、剃刀のように鋭い視線。数年前にこの世を去った、伝説的なビジュアル系バンドのギタリストだ。
不自然なのはその貼り方だった。
どのポスターも、まるで俺を……この部屋に入ってくる者を、部屋の中心から見つめるように計算され尽くした角度で配置されている。
部屋の中に立った俺に向かって、天井から、壁から、右から左から、無数の「冷たい眼差し」が一斉に突き刺さる。そのすべてと、否応なしに目が合うのだ。
この真夏。エアコンもついていない密室だというのに、肌を刺すような寒さが部屋を満たしている。
部屋の空気そのものが凍りついている。だが、それだけじゃない。
部屋のさらに一角、何もないように見えるはずの空間から、明らかに異質な『何か』が泥のように滲み出て、こちらに這い寄ってくるのを肌で感じた。恐怖を通り越した圧倒的なプレッシャー。
あまりの光景に棒立ちになってしまった俺に、莉子さんは「そこ、座って?」と床を指さした。
だが、聞かずにはいられなかった。聞かなければ、今すぐ叫んで逃げ出してしまいそうだった。
「……莉子さん。このギタリスト、好きなんですね」
顔の筋肉が引き攣りそうになるのを必死に抑え、なんとか声を絞り出す。
すると、莉子さんはいつものおっとりした笑顔のまま、小首を傾げて答えた。
「うん、大好きなの。だからね、こうやって部屋中に貼ってるんだよ。……ねえ、これだけ見られていると、なんだかゾクゾクするよね?」
「ゾクゾク」という言葉のニュアンスが、俺と彼女とでは決定的に違っている。
俺は一刻も早くこの無数の視線から逃れたくて、壁から無理やり目をそらし、ローテーブルの上に置かれたジンジャーハイボールに手を伸ばした。一気に喉へ流し込むことで、喉元まで出かかった「狂っている」という言葉をどうにか胃の奥へと押し戻す。
毎日毎日、寝ている時も起きている時も、この冷酷な無数の眼差しを浴び続けるなんて、まともな人間の神経ではない。
「……そう、なんですね。あはは……」
次の言葉がどうしても出てこなかった。
莉子さんは床に敷かれた厚手のクッションに座り、ベッドの側面に背中をもたれかけさせている。
そして、自分のすぐ隣の床をぽんぽんと叩き、上目遣いで俺を見た。
「立ってないで、座ってよ」
意を決して、俺は彼女の隣に腰を下ろした。だが、この位置からだと、目に入る床以外の視界のすべて――天井も、前後の壁も――すべてがポスターの眼差しで埋め尽くされている。逃げ場がどこにもない。
お酒が回ってきたのか、莉子さんが「ふぅ……」と熱い吐息をもらし、俺の肩に体重を預けるようにもたれかかってきた。
柔らかい感触。漂うシャンプーの甘い香り。
もしここが普通の女の子の部屋だったら、俺は今頃、心臓を爆発させながら喜んで彼女を抱きしめていただろう。
だが、今の俺はそれどころではなかった。
ポスターの無数の視線。
それとは別に、もっと物理的で、より直接的な『何か』をすぐ近くに感じていた。
その発信源は、莉子さんがもたれかかっているベッドと、東側の壁との間にある、わずか十数センチほどの暗い隙間だ。
風が流れているわけじゃない。冷気という物理現象だけでは説明のつかない、ぞっとするような「密度の濃い暗闇」が、その隙間に澱んでいる。
「……なんか、ちょっと肌寒いね」
莉子さんが身震いするように言って、俺への密着具合をさらに強めてきた。
「お酒を飲んでるから、血流は上がってるはずなんだけどな。おかしいね」
その言葉に、俺は少しでもこの恐怖から気を逸らしたくて、そして少しでも彼女を落ち着かせたくて、座ったまま彼女の肩や背中を軽くマッサージし始めた。以前、サークルの先輩から教わった、血行を促進するためのスキンシップの一環だ。
