閑話:乙女たちの秘密会議と、小悪魔なカミングアウト
「――はい、それじゃあ。ベースを完璧に直してもらったお礼と、男抜きで一度ゆっくり話してみたかったから……っていう私のわがままに付き合ってくれたみんなに、乾杯!」
「カンパーイ……っ!」
「かんぱーい」
「乾杯、支倉先輩」
週の真ん中の水曜日、夜の八時。
大学の近くにある、少し照明を落としたお洒落な個室ダイニングバー。
カチャ、とグラスが合わさる軽快な音が、プライベート感のある個室に響いた。
ジョッキのビールを美味しそうに煽る3年の支倉結衣先輩。その隣で、お洒落なカクテルグラスを手にした2年の水瀬遥さん。
そして、未成年ということでオレンジジュースとジンジャーエールを手にしているのは、1年の市川葵さんと佐々木ひまりだ。
「ぷはぁ、美味しい! やっぱりお礼を言うなら、こういう美味しいお酒とご飯を奢るのが一番よね」
結衣先輩はライダースジャケットを脱ぎ、黒のタイトなノースリーブ姿で嬉しそうに微笑んだ。
「あの……結衣先輩」
ひまりがジンジャーエールをテーブルに置くと、少し身を乗り出して、探るような目を向けた。
「お礼なら、駆先輩に直接すればいいじゃないですか。どうして私や葵ちゃん、水瀬さんまで名指しで呼び出したんですか? 『絶対に男禁制で!』ってルインに書いてありましたけど……」
「あはは、そんなに警戒しないで、ひまりちゃん」
結衣先輩はクスクスと喉を鳴らして笑い、グラスを弄んだ。
「だってね、月曜日に軽音部の練習室にみんなが突入してきた時のあの顔……特に、駆くんをめぐって私に浴びせてきた『目が離せない敵意』が、もう可笑しくて可笑しくて。軽音部の、私にペコペコしてくる大人しい後輩たちとは全然違うなと思って、どうしてもじっくりお話ししてみたくなっちゃったのよ」
「敵意だなんて、人聞きの悪い……。私たちはただ、サークル仲間の不適切な関係を防止しようとしただけです」
遥さんがすました顔でカクテルを口にする。だが、その耳たぶがほんのりと赤いのは隠せていない。
「そうですよ、進藤さんは天然でガードが緩いんですから……」
葵さんも、トロンとした瞳に少しだけ不満の光を宿らせて、ぷくーっと頬を膨らませた。
「ふふ、みんな本当に駆くんのことが大好きなのね。……ちなみに、私も駆くんのこと、すっごく気に入っちゃったわ。頼りになるし、照れた顔が最高に可愛いんだもの。……でもね、私をそこまで強烈なライバルとして警戒する必要は、あんまりないかもしれないわよ?」
「え……? それ、どういう意味ですか?」
ひまりが不思議そうに首を傾げた。
結衣先輩は、グラスを置いて細いアゴに手を乗せると、切れ長の目を悪戯っぽく細めた。
そして、なんでもないことのように、さらりと言ってのけた。
「私ね、女の子も、男の子も、両方いける口だから。……いわゆる、バイセクシャルってやつなのよ」
「ば、バイ……?」
「バイセクシャル……ですか?」
ひまりと葵は、その単語にどこか不穏な空気を感じ取りながらも、具体的な意味が分からず、お互いに顔を見合わせた。
「あの、結衣先輩……。その、バイセクシャルって、一体どういう意味なんですか?」
ひまりがおずおずと尋ねる。
その瞬間。
結衣先輩のすぐ隣に座っていた遥さんが、一瞬にしてその知的な表情を凍りつかせた。
そして、カササッ、と音が聞こえそうなほどの素早さで、ソファの上での座る位置を、結衣先輩から少しだけ遠ざけるように横へずらした。
「あら、遥くん、そんなに露骨に離れなくてもいいじゃない」
結衣先輩がクスクスと笑う。
「……す、すみません。ですが、支倉先輩。それはつまり、恋愛対象が男女を問わない、ということですね……?」
遥さんが額の冷や汗を拭いながら確認する。
「ええ、その通り。可愛い女の子も、格好いい男の子も、同じようにときめいちゃうの。だから、駆くんをめぐるライバルであると同時に……ここにいるみんなも、私にとっては魅力的な『ターゲット』になり得るってこと」
「「えええええええっ!?!?「」」
