第二話:逃げ場を断つお酒
「あ、いや……ほら、俺, 妹以外の女の子の部屋って入ったことないからさ。ちょっと緊張するというか何というか……」
しどろもどろになりながら、曖昧な言葉でお茶を濁す。
莉子さんは「そっか。男の子だもんね」と得心のいったように頷くと、幸いなことにその不穏なドアの前を素通りし、廊下の突き当たりにあるリビングへと俺を案内してくれた。
「もうすぐ妹の柚葉も帰ってくるから、晩御飯一緒に食べようね。ちょっと準備するから、座ってて」
そう言って、莉子さんはすぐにキッチンへと向かった。
リビングは、新築マンションらしく広々としていて明るい。
だが、俺の心は一瞬たりとも休まらなかった。
ソファーに深く腰掛け、莉子さんが料理をする包丁の音を横目にしながらも、俺の視線は落ち着きなくリビング内を泳いでいた。
自分でも完全に挙動不審だと自覚している。
リビングの隅、引き戸の襖で仕切られた和室があるのを目に留めたりしながら、とにかく、あの玄関近くにあるドアのこと、そこから滲み出ていた氷のような冷気を頭から追い出そうと必死だった。
(……よし、ご飯を食べたら、すぐにお礼を言って帰ろう)
それだけを唯一のゴールに設定する。
とはいえ、無言のまま莉子さんが料理を作るのを待つのも、場の空気が持たない。俺はソファーからキッチンに向かって、何でもない雑談を投げかけた。
「莉子さん、あの襖の部屋は妹さんの部屋?」
「ううん、そこは客間っていうか、普段はあまり使ってない和室かな。柚葉の部屋はね、廊下の右手側だよ」
「そうなんだ。……それにしても、いつもこんなに綺麗にしてるの? すごいね、モデルルームみたいだ」
「ありがとう。柚葉が綺麗好きだから, 助かってるのかも」
そんな他愛のない会話を続けていると、玄関の方で鍵が回る音がした。
莉子さんの同居人、妹の柚葉さんが帰ってきたのだ。
俺は一応、ソファーから立ち上がって、リビングのドアが開くのを待った。
「ただいまー」
「おかえり、柚葉。お客さん来てるよ」
パタパタと小気味よい足音が廊下を渡り、リビングのドアが開く。
現れたのは、莉子さんが言っていた通り、黒髪を後ろできれいにまとめたスレンダーな美少女だった。姉の莉子さんとは対照的に、引き締まったスタイルが際立っている。
「こんばんは、お邪魔してます。進藤駆です」
「こんばんは!」
返ってきたのは、とても明るい、ハキハキとした声だった。
人見知りをする風でもなく、陰鬱なところなど微塵も感じさせない、活発で健康的な印象の女の子だ。
「へえ、お姉ちゃんの彼氏?」
柚葉さんは、少し値踏みするような、それでいて好奇心に満ちた目をこちらに向けてきた。
「違うよ、柚葉。サークルの、お友達」
莉子さんが顔を赤くして否定する。
けれど、柚葉さんは何かをすべて察したような、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ふーん? お友達ね。……じゃあ、私はちょっと着替えてくるから、ごゆっくり」
そう言って、彼女は自分の部屋へと引っ込んでいった。
それから間もなく、部屋着のTシャツとショートパンツに着替えて戻ってきた柚葉さんも交え、三人での賑やかな時間が始まった。
「お姉ちゃんとはどこで知り合ったの?」
「大学はどこ? サークルって何してるの?」
柚葉さんの屈託のない質問に答えているうちに、莉子さんの手料理がテーブルに並んだ。
彩り豊かなハンバーグに、シャキシャキとしたサラダ、優しい味のスープ。
目の前には、タイプの違う二人の美人姉妹。そして家庭的な手作りご飯。
男としての本能が、恐怖を一時的に麻痺させたのだろう。俺はすっかり意識をそちらに持っていかれ、さっきまでの冷気も忘れて、かなり楽しく食事を堪能させてもらった。
「ねえ、駆くん。食後にお酒飲む?」
一通り食べ終えた頃、莉子さんがおっとりとした口調で訊ねてきた。
「あ、いいですね。いただきます」
「よかった。お父さんがこっちに来た時に置いていったウイスキーがあるの。ハイボールか、ジンジャーハイボール、どっちがいい?」
「じゃあ、ジンジャーでお願いします」
莉子さんが手際よくグラスに氷を入れ、炭酸を注ぐ。
二人でグラスを傾け、飲み始めた。
未成年の柚葉さんは、「私は先にお風呂入ってくるね」と言い残し、リビングを出て行った。
