第二十二話:怪異の『視覚化』と、密着するスレンダーボディ
「ぶ、物理的なトラブル……? 駆、お前、今なんて言ったんだ?」
宮田が、腰を抜かしたように呆然としながら、へたり込む結衣先輩と俺の顔を交互に見つめた。
「怪異だの呪いだのじゃなくて、ただの機材の劣化と、この部屋の環境が原因の物理現象だって言ったんだよ」
俺はベースを抱えたまま立ち上がり、一度、アンプに繋がれた太いシールドケーブルを「カチリ」と引き抜いた。その瞬間、スタジオを支配していたあの不気味な「ジー……」という唸り声が、ピタリと止んで完全な静寂が訪れる。
「そんな、嘘よ……。だって、私、本当に息が苦しくなって……。それに、この手のピリピリとした痛さは、絶対に悪い霊が這い上がってきているとしか――」
「結衣先輩。まずはその『呪いの正体』を、一つずつ視覚化して、目の前で実証してみせます」
俺はアンプの電源は入れたまま、イコライザーのつまみ(ノブ)に手を伸ばした。
「宮田、ちょっとそのベースを持って、アンプの前に立っててくれ。音量は下げてあるから、弦には触らないままでいい」
「お、おう? こうか?」
宮田が恐る恐るベースを受け取り、スピーカーの正面に立つ。
「結衣先輩、よく見ててください。今、ベースのボリュームは全開ですが、アンプからは音が出ていませんよね。……ここで、アンプのグラフィックイコライザーの、低音域のつまみ――特に $100 \text{ Hz}$ 前後の帯域をぐっと上げて、全体のボリュームを少しずつ戻していきます」
俺がつまみを回し、全体のボリュームを上げていく。
すると、宮田がベースを構えたままアンプに近づいた、その瞬間――。
――ボ、ボボボボボボ……ブゥゥゥゥンッ!
突然、スピーカーから地鳴りのような重低音が鳴り響き、誰も触っていないはずのベースの太い弦(四弦)が、まるで生き物のように「びりびり」と勝手に激しく震え始めた。
「うわあああっ!? な、なんだよこれ! 勝手に弦が震えてるぞ!?」
宮田が飛び上がってベースをアンプから遠ざける。
「これが、ノイズが勝手に鳴り響く呪いの正体――アコースティック・フィードバック、要するに『ハウリング』です。アンプから出た特定の低い周波数の音波が、ベースのボディや弦に物理的にぶつかって共鳴し、それがまたアンプに送られてノイズをループさせる。特にこの地下室のように壁に吸音材が貼られていても、低音だけは回り込みやすい狭い空間だと、特定の低音セッティングにした途端、勝手に弦が震えて不気味なノイズを出し続けるんです。ほら、ボリュームを絞れば、ピタリと止まるでしょう?」
「あ……。本当だ。ノイズが消えた……」
結衣先輩が、涼しげな切れ長の目を見開いて、驚いたように呟いた。
「でも、進藤くん。それだけじゃ、私の息苦しさや、この指先のピリピリ感の説明がつかないわ。……特に、このピリピリは本当に痛いのよ? まるで、触るなと拒絶されているみたいで……」
「そうですね。次は、そのピリピリの正体を確かめましょう。……結衣先輩、ちょっと立って、ここに来てもらえますか?」
「え、ええ……」
結衣先輩が、ショートパンツから伸びるしなやかな美脚を少し震わせながら、ゆっくりと立ち上がって俺に近づいてきた。
至近距離。ふわりと漂う、煙草の煙を少し甘くしたような、ロック女子特有のスモーキーでほんのり甘い、大人の香水の匂い。
「ちょっと、そのベースの金属パーツに触れてみてください。……あ、アンプのシールドは繋いだままで」
「い、いやよ……。またあの、ちりちりとした嫌な痛みが走るもの……」
結衣先輩は、子供のように首を横に振り、ノースリーブから伸びる細い腕を後ろに隠してしまった。
「大丈夫です。俺が一緒に触りますから」
「え……?」
「俺が先輩の手を上から重ねて、痛みの感覚を共有します。万が一、本物の『呪い』なら、俺が全部引き受けますから。……信じて、手を貸してくれませんか?」
俺がまっすぐに彼女の瞳を見つめて言うと、結衣先輩は一瞬、ハッとしたように息を呑んだ。そして、切れ長の目を少しだけ潤ませながら、おずおずと、白くて細い右手を差し出してきた。
「……うん。進藤くんがそこまで言うなら」
俺は差し出された彼女の冷たい右手を、自分の掌でそっと包み込んだ。
驚くほどに細く、柔らかい指先。男の俺とは全く違う、女の子特有のしっとりとした質感に、心臓がトクンと跳ね上がる。
「あ……」
結衣先輩の頬が、ほんのりと赤く染まる。
彼女は俺の掌に促されるようにして、一歩、さらに距離を詰めてきた。
タイトなノースリーブ姿のスレンダーな身体が、俺の胸元に触れそうなほどに急接近する。衣服越しに伝わってくる、彼女の細いけれど確かな体温と、スモーキーな甘い匂いが、狭い防音室の中で俺の脳を激しく麻痺させていく。
(落ち着け、俺。今は検証中だ……! 邪念を捨てろ!)
