第二十四話:物理的な『除霊』と、スレンダー先輩の無防備な誘惑
「よーし。ハンダごての温度が350度 前後まで上がったな。宮田、そのヤニ入りハンダと、余分なハンダを吸い取る吸い取り線を持っててくれ」
「お、おう……。ハンダ吸い取り線って、この網戸の切れ端みたいな銅の紐でいいのか?」
「それだ。……ひまりは、そっちの棚の上のコンセントから、こっちの作業用延長コードを引っ張ってきてくれるか?」
「了解です、駆先輩! 延長コードですね。……それにしても、先輩。ハンダごてを握っている時の顔、なんかちょっと職人さんみたいで格好いいのが癪ですね」
ひまりが素早く延長コードを引っ張り、俺の足元へと差し出す。
防音室のスチール扉は開け放たれ、サーキュレーターが凄まじい勢いで中の空気を廊下の非常口へと追い出している。おかげで、さっきまで喉を刺激していたツンとしたラッカー塗装の薬品臭は、ほとんど気にならないレベルまで薄れていた。
「よし、じゃあ『物理的除霊』を始めよう」
俺は膝の上にベースのボディを載せ、コントロールキャビティ(配管の隙間)の中を覗き込んだ。
埃を被り、完全に炭化してボロボロになった弦アースのリード線。これを取り外し、新品の芯線に交換してハンダ付けをやり直す。
「あの、進藤くん……。私も、何か手伝えることってないかしら? 私の相棒を直してくれてるんだし、ただ見てるだけなのは心苦しくて……」
結衣先輩が、少し申し訳なさそうに、スレンダーな身体をモジモジさせながら俺の隣に寄ってきた。
「あ、それじゃあ先輩。このマイクロファイバークロスに、こっちの楽器用レモンオイルを数滴染み込ませて、ボディの裏側の、塗装が傷んでいるところを優しく拭いてもらえますか? 揮発しきっていない余分なラッカー塗料の成分を、オイルでコーティングして封じ込めるんです」
「なるほど、匂いの元を閉じ込めるのね! 分かったわ、任せて!」
結衣先輩は嬉しそうに微笑むと、俺からクロスを受け取り、俺の隣にぽすっとしゃがみ込んだ。
その瞬間――。
ふわりと、彼女のあのロック女子特有のスモーキーで甘い香水の匂いが、換気中のスタジオの風に乗って、俺の鼻腔をダイレクトに刺激した。
それだけではない。
彼女が俺のすぐ隣で、床に置いたベースを覗き込むようにして前屈みになった、まさにその時だった。
「――っ!?」
俺の視線が、無意識のうちに真横へと吸い寄せられた。
結衣先輩が着ているのは、黒いロックTシャツの袖を肩まで大胆にカットした、ノースリーブ姿だ。
彼女がかがんで手を動かした瞬間、その大きく開いた脇の隙間から、薄暗いスタジオの光に照らされた、驚くほど細くて白い脇腹のラインと、その奥にあるはずの「柔らかな膨らみ」の輪郭が、衣服の隙間からあまりにもはっきりと見えてしまっていた。
さらに、タイトな黒のショートパンツから伸びる、しなやかで長い美脚が、俺のジーンズに触れそうなほどの至近距離で折り畳まれている。
(ヤ、ヤバい……! 視線のやり場が、視線のやり場がどこにもねぇ……っ!)
俺は一瞬にして顔が爆発しそうに熱くなり、慌てて視線をハンダごての先端へと固定した。
だが、そんな俺の狼狽ぶりを、外で見張っていたはずのひまりが、点検口のガラス越しに絶対に見逃さなかった。
ギギギギギ……。
「……駆先輩? なんだか、手元が激しくブレていませんか? ハンダごての先端が、さっきから全然違うところを狙ってますけど?」
ひまりが、部室から持ってきたノートを丸めてメガホンのようにし、廊下からすさまじいプレッシャーの冷声を飛ばしてきた。
「い、いや! ブレてない、ブレてないぞ! ほら、古いアース線を外す作業をしてるだけだから!」
「そうですか? 先輩の視線、さっきから一ミリも左側の手元を見てなくて、ずーっと右斜め下――要するに、結衣先輩の『あの部分』の方向を向いているように見えますが?」
ひまりの言葉に、結衣先輩は「あら?」と自分の胸元や脇を隠すように腕を組み、クスクスと笑い始めた。
「ふふ。進藤くん、もしかして……私のこと、意識してくれちゃってる?」
「な、何言ってるんですか、先輩! 意識なんて……っ、俺はただ、ハンダごてがボディに触れて塗装を溶かさないように、極限まで集中しているだけです!」
「そう? でも、お耳が真っ赤よ?」
結衣先輩は、悪戯が成功した子供のように切れ長の目を細めると、さらに俺の顔を覗き込むようにして、距離を詰めてきた。
衣服越しに、彼女の細いけれど確かな温もりが、俺の右肩に伝わってくる。