リビングのソファーで、莉子さんと横並びに座ってテレビを眺める。
ふと、右隣に座る莉子さんに視線を向けると、その向こうにあるリビングの大きな窓が目に入った。
窓の外は、すでに完全な夜の暗闇に覆われている。外灯の光すら届かないような、吸い込まれそうな深い黒だ。
ふと、時間が気になって壁の時計に目をやる。
「(……あ、もう九時半を回ってるな)」
ちょうどその時、脱衣所の方からドライヤーの音が止み、柚葉さんがお風呂から上がってきた。
帰るには、これ以上ないベストなタイミングだ。
俺はグラスをテーブルに置き、居住まいを正した。
「莉子さん、今日はご飯もお酒もごちそうさまでした。そろそろ時間も遅いし、俺、帰るね」
「えー、もう帰っちゃうの?」
莉子さんが、不満そうに少し唇を尖らせた。そして、トロンとした少し熱を帯びた瞳で俺を見つめ、明るい声でこう言った。
「駆くん、私の部屋で飲もうよ」
「……え?」
こっちを振り向いた莉子さんの、柔らかく豊かな胸が、俺の腕にぴたりと当たっているのが分かった。
だが、その感触による興奮など、微塵も湧き上がらなかった。
それどころか、アルコールでほんのり温まっていた血の気が、一瞬で引いていく。
考えないように、存在を無視しようとしていた、あの玄関のすぐ横にある『ドア』。
あの奥に潜む、おぞましい何かの気配が、一瞬にして俺の脳を支配した。
「あ, いや……ほら、もう夜も遅いしさ。それに、まだ俺たち付き合ってもないのに、こんな時間に二人きりで部屋に入るのも、その、あれだし……。妹さんもいるしさ!」
しどろもどろになりながら、必死で常識的な言い訳を並び立てる。
帰らせてくれ。頼むからあの部屋にだけは近づかせないでくれ。俺の全身の細胞がそう叫んでいた。
しかし、無情にも背後から助け船が漕ぎ出される。
「柚葉なら気にしなくて大丈夫だよ?」
さらに、風呂上がりの柚葉さんが、濡れた髪をタオルで拭きながら、リビングに顔を出して笑った。
「そうですよ、進藤さん。私なら全然気にしなくていいですから。ゆっくりしていってください。私もう眠いんで、先に寝ますね」
「あ、いや、柚葉さん、待って――」
俺の制止も虚しく、柚葉さんは「おやすみなさーい」と手を振って、廊下の自室へと入っていってしまった。
完全に退路を断たれた。
絶望に表情を強張らせる俺を横目に、莉子さんは嬉しそうにグラスを二つ手に取ると、軽やかな足取りでリビングを出て行った。
「駆くん、こっちですよ」
廊下の照明が落とされ、薄暗くなった空間。
その先にある、さらに暗く沈んだ、あの『ドア』へと莉子さんが向かっていく。
その背中を追わなければならない。
俺の足は、まるで底なしの氷の沼にでも浸かっているかのように、ガタガタと激しく震え始めていた。
人が近づけば自動で点灯するはずの廊下のライト。
天井から白々と降り注ぐ光があるはずなのに、どうしてか、視界の隅々までが不自然に暗く沈んで見える。まるで光そのものが、あのドアに吸い取られているかのような錯覚。
莉子さんは慣れた様子で、両手に持ったグラスを落さないよう、右の肘と体全体を使ってそのドアを押し開けた。
「どうぞ。ちょっと暗いけど入って?」
まだ部屋の中は真っ暗で、中の様子はまともに見えない。
だが、その暗闇の奥から傷を負った獣のように這い出してくる冷たい空気が肌に触れた瞬間、背筋のゾクゾクと手の震えがどうしても止まらなくなった。俺は心臓の鼓動をなだめるように、自分の胸を強く押さえる。
パチ、とスイッチの音がして、部屋の明かりが灯った。
廊下から部屋の中が不意に照らし出される。
入り口から正面、北側の窓際にベッドとカーテン。
「なんだ……普通の部屋じゃないか」
安堵の息が漏れそうになる。一瞬だけ、張り詰めていた緊張がほどけた。自分は恐怖のあまり過剰に怯えすぎていただけかもしれない、と。
しかし、一歩。
その部屋の敷居をまたぎ、中へと足を踏み入れた瞬間――。
俺の予感は、やはり正しかったと全身の悪寒が証明した。
バタン、と背後でドアが閉まる。
その瞬間、言葉を失った。
先ほど廊下から見えた北側には、確かにベッドと淡い色のカーテンしかなかった。
だが、その一角を除いた、部屋の『残り全ての空間』が異様だったのだ。




