第二十三話:ヴィンテージの嘘と、アース線に眠る「電気の罠」
「よ、よし……。それじゃあ、本当にこのベースを分解しちゃうんだな?」
宮田が、恐る恐るスタジオの隅に置いてあった予備の丸椅子を引きずってきて、俺の隣に腰を下ろした。
「ああ。原因を特定して対処するためには、中身を直接見るのが一番早いからな」
俺はジャージのポケットから、自前で持参してきた小型のマルチドライバーと、デジタルテスターを取り出した。これらは莉子さんの部屋のポスターを剥がした時や、市川さんの天井裏を調べた時にも大活躍した、俺の「お片付け(物理)」の相棒たちだ。
「あの、進藤くん……。本当にそのベース、分解しても大丈夫なの……? 1960年代のオールドヴィンテージって聞いて、私、すごく高額で買い取ったんだけど……」
結衣先輩が、少し不安そうにスレンダーな指先を組み合わせて俺の顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですよ、先輩。もし本当に『悪い呪い』なら、分解した瞬間に俺が身代わりになります。……まあ、呪いじゃなくて『古い家電の不具合』ですけどね。ひまり、悪いんだけど、まずはその防音扉を全開にして、通路の非常口のドアも開けてきてくれないか?」
「了解です、先輩! ついでに部屋の隅にある大型サーキュレーターも強で回しておきますね!」
ひまりが素早く動き回り、防音室の重いスチール扉をストッパーで固定し、廊下の非常口を開け放つ。
さらに「ブォォォンッ!」と凄まじい風切り音を立てて風を送り始めると、スタジオ内をどんよりと満たしていた、あのツンとした酸っぱい刺激臭が、急激に薄れていくのが分かった。
「ふぅ……。風が通るだけで、なんだか急に胸が軽くなった気がするわ」
結衣先輩が、自分の細い喉元を愛おしそうになぞりながら、ほっとしたように息を吐く。
「そうでしょう。……さて、まずは『指先のピリピリ感』、要するに感電のトリックから暴いていきましょうか」
俺はベースを膝の上に平らに置き、ブリッジの横にある金属製のコントロールプレートを固定している小さなネジにドライバーをあてがった。
「宮田、アンプの電源コンセントを見てくれ。……アース端子付きの $100 \text{ V}$ のプラグだけど、アース線が繋がれていないか、コンセントが逆に挿さってないか?」
「逆に挿さってる? いや、コンセントなんて、どっち向きに挿しても同じだろ?」
宮田がコンセントの前にしゃがみ込み、不思議そうに首を傾げた。
「普通の家電なら動くけど、楽器用のアンプはそうじゃないんだ。日本の家庭用コンセント(単相二線式)にはね、電気を送り出す『ホット側』と、電気を地球に逃がす『コールド(接地)側』の極性がある。コンセントの左側の穴の方が、右側よりほんの数ミリだけ長いのはそのためだ」
俺はネジを一本ずつ丁寧に外し、金属プレートを静かに持ち上げた。裏側から、埃を被って赤黒く変色した古い銅線やコンデンサ、ポテンショメータが顔を出す。
「アンプの電源プラグをコールドとホットで逆向きに挿してしまうと、アンプの金属製シャーシや、シールドケーブルを通じてベースのブリッジに、本来アースに逃げるべき微弱な『漏洩電流(リーク電流)』が逆流してしまう。特に、このベースの内部配線を見てごらん」
俺がマルチテスターの極細の端子を、ベース内部の古い配線にあてがうと、デジタル画面の数値が不規則にパタパタと変動した。
「ほら……。弦やブリッジに繋がっている『弦アース』のリード線が、経年劣化でボロボロになって、ハンダ付けの根本から千切れかけて、辛うじて浮いている状態だ。つまり、アースとしての機能が完全に死んでいる。この状態で、アンプの極性が逆になって電気が逆流している金属パーツに人間が触れると、人間そのものが『アース線』の身代わりになって、体内の電気が指先を通じて地面へと流れようとする。これが、ちりちりとした嫌なピリピリ感――要するに、微弱な感電の正体だよ。先輩のベースが呪われているんじゃなくて、スタジオのコンセントの挿し方と、ベースの配線劣化が原因の物理トラブルだ」
俺が一気に説明し終えると、宮田は口をポカンと開けて固まり、結衣先輩も驚きに目を丸くしていた。
「な、なんか、めちゃくちゃロジカルな家電製品の説明が始まったぞ……」
宮田が呆然と呟く。
「進藤くん……あなた、本当にオカルトサークルの人なの? まるで、秋葉原の老舗ラジオ会館のジャンクショップの店員さんみたいなんだけど……」
結衣先輩が、少し呆れながらも、感心したようにクスクスと笑い始めた。