俺は心の中で必死に自分にビンタを食らわせながら、結衣先輩の手を導き、ベースのブリッジ(金属製のパーツ)へと、そっと指先を滑らせた。
触れた、その瞬間――。
(――ちりちりっ、ちりちりりっ!)
「あぅっ……!」
「うおっ!?」
結衣先輩が小さな色っぽい悲鳴を上げ、俺の胸元にコテッと額を預けるようにして、身体をぴったりと密着させてきた。
それと同時に、俺の掌にも、まるで冬場の静電気をずっと浴び続けているような、不快極まりない微弱な電気の走る感覚がダイレクトに伝わってきた。
「ほら……っ! やっぱり、ピリピリするでしょう!? これが、呪いじゃなくて何だって言うのよ……っ」
結衣先輩が、俺の胸元に顔を埋めたまま、上目遣いで涙目を向けてくる。密着したスレンダーな胸元の感触が、衣服越しに驚くほどはっきりと右胸に伝わってきて、俺の心拍数はとっくに限界数値を叩き出していた。
だが、それ以上に心臓に悪い「視線」が、背後から突き刺さっていた。
ギギギギギ……。
ふとスタジオの防音扉にある小さなガラス窓に目をやると、外で待機していたはずのひまりが、ガラスに顔をこれでもかと押し当てて、まるで般若のような恐ろしい形相でこちらを睨みつけていた。
口元が「お・し・お・き・で・す」と動いているのが見えて、俺の生存本能が、漏電のピリピリとは比較にならないレベルの最大警戒アラートを脳内でけたたましく鳴らし始めた。
「あ、あの! 結衣先輩、ちょっと離れましょうか! ほら、外のひまりの目がマジでヤバいことになってるんで!」
「え? ひまりちゃんが……? あら、本当。なんだか、お化けより怖い顔してるわね……」
結衣先輩はクスッと小さく笑うと、名残惜しそうにしながらも、ゆっくりと俺の身体から離れてくれた。命拾いした。
俺は乱れかけた呼吸を整え、ピリピリとした手のひらを見つめながら、勝利を確信した笑みを浮かべた。
「結衣先輩。これで、すべてが繋がりました。……このピリピリの正体は、呪いなんかじゃありません。アンプと楽器の回路設計の不良による、ただの『微弱な漏電(感電)』です」
「漏、漏電……!? 私、ベースを弾きながら感電してたの!?」
結衣先輩が、驚きと恐怖の入り混じった声で叫んだ。
「そうです。本来、エレキベースやギターなどの楽器は、弦やブリッジなどの金属パーツに人間が触れることで、体内の余計な電気をアンプを通じてアース(接地)へと逃がす『弦アース』という仕組みが施されているんです。これによってノイズが消えるんですが……。このヴィンテージベースは、内部の古いアース配線が完全に劣化してちぎれかけているか、あるいは……アンプの電源コンセントが、極性を逆に挿されている可能性があります」
俺はコンセントのソケットを指さした。
「コンセントが逆向きに挿されていると、アースへと逃げるべき電気が、逆に楽器のブリッジや弦へと逆流してしまうんです。その状態で、地面に足をぴったりつけて、金属パーツに触れると……人間が『アース線』の代わりになってしまい、微弱な電流が常に指先を通じて地面へと流れ続けようとする。それが、ちりちりとした嫌なピリピリ感の正体です。つまり、電気工事やメンテナンスの不備による、純粋な物理トラブルなんですよ」
俺がそう一気に説明すると、宮田は「あ、あいた口が塞がらねえ……」と呆然とし、結衣先輩も驚きに目を白黒させていた。
「じゃあ……あの不気味なピリピリは、ただの漏電だったのね……」
「はい。そして、残るもう一つの怪異――『首を絞められるような息苦しさ』。……これも、俺にはもう、完璧な物理的答えが見えています」
俺は、スタジオに充満する「ツンとする、妙に酸っぱい刺激臭」に、静かに鼻を澄ませた。
お片付けのプロとしての血が、静かに、けれど激しく騒ぎ始めていた。
「結衣先輩。……ここからが、本番の『お清め』です。このベースと、このスタジオの環境に眠る『目に見えない甘い毒』を、俺がこれから綺麗さっぱりお片付けしてみせます」




