第二十一話:スタジオに漂う「甘い毒」と、ピリつく警戒アラート
「――ちょっと宮田先輩、歩くのが早すぎます! そんなにそのマドンナ先輩に早く会いたいんですか!?」
大学の裏門を出てしばらく歩いた、住宅街の細い路地。
ひまりが頬を膨らませ、小走りで先行する宮田の背中に鋭い声を飛ばしていた。
「当たり前だろ! 結衣先輩は俺たちの憧れの星なんだぞ!? 最近は呪いのせいで顔色も悪くて、サークルにも全然顔を出してくれねえんだ。ここでお前らがサクッと原因を暴いてくれたら、俺の評価もウナギ登り、もしかしたら『宮田くんって本当に頼りになるのね』なんて甘い展開に――」
「はいはい、下心100%ですね。不潔です。駆先輩、聞いてますか? 万が一、その先輩がどれだけエロ格好良くても、鼻の下を伸ばしたら承知しませんからね?」
「俺に振るなよ……。さっきから言ってるけど、俺はただ様子を見に行くだけだからな。それより宮田、その個人練習用のスタジオって、この近くにあるのか?」
俺が苦笑いしながら割って入ると、宮田は路地の角にある古びた雑居ビルの前で足を止めた。
「ここだよ。ここの地下。一階は普通の喫茶店なんだけど、地下に防音設備が整った個人用の練習室がいくつかあってさ。学生の間じゃ、安くて使い勝手が良いって定番の場所なんだ」
宮田の指し示す先には、すっかり色褪せた『スタジオ・ビート』と書かれた看板があり、地下へと続く狭い階段が、まるで暗い奈落の口のようにぽっかりと開いていた。
「……うぅ。地下、ですか。なんだかすごく、お化けが出そうなジメジメした空気ですね……」
ひまりが俺のシャツの袖をぎゅっと掴み、不安そうに階段の先を見つめる。
「まあ、地下の防音室なんてこんなもんだよ。行くぞ」
俺が一歩、階段に足を踏み入れた、その瞬間だった。
(――ッ!?)
ツンと、鼻の奥を針で刺されたような、妙に酸っぱくて不快な匂いが脳髄をかすめた。
古いコンクリートの湿気や、カビの臭いとは明らかに違う。どことなく、ツンとした刺激性のある、薬品に近い人工的な匂い。
それと同時に、胸のあたりがわずかに重くなるような、嫌な圧迫感を覚える。
(なんだ、この匂いは……。それに、この空気……)
霊感ゼロの俺の生存本能が、静かに、けれど確実に「危険信号」の第一段階を点滅させ始めていた。
「おい、駆? どうした、急に立ち止まって。ビビったか?」
「いや、なんでもない。ちょっと湿気がすごいなと思って」
「地下だしな。さ、結衣先輩が待ってるから早く行こうぜ!」
宮田に促され、俺たちは狭い階段を降りて地下の通路へと進んだ。
いくつか並ぶ防音扉の一番奥、重いスチールの扉が開いており、中からぽつんと白い蛍光灯の光が漏れていた。
「あ、宮田くん。来てくれたんだ」
扉をノックしようとした瞬間、中から一人の女性が現れた。
「――っ」
隣にいたひまりが、小さく息を呑むのが聞こえた。
そこに立っていたのは、噂通りのスレンダーかつ中性的な美女だった。
肩にかからない程度の艶やかな黒髪ショート。切れ長の涼しげな瞳に、すっと通った鼻筋。何より目を引いたのは、その服装だった。
黒いロックTシャツの袖を肩まで大胆にカットしたノースリーブ姿に、タイトな黒のショートパンツ。そこから伸びる、驚くほどに細くて白い美脚と、鎖骨の美しいライン。
クールでロックな雰囲気を纏っているが、どこか無防備で、男なら誰しも視線のやり場に困ってしまうような――そんな、独特の退廃的な色香があった。
「結衣先輩! 約束通り、例の『専門家』を連れてきました! サークルの親友の進藤駆と、その後輩の佐々木ひまりちゃんです!」
宮田が胸を張って俺たちを紹介する。
「支倉結衣です。急にこんな怪しいオカルトみたいな相談をしちゃってごめんなさいね。……あなたが、進藤くん?」
結衣先輩はふっと柔らかく微笑むと、驚くほど自然な動作で俺の目の前まで歩み寄り、じっと俺の顔を覗き込んできた。
至近距離。ふわりと漂う、スモーキーでほんのり甘い、大人の女性の香水の匂い。だが、それ以上に彼女の顔色が、どこか土気色に近く、呼吸が少し浅いのが気になった。
「あ、はい。進藤です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします、先輩。私は現代仏教文化研究会の『公式な監視役』として同行させていただきました」
ひまりがすかさず俺と結衣先輩の間に割り込み、ピリピリとした警戒オーラを全開にして挨拶する。
結衣先輩はくすりと笑った。
「ふふ、可愛い後輩ちゃんね。まあ、立ち話もなんだから、中に入って」
促されて四畳半ほどの狭い防音スタジオの中へと入る。
室内は、アンプやドラムセットが所狭しと並べられ、壁全体にグレーの吸音材が貼り巡らされていた。窓は一切なく、換気扇のブーンという鈍い音が響いているだけだ。
そして、部屋の真ん中のギタースタンドに、その「呪いの楽器」が置かれていた。
赤茶けたオールドサンバーストの、傷だらけのヴィンテージベース。
1960年代のオールドベースらしく、醸し出す雰囲気は確かに渋くて格好いい。だが――。
(……くっ、この匂い、ここから強く漂っているのか……?)
