第二十五話:呪いが解けたメロディと、怒涛の「密着監視網」
「――よし、これで全てのセッティングは完璧だ」
週が明けた火曜日の放課後。
軽音部が普段使っている、防音完備のサークル練習室。
俺はアンプの電源スイッチを入れ、シールドケーブルをベースのジャックへと静かに差し込んだ。
昨日までのあの地鳴りのような「ジー……」という不気味なノイズは、嘘のように完全に消え去っている。ボリュームを最大まで上げても、スピーカーからはかすかなホワイトノイズが聞こえるだけで、水を打ったような静寂が練習室を満たしていた。
「ねえ、本当に大丈夫なの……? 弾いても、あのピリピリした痛みはしない?」
後ろでベースケースを抱えながら、結衣先輩が少し不安そうに切れ長の目を揺らしている。
今日の彼女は、ロックなライダースジャケットの下に、やはり細い肩が露わになった黒いキャミソールという露出度の高い服装で、相変わらずスタイル抜群のスレンダーな身体が、至近距離に並ぶだけで目の毒だった。
「大丈夫ですよ、結衣先輩。アース線は新品にハンダ付けし直しましたし、アンプの極性も正しく合わせましたから。……さあ、愛機を試してあげてください」
「うん。……じゃあ、弾くわね」
結衣先輩は意を決したようにベースを肩にかけると、細くて白い指先をブリッジの上の金属プレートにそっと載せた。
ビクッと肩が揺れる。だが、すぐに彼女は驚いたように顔を上げた。
「あ……。本当に、ちっとも痛くない! あの嫌なちりちりした感じが、全然しないわ!」
「でしょう? 極性の問題と配線不良が直れば、人間がアース線の身代わりになることはありませんから」
「すごい……! じゃあ、音を出すわよ!」
結衣先輩は嬉しそうに微笑むと、右手の指先で力強く、ベースの太い低音弦を弾いた。
――ドゥゥゥゥン……ッ!
練習室の床と空気を心地よく震わせる、深く、艶やかで、そしてロックな重低音。
その音色には、あの不快なノイズも、耳の奥を刺すような超低周波音の歪みも、一切混ざっていなかった。
何より、どれだけ部屋の中で音を鳴らし続けても、あの喉をツンと刺すようなラッカー塗装の薬品臭は、これっぽっちも漂ってこない。
「すご……! なにこれ、音が信じられないくらいクリアで、指が吸い付くように弾きやすいわ……!」
結衣先輩の指先が、まるで魔法にかかったかのように指板の上を滑らかに駆け巡る。
紡ぎ出されるのは、不気味な怪異のノイズではなく、彼女が心から愛する大好きなバンドの、美しくも激しいベースライン(メロディ)だった。
「息も、全然苦しくない……。胸が締め付けられるような、あのお化けに首を絞められているみたいな感じが、嘘みたいに何にもしないわ!」
「揮発性のラッカー成分をレモンオイルで一時的にコーティングして封じ込めましたからね。換気さえ気をつけていれば、有害なトルエンを吸い込むこともありません」
俺が腕を組んで解説すると、横で見ていた宮田が、呆れたように口をポカンと開けて頭を抱えた。
「おいおい……。本当にただの物理トラブル解決しやがったよ、こいつ。駆、お前本当にただの『お片付けおじさん』だな。いや、ベースドクターか?」
「おじさん言うな。普通にメンテナンスをしただけだ。……でも、結衣先輩がまた大好きな楽器を楽しく弾けるようになって、本当によかったです」
俺が結衣先輩に向けて微笑むと、彼女は演奏をピタリと止め、ベースをギタースタンドに優しく戻した。
そして、ふっと表情を柔らかく和らげると、俺の方へとゆっくり歩み寄ってきた。
「進藤くん。……本当に、なんてお礼を言っていいか分からないわ」
「お礼なんて、そんな。俺は宮田に泣きつかれて、ちょっと様子を見にきただけですから」
「宮田くんへの紹介料とは別に、あなた個人へのお礼よ。……だって、お化けのせいにして捨てろって言われていた私の相棒を、こうして元通りにしてくれたんだもの」
結衣先輩はすっと俺の目の前まで来ると、その切れ長の美しい瞳に、からかうような、けれどどこか熱を帯びた艶やかな光を宿らせて、俺の顔を覗き込んできた。
ふわりと香る、スモーキーな大人の女性の甘い香り。
「お礼、どうしようかしらね? ……そうだ」
結衣先輩はいたずらっぽく微笑むと、俺のジャージの襟元を、細い指先で優しくツンと突いた。
「昨日の約束、本気だからね? ……お礼に、私の部屋で、ベースのプライベートレッスンをしてあげる」
「え……? レ、レッスン、ですか?」
「ええ。もちろん、二人きりで。ベースの重さを支えるために、身体をこう……ぴったりと密着させて、一から手取り足取り、手首の角度から、指の動かし方まで……ね? ダメ……かしら、駆くん?」
上目遣いで、ずるいほどの破壊力を秘めた笑みを浮かべる結衣先輩。
昨日の防音室でのあのしなやかな美脚や、ノースリーブの隙間から見えた柔らかな膨らみの感触が脳裏をよぎり、俺の心拍数は一瞬にして臨界点を突破した。顔が爆発しそうに熱くなる。
「お、お部屋で密着レッスン、ですか……っ!? それは、その、さすがに刺激が強すぎるというか……っ!」
俺が狼狽していると、結衣先輩はクスクスと楽しそうに笑いながら、さらに距離を詰めようと一歩踏み出してきた。
その時だった。
バァァァァァンッ!!!