ひまりと葵は、その意味をようやく理解して、一瞬にして顔を耳の裏まで真っ赤に染め上げ、ソファの上で飛び上がった。
「お、女の子も、ですか!? 先輩、それって、その……っ」
「じゃ、じゃあ……私やひまりちゃんも……対象に……?」
「ふふ、二人ともすごく可愛いから、ちょっとからかいたくなっちゃうわ。……まあ、恋愛的な意味じゃ、私はみんなより、少しだけ『経験』を積んでるからね」
結衣先輩はそう言って、からかうようにウインクをしてみせた。その、大人の余裕を漂わせる艶やかな雰囲気に、ひまりも葵も、完全にペースを乱されて言葉を失ってしまう。
だが、小悪魔な先輩の攻勢は、これだけでは終わらなかった。
「それで? ……ぶっちゃけ、みんなはもう、あの駆くんと『した』の?」
「「「ぶっ――!?!?」」」
遥さんは飲んでいたカクテルを激しく吹き出しそうになり、ひまりはオレンジジュースを喉に詰まらせてゲホゲホと咳き込んだ。葵さんに至っては、あまりの直接的な問いかけに、真っ白になって固まっている。
「な、何言ってるんですか先輩!? するわけないでしょうが!!」
ひまりが真っ赤な顔をして叫んだ。
「そ、そうです! 進藤さんとは、まだそんな……不健全なことは、一切していません!」
葵さんも必死に両手を振って否定する。
「そう……まだなんだ」
結衣先輩はにやにやと笑いながら、全員の顔を順番に見つめた。
「でも、そんだけ毎日毎日、駆くんに好意をこれでもかってくらい押し付けてるってことはさ……。もし、何かの間違いで、そういう状況……要するに、二人きりの部屋で、駆くんから『そういうこと、してもいい?』って迫られたら、みんな、大人しく受け入れるつもりなんだよね?」
――二人きりの部屋で、駆から迫られる。
その具体的なシチュエーションを、三人の脳裏が同時に、極めて鮮明に想像してしまった。
ひまりの脳内には、風邪を引いた熱帯夜、ベッドの上で自分を優しく見下ろす駆の姿が。
葵さんの脳内には、お礼の手料理を振る舞った後の薄暗いリビングで、照れながら近づいてくる駆の姿が。
遥さんの脳内には、点検口の狭い隙間で、ススを拭った直後に見つめ合って、そのままそっと唇を重ねてくる駆の姿が。
「あぅ……っ、そ、それは……っ」
ひまりは顔を両手で覆い、指の隙間から真っ赤な目を覗かせた。
「進藤さんが……私に、そんな……っ、でも、断る理由は、無い……かも……」
葵さんは完全に妄想の世界に入り込み、自分の服の裾をぎゅっと握りしめて俯いてしまった。
「法律的……じゃなくて、倫理的、いえ、個人の幸福追求の観点から言っても……その、やむを得ないというか……受け入れるのが、自然な権利の行使だわ……っ」
遥さんまでが、熱に浮かされたように早口の法律用語(?)をブツブツと呟きながら、グラスを握りしめている。
その三者三様の限界っぷりを見て、結衣先輩はついにこらえきれず、お腹を抱えて大爆笑した。
「あはははは! 面白すぎる! みんな、想像しただけで顔が爆発しそうじゃない! いやいや、まずは付き合うところからでしょうが!」
「う、うるさいです先輩! からかわないでください!」
ひまりがキィキィと怒るが、結衣先輩は涙を拭きながら楽しそうに笑い続けている。
「いやぁ、本当に楽しいわ、みんな。……私ね、こういう風に恋愛のライバルが多い状況って初めてなんだけど、すごくワクワクしてきた。私も、頑張らせてもらおうかな。……あ、でもね」
結衣先輩はそう言うと、すっと隣の遥さんの方へと身体をすり寄せ、その細い肩にぽすっと自分の頭を乗せた。
「遥くん。まずは……駆くんへのアタックの『練習』として、私と一度、そういうこと、してみない?」
「ひゃいっ!? け、結衣先輩、本当に座る位置をずらしてください! 近いです、不適切な接触です……っ!」
遥さんが完全にパニックになりながら、必死に結衣先輩の身体を押し返そうとする。
(ヤバい、この先輩、本当に手が付けられない……! このままだと、私たちの誰かが餌食にされてしまう!)