「あ……なんか、気持ちいいかも。駆くん、上手だね。私、最近どうしてか頭痛とか肩こりもひどくて……」
(俺だって、この部屋に一日中いたら、頭痛と肩こりで一歩も動けなくなる自信しかないよ)
心の中でそう毒づきながら、マッサージの手を動かす。
その間も、ベッドの隙間から漂う、ぬめりとした気配が俺の首筋を撫で回しているような気がしてならなかった。
どうしても、気になって仕方がなかった。
俺は、震える声をどうにか抑えながら、確信めいた疑問を口にした。
「……莉子さん。変なこと聞くけど。ベッドの、足元が向いている方って……何か、置いたりしてない?」
一瞬、莉子さんの体がピクリと跳ねた。
彼女は俺の肩から頭を離し、驚いたような顔で俺を見つめた。
「え……? なんでわかるの? 私、駆くんに何も言ってないよね?」
「あ、いや……なんとなく。ちょっと気になってさ」
「……実はね、ベッドに腰掛けて、壁に向かってよく瞑想してるの」
莉子さんは、不思議そうにしながらも、ポツリポツリと話し始めた。
「そうなんだ……」
「うん。それでね、その足元のところに、石を敷いてるんだ。……鴨川とかで、拾ってきた石」
――川の石。
その言葉を耳にした瞬間、鳥肌が一気に全身を駆け巡った。
「鴨川で拾ってきた石を敷いて、瞑想している」
それを聞いた瞬間、今日一番の、文字通り心臓が凍りつくような悪寒が俺を襲った。
京都の川。特に鴨川の、それも北側から流れてくる石が、歴史的に何を吸い込んできた場所なのか。
仏教系の大学で、嫌でも京都の歴史や「いわく」を調べさせられるサークルにいる俺には、それがどれほどタブーな行為なのか、一瞬で理解できてしまった。
霊感がない俺ですら、玄関を入った瞬間から死にそうになっているのだ。
そんなものをベッドの足元に敷き詰めて瞑想するなんて。
「……そう、なんだ……」
引き攣った笑みすら浮かべられず、ただ短い言葉を返すことしかできない。
沈黙が、部屋を包み込む。
無数のポスターの眼差しと、ベッドの隙間の「何か」が、沈黙の中でさらにその存在感を増していく。
耐えかねて莉子さんの方を見ると、彼女の少し潤んだ瞳とバチリ、と目が合った。
莉子さんは、どこか怯えたような、すがるような目をして、小さな声で呟いた。
「……やっぱり、やめた方がいい、かな?」
「……そうだね」
俺は乾いた唇を舌で湿らせ、なるべく冷静な、常識的なトーンを意識して答えた。
「たしか、川の石って無断で持って帰っちゃいけなかったはずだし。条例とか法律的な問題になってなくても……あんまり、部屋に置くようなものではないと思うよ」
怪異の存在を認めるような言い方はしなかった。ただ、一般的なルールを建前にして、遠回しにその不気味な石を処分するよう促す。それが、今の俺にできる限界のやり過ごし方だった。
「……ちょっと、トイレ借りていい?」
もう限界だった。
この部屋に漂う、逃げ場のない視線と、肺に冷たく刺さる悪寒から一刻も早く逃れたくて、俺は立ち上がった。
「あ、うん。廊下出てすぐ左側だよ」
莉子さんは少し寂しそうな顔をしたが、俺が残した空のグラスを片付けるため、キッチンへと向かった。
俺は部屋を飛び出し、トイレへと駆け込んだ。
便器の前に立ち、深く呼吸をする。心臓のバクバクがようやく少しだけ収まっていく。
鏡に映った自分の顔は、まるでお化けでも見たかのように真っ青だった。
(早く帰ろう。お酒がどうとか言ってる場合じゃない。今すぐここを出ないと、俺の精神が壊れる)
そう心に誓い、数分後、俺は意を決してトイレのドアを開けた。