「宮田くんが『凄腕の専門家』って言うから、どんなおじさんが来るのかと思ったら、こんなに可愛くて照れ屋な後輩くんだなんて、私、本当にラッキーだったわ」
「うぐっ……」
「おい、駆! お前、ハンダ付けしながら結衣先輩とイチャコラすんのやめろ! 職権乱用だろ! 俺が代わってやりたいくらいだ!」
宮田が悔しそうに地団駄を踏む。
「お前が代わったら、ハンダごてでベースの木部を焦がして大惨事になるだろ! 宮田、うるさいからちょっとそのハンダ吸い取り線を持ってろ!」
俺は必死に照れ隠しをしながら、ハンダごての先端を配線プレートのポットへと押し当てた。
ジューッ、と小さな煙が立ち上り、古いハンダが綺麗に溶けていく。
俺は素早く吸い取り線で古いハンダを吸い取ると、用意していた新品のアース線をピンセットで掴み、適正な長さにカットして、再び新しいハンダで固定した。
銀色に輝く、美しい球体のハンダ。
「よし。弦アースの結線、完璧だ。……次はアンプのコンセントの極性確認だな」
俺は立ち上がり、ベースを宮田に預けてアンプの電源コンセントへと向かった。
コンセントのソケットの左側の穴(長い方)に、アンプのプラグの極性表示(白いラインがある側)を正しく合わせ、カチリと差し込む。
「これで、アース電流がコンセントのコールド側に正しく逃げるようになる。ベースのアース線も新品に交換したから、金属パーツに触れてもピリピリすることは絶対にないはずだ」
「……へぇ。本当に、流れるような手際ね。まるで魔法みたい」
結衣先輩は立ち上がり、クロスで綺麗にクリーニングされたベースを手にとって、驚いたように呟いた。
オイルでコーティングされたことで、あの喉を刺すような薬品の臭いも、嘘のようにすっきりと消え失せている。
「進藤くん。……私、本当に嬉しい」
結衣先輩はベースを肩にかけると、切れ長の目を潤ませ、ぽつりと呟いた。
「このベース、大好きなバンドのモデルで、アルバイトして、すごく苦労して手に入れたの。なのに、弾くたびに身体が痛くなって、苦しくなって……。サークルのみんなからも『それ、本当に呪われてるから捨てた方がいいよ』って言われて、すごく悲しかったのよ」
彼女は、ベースのネックを優しく愛おしそうになぞった。
「それを……進藤くんだけが、幽霊のせいになんかしないで、こんなに一生懸命原因を調べて、元通りに直してくれた。……本当に、なんてお礼を言っていいか分からないわ」
「いや。俺はただ、怪しい匂いと、機材の不具合を『お片付け』しただけですから」
俺がそう言うと、結衣先輩は、ふっとそのロックでクールな表情を柔らかく和らげた。
そして、ベースを一度ギタースタンドに戻すと、ゆっくりと俺に一歩、歩み寄ってきた。
「……ねえ、進藤くん」
「はい?」
結衣先輩は、すっと右手を伸ばし、俺のジャージの襟元を優しく掴むと、そのまま自分の身体を俺に預けるようにして、顔をこれ以上ないほどの至近距離まで近づけてきた。
「お礼に……今度、私の部屋で、ベースのプライベートレッスンをしてあげる。……もちろん、二人きりで、身体をぴったり密着させて、一から丁寧に……ね?」
彼女の、切れ長の瞳の奥に宿る、からかうような、けれど熱を帯びた、本気とも取れる艶やかな光。
ふわりと香る、スモーキーな大人の女性の匂いが、俺の理性を激しく揺さぶる。
「お、お部屋でレッスン、ですか……!?」
「ええ。ダメ……かしら?」
結衣先輩が、上目遣いで、ずるいほどの破壊力を秘めた笑みを浮かべる。
「ダ、ダメに決まってます!! 先輩、そこまでです!!」
次の瞬間、ガラス窓の外から、般若の形相をしたひまりが、防音扉を勢いよく開けて部室の中へと突入してきた。
「これ以上の女難は有罪です! 駆先輩、今すぐそこから離れてください! 先輩は、私の公式監視対象なんですからね!?」
「あはは、ひまりちゃん、そんなに怒らなくてもいいじゃない。進藤くんが、あまりにも頼りになるから、少しからかいたくなっちゃっただけよ」
結衣先輩はクスクスと楽しそうに笑いながら、俺の襟元からゆっくりと手を離した。
だが、その去り際に、彼女は俺の耳元で、ひまりたちには聞こえないほどの小さな声で、ぽつりと囁いたのだ。
「……レッスンのお誘い、本気だからね。いつでも連絡して、駆くん」
その熱を帯びた囁きに、俺の心拍数は、ハンダごてを握っていた時とは比べ物にならないほどのスピードで、ドクドクと打ち鳴らされるのだった。