ひまりは強い危機感を覚え、なんとかこの結衣先輩のターゲット(矛先)を自分たちから逸らし、同時にこの諸悪の根源である「あの男」に、全員の意識を向けさせようと、強力なカードを切ることを決意した。
「あ、あの! 結衣先輩! 駆先輩をめぐるライバルなら、私たちだけじゃありませんからね!」
「え? 他にもいるの?」
結衣先輩が、遥さんを解放して興味深そうに目を輝かせた。
「そうです! 実は……第一章で、先輩が部屋のポスターの怪異を解決した、あの『九条莉子さん』って大人の美人がいるんです! しかも、その妹で陸上部の有名女子高生の『柚葉ちゃん』までが、駆先輩を狙ってて……」
「へぇ、美少女姉妹。面白そうね」
「それだけじゃないんです! 先週の夏休み、その九条姉妹が大学まで遊びに来たとき、お姉さんの莉子さんが飲み過ぎて動けなくなっちゃって。……なんと、先輩の狭いワンルームのアパートに、姉妹揃ってお泊りしたんですよ!」
「「えっ……!?」」
これには、初耳だった葵と遥も一瞬にして目の色を変えた。
「しかも、冷房が効いた狭いベッドで、駆先輩を真ん中にして、三人で川の字になってピタッと密着して寝たらしいです! 莉子さんは、駆先輩のTシャツを借りて、なんとノーブラでアプローチしたとか……っ!」
「「「…………は?」」」
個室の空気が、一瞬にして、先ほどまでの甘い喧騒から、ゾッとするような「本物の深淵の冷気」へと切り替わった。
「川の字……? 三人で……?」
葵さんの瞳から、完全にハイライトが消え失せた。
「ノーブラで、進藤くんのTシャツを……。しかも、妹の女子高生まで同時に……?」
遥さんの眼鏡の奥の瞳が、これまでにない冷徹な絶対零度の光を放ち始めている。
「そうよ……。あの男、本当に、無自覚に網を広げすぎなのよ……っ!」
ひまりが拳を固く握りしめ、ワナワナと震えている。
結衣先輩も、さすがにその「お持ち帰り&川の字」の事実には、呆気にとられたように口をポカンと開けていたが、やがて、深いため息を吐きながら深く頷いた。
「……なるほどね。お化けも霊もこれっぽっちも見えないくせに、そんなに無自覚に女の子を引っ掛けて、真ん中で大人しく寝てるなんて……」
結衣先輩が、グラスを掲げる。
それに呼応するように、ひまり、葵、遥も、静かにグラスやジュースを手に持った。
「「「「天然のたらしですね(だな)」」」」
乙女たちの意見が完全に一致した瞬間、個室の奥からは、駆への愛しさと、それ以上の「お仕置き」を企む不穏なため息が、夏の夜風に混ざって、どこまでも重苦しく響き渡るのだった。