スタジオに入った瞬間から感じていた、あの喉の奥がツンとするような、妙に酸っぱい刺激臭。それは、このベースに近づくにつれて明らかに濃度を増していた。
「見ての通り、見た目はすごく気に入っているんだけど……。これ、アンプに繋いで弾き始めると、本当におかしいのよ」
結衣先輩は、どこか怯えるようにベースを見つめた。
「具体的には、弾いていると急に息が苦しくなる、でしたっけ?」
俺の問いに、結衣先輩は小さく頷いた。
「ええ。宮田くんにも話したけど、このベースをアンプに繋いで弾いていると、数分もしないうちに、急に胸のあたりが締め付けられるように苦しくなって……まるで『目に見えない何かに、後ろから首を絞められているような息苦しさ』に襲われるの。それにね……」
結衣先輩はおそるおそる手を伸ばし、ベースの金属製のブリッジ部分を指さした。
「この金属パーツや弦に触れると、手のひらや指先がちりちりとピリピリと……まるで『呪いの電気』が這い上がってくるみたいに、不快に痛むのよ。別の楽器の時は、こんなこと絶対に起きないのに……。本当に、このベースに何か悪いものが憑いているんじゃないかって、怖くて」
「呪いの電気、ですか……。なんだか本当にオカルトチックですね」
ひまりが腕を組み、少し身を乗り出してベースを眺める。
「宮田くんが『進藤くんはどんな怪奇現象もお片付けできる』って言うから、すがる思いで頼んじゃったの。……一度、アンプに繋いで、弾いて見せてもいいかしら?」
「はい。ぜひ、普段通りに弾いてみてください」
結衣先輩は小さく息を吸い込むと、ベースを肩にかけ、シールドケーブルを大きなベースアンプへと接続した。
アンプの電源を入れた、まさにその瞬間。
――ジーーーーー……。
アンプのスピーカーから、妙に大きくて不気味な、地鳴りのような唸り声が部屋中に響き渡った。
「うわっ、ノイズがかなり酷いですね」
宮田が耳を塞ぎそうになりながら言う。
「そうなの。このベース、いつもこんな不気味なノイズが鳴るのよ」
結衣先輩はそう言うと、ピックを手にして、太い低音弦をジャカジャカと激しく弾き始めた。
スタジオ内に、お腹に響くような重低音が鳴り響く。スレンダーな身体で、ベースを低く構えて激しく演奏する彼女の姿は、息を呑むほどにエロ格好良かった。隣で宮田が「おお……やっぱり結衣先輩最高……」と鼻の下を伸ばしている。
だが、演奏が始まって二分ほど経った頃、異変が起きた。
「――っ、はぁ……、はぁ……っ」
結衣先輩の指の動きが、急激に鈍くなった。
彼女の細い肩が激しく上下し始め、額にはびっしょりと冷や汗が浮かんでいる。その白い頬は、先ほどまでの土気色から、一転して酸欠のように赤紫がかって見えた。
「はぁ、やっぱり、だめ……。息が、苦しくて……っ、胸が、締め付けられるみたいで……!」
結衣先輩はたまらず演奏を止め、胸元をノースリーブの隙間からぎゅっと掴むようにして、その場に力なくへたり込んでしまった。
「先輩! 大丈夫ですか!?」
ひまりが慌てて駆け寄り、彼女の背中をさする。
「大丈夫……。でも、やっぱり、首を絞められているみたいで……っ」
「本当に、怪異の仕業なのか……?」
宮田が顔を青くして後退りする。
だが、俺は演奏が止まったアンプのノイズを耳にしながら、へたり込む結衣先輩が手にしたベースへと、ゆっくりと歩み寄った。
(……いや。やっぱり、お化けや怪異の気配じゃない)
俺はしゃがみ込み、結衣先輩の腕から優しくベースを受け取った。その際、彼女の細くて柔らかい指先が、俺の手にそっと触れ合う。
「あ、進藤、くん……」
「ちょっと、見せてくださいね」
俺はベースを手に取り、その金属パーツに、そっと指先を滑らせた。
その瞬間――。
(――ちりちりっ、ピリピリッ!)
手のひらから、ちりちりと粟立つような、嫌な微弱なピリピリ感が腕へと駆け上がってきた。
「痛っ……!?」
思わず、手を引っ込める。
「ほらっ!? 進藤くんもピリピリしたでしょう!? それが、ベースの呪いなのよ……!」
結衣先輩が、怯えた瞳で俺を見つめる。
だが、俺は、ピリピリとした手のひらを見つめ、それからスタジオを支配する「ツンとする酸っぱい匂い」に、静かに鼻を澄ませた。
(……この匂い、このピリピリ感、そしてこの息苦しさ)
霊感ゼロのはずの俺の生存本能が、このスタジオ内に充満する「目に見えない甘い毒」の正体を、脳裏で明確に弾き出し始めていた。
「結衣先輩。……これ、呪いなんかじゃないです。もっと、現実的で、最高に有害な『物理的なトラブル』です」
俺はベースのボディを軽く叩き、へたり込む結衣先輩と、驚くひまりたちの顔をまっすぐに見つめた。