「私は慣れてますけどね。駆先輩のこの『お片付け(物理)モード』、一度入ると近所の電気屋さんより頼りになるんですよ」
ひまりが胸を張り、なぜか我がことのように自慢げに微笑む。
「極性の問題は、コンセントを正しい向きに挿し直して、ハンダ付けをやり直すだけで解決します。……問題は、もう一つの怪異。『首を絞められるような息苦しさ』の正体だ」
俺は、ベースのボディの裏側、美しくも傷だらけのサンバースト塗装を、指の腹でそっと撫でた。
「結衣先輩。……これ、買った時に『1960年代の、オリジナルのヴィンテージラッカー塗装だ』って言われませんでした?」
「ええ。そうよ? ヴィンテージショップの店員さんが、当時のニトロセルロースラッカーが経年劣化して出来たウェザーチェック(細かいヒビ)が最高に渋いんだって、熱弁してたわ」
「やっぱりか。……残念ながら、それはヴィンテージの嘘です」
「えっ……? 嘘って、どういうこと……?」
結衣先輩の表情が緊張で強張る。
「オリジナルじゃない。このベース、前のオーナーが素人リフォームで、ボディ全体を『粗悪なラッカー塗料』で上からリフィニッシュ(再塗装)しています。しかも、かなり雑な仕事で、乾燥が完全に不十分なまま、仕上げのワックスで無理やり表面を固めてある」
俺はボディの角、少し塗装が剥げて木目が露出している部分を指さした。
「本物の1960年代の古いラッカーなら、塗料の中に含まれる揮発性の有機溶剤は、何十年もの時間をかけて完全に抜けきっています。でも、このベースからは、ツンとした薬品の匂いが強く漂っている。それは、塗料を薄めるために使われる『トルエン』や『酢酸エチル』といった、毒性の強い揮発性有機化合物(VOC)の匂いだ」
「有機、溶剤……?」
「そう。この地下スタジオは四方が防音吸音材で囲まれていて、窓が一切なく、換気扇のパワーも極端に弱い。さらに、湿気が多くて夏場は熱がこもりやすい空間だ。そんな密閉空間に、この乾燥不十分なラッカーベースを持ち込んで、アンプの熱や、人間の体温、そして低い周波数の激しい『アコースティック振動』を長時間浴びせ続けると、塗装の内部に閉じ込められていた大量の有害な有機溶剤(トルエン等)が、狭い部屋の中に一気に揮発(気化)して、充満してしまうんだよ」
俺は、へたり込んでいた結衣先輩の、細い首筋と、少し赤紫がかっていた頬を見つめた。
「結衣先輩。……君が感じていた息苦しさや頭痛、胸の圧迫感は、呪いなんかじゃない。揮発した有害なトルエンや有機溶剤を、この狭い空間で一気に肺に吸い込んだことによる、軽度の『化学物質過敏症(シックハウス症候群)』の急性症状だ」
「し、シックハウス症候群……! 私、お化けじゃなくて、化学物質にやられてたの……!?」
結衣先輩が愕然とした声を上げ、自分のノースリーブの腕をさすった。
「そうです。前のオーナーが、見た目をヴィンテージ風に繕うために、安価なホームセンターのスプレーラッカーで適当に重ね塗りしたんでしょう。それをオカルトとして売りつけたショップも悪質ですが、このベース本体は、悪霊に憑かれているどころか、ただの『手抜きリフォームの被害者』なんですよ。他のスタジオで弾く時に起きないのは、換気効率が違うか、これほど長時間狭い地下室にこもらなかかったから。条件がすべて揃った時だけ、ピンポイントで症状が発生していたんだ」
俺がすべての怪奇現象の科学的・物理的理由を綺麗に並べ立てると、スタジオ内には、サーキュレーターの「ブォォォン」という力強い風の音だけが、虚しく響き渡っていた。
「……あいた口が塞がらねえな、本当に」
宮田が、頭を抱えて力なく笑う。
「呪いとか呪いの楽器とか、俺が本気でビビってたのが馬鹿みたいじゃねえか。ただの、手抜き塗装と、アース不良の電気工事トラブルかよ……」
「怪異の正体なんて、だいたいそんなものさ。……さて、原因が完璧に分かったところで」
俺は、工具箱からさらに半田ごて(ハンダごて)と、新しいアース線、そしてアルコール除菌スプレーと極細のマイクロファイバークロスを取り出した。
お片付けのプロとしての血が、静かに、けれど激しく騒ぎ始めていた。
「結衣先輩。……ここからは、本番の『お清め(物理)』の時間です。このベースの古い塗装を一度綺麗にクリーニングして、内部の古い配線を完璧にリペアして、しっかりと『本物のアース』を通して見せますよ」
俺が不敵な笑みを浮かべて宣言すると、結衣先輩は切れ長の目をさらに丸くした。だが、今度は恐怖からではなく、目の前の頼もしすぎる後輩への、驚きと――そして、どこか熱い、別のときめきのような光を、その瞳の奥にトクンと宿らせていたのだった。