練習室の重い防音扉が、壊れんばかりの凄まじい勢いで、背後から弾け飛んだ。
「――そこまでです、軽音部のマドンナ先輩!!!」
「ひゃいっ!?」
乱入してきたのは、般若のような形相で肩を怒らせた、後輩の佐々木ひまりだった。
その後ろには、いつもは大人しいはずの市川葵さんが、何やら静かな、けれど底知れないオーラを纏って佇んでいる。さらにその背後からは、いつものトレンチコートをスタイリッシュに着こなした法学部の才女・水瀬遥さんまでが、冷徹な微笑を浮かべて現れた。
「ひ、ひまり!? 市川さん、それに水瀬さんまで!? なんでここに……っ」
俺が愕然として声を上げると、ひまりは猛烈な勢いで俺と結衣先輩の間に割り込み、俺の左腕をガシッと掴んでホールドした。
「なんでここに、じゃないですよ先輩! 宮田先輩がサークルのルイングループに『駆が軽音部のマドンナと二人きりで練習室に消えていった! 職権乱用だ!』って実況中継してたからに決まってるでしょうが!」
「宮田ぁぁぁぁぁ!!!」
俺が視線で犯人を睨みつけると、宮田は「へへっ、抜け駆けは許さねえぞ」と、親指を立ててウィンクしてみせた。本当に余計なことをしてくれた。
「進藤さん……」
葵さんが、トロンと潤んだ、けれどどこか拒絶の光をはらんだ瞳で、俺の右の服の裾をぎゅっと握りしめてきた。
「私の新しいお部屋の『お祝い』のお約束より……先輩のプライベートレッスンの方が、そんなに、魅力的なんですか……?」
「ち、違うんだ、市川さん! これはただ先輩がからかって言っているだけで――」
「あら、からかってなんかいないわよ?」
結衣先輩はクスクスと笑いながら、ひまりのホールドを気にする様子もなく、俺の右腕に、そっと自分の細い腕を絡めてきた。
「進藤くん、本当に可愛いし、頼りになるんだもの。私、本当にプライベートレッスンする気満々なんだけど?」
「な、何言ってるんですか先輩! 腕を絡めるのはずるいです!」
ひまりがキィキィと怒りの声を上げ、俺を自分の方へ引っ張る。
そこに、水瀬遥さんが一歩、優雅な足取りで前に踏み出してきた。
「支倉先輩。……軽音部の先輩として、新入生や後輩をいたずらに惑わすのは、サークル活動の倫理基準に反するのではないかしら? 法律の観点から言っても、不適切な利益誘導に近い行為だわ」
遥さんはすました顔で、けれどその切れ長の瞳の奥に静かな火花を散らしながら、俺の正面に立った。
「進藤くん。今日の夜の、お父さんとの『お礼のディナー』……フレンチの予約時間は、午後七時半からよ。その前に、少し、他の方々との関係について……じっくりと、お話を伺いたいわね?」
遥さんが、どこか熱を帯びた、けれど有無を言わせない微笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んでくる。
「ひ、水瀬さんまで……っ!」
右からは、露出度高めの結衣先輩のスレンダーな身体の密着と、甘いスモーキーな香り。
左からは、小動物のように目をつり上げて俺をがっちりホールドするひまりの体温。
正面からは、潤んだ瞳で必死に縋ってくる葵さんの視線と、絶対的な知性で俺を包囲する遥さんのプレッシャー。
「おい、駆……」
宮田が、青ざめた顔で一歩後退りしながら、ボソリと呟いた。
「お前……呪いのベースとか言って、本気でビビってた俺が馬鹿みたいだな。ベースの呪いなんかより、今のお前の周りの『女難の呪い』の方が、一億倍くらい、殺傷能力が高いぞ……」
「俺だって……俺だってそう思うよ、宮田……っ!」
俺は冷や汗をだくだくと流しながら、四方八方から引っ張られる自分の身体と、理性を必死に保とうと頭を抱えた。
「お前に霊感は、綺麗さっぱり無い」
五年前に、高名な霊能者に言い切られたあの言葉が、脳裏を虚しくリフレートする。
怨霊も、悪霊も、妖怪も、俺の目にはこれっぽっちも見えない。
俺がやっているのは、ただの「物理的なお片付け」と、機材の補修だけ。
それなのに、どうして俺の大学生活は、こんなにも、世界で一番「ヤバい」ことになってしまっているのだろうか。
「あの、みんな……とりあえず、一回手を離して落ち着こう、な……っ!?」
俺の頼りない悲鳴は、サークル練習室の中に立ち上る、乙女たちの熱い、そして絶対に譲れないバトルの喧騒の中に、あっさりと掻き消されていくのだった。




