閑話:不意打ちの看病と、熱に浮かされた甘えん坊
「――はぁ、昨日のディナーは本当に胃が痛かったな……」
週が明けた月曜日の朝。
十月も終わりに近づき、秋のひんやりとした朝霧が立ち込めるキャンパスの並木道を歩きながら、俺は一人で深いため息をついていた。
昨日の日曜日、俺は水瀬遥さんのお父さん――あの厳格そうで仕事の早すぎる水瀬弁護士から、事務所のトラブル解決のお礼として、京都でも一、二を争う超高級フレンチレストランへと招待されていたのだ。
慣れないナイフとフォークの順序、一口サイズの料理に、やたらと丁寧なソムリエ。お父さんから「進藤くん、本当に感謝しているよ。遥を救ってくれてありがとう」と終始にこやかにビール(ではなく、お洒落なワイン)を勧められ、俺は緊張のあまり味が半分も分からなかった。
だが、それ以上に心臓に悪かったのは、ディナーが終わり、お父さんが会計のために少し席を外した時のことだ。
『進藤くん。……今日は、お父さんの前で少し堅苦しくさせちゃって、ごめんなさいね』
『いや、全然! すごく美味しい料理だったし、水瀬さんにお礼を言ってもらえて嬉しかったよ』
『うふふ、そう? ……でもね』
遥さんは、テーブルに置かれたグラスの縁を細い指先でなぞりながら、少し顔を赤らめて俺を見つめてきたのだ。いつもの知的なトレンチコートではなく、シックな黒のノースリーブワンピースを身にまとった彼女は、息を呑むほどに美しかった。
『……次は、お父さん抜きで、二人だけで行きたいわ。私の知っている、すごくお洒落なブックカフェがあるの。今週末、空いているかしら……?』
あの、控えめでありながら好意がダダ漏れになっているアプローチ。
思い出すだけで、俺の額からは未だに冷や汗が滲み出てくる。法学部のマドンナからそんなお誘いを受けるなんて、平凡な大学生である俺のキャパシティをとうに超えていた。
「どうしてこう、俺の周りの女の子たちは極端なんだよ……」
胃のあたりをさすりながら、お昼時になり、俺は約束通り学食へと向かった。
今日は、サークルの同級生である宮田が「お昼一緒に食べようぜ」と待っているのだ。
中央食堂の騒がしい喧騒の中、奥の席で手を振る宮田の姿を見つけ、俺はトレイに乗せたラーメンを持って向かいの席に腰を下ろした。
「よお、駆! 昨日の高級ディナーはどうだったよ? 凄腕弁護士の親父さんに、手厚くもてなされたんだろ?」
宮田がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら、うどんをすすりつつ聞いてきた。
「もう勘弁してくれよ……。緊張しすぎて、フレンチのフォークの使い方が合ってるかだけで頭がいっぱいだったよ。全然食べた気がしなかった」
「贅沢な悩みだな、おい! 美人の水瀬遥さんと、その親父さんとスリーショットでフレンチなんて、全男子学生の嫉妬で刺されても文句言えねえぞ?」
「そんなんじゃないって……」
苦笑いしながら箸を割り、ラーメンに手を伸ばそうとした、まさにその瞬間だった。
不意に、背後からスッと気配が近づいたかと思うと、温かくて柔らかな、ほのかに甘い香りがする両の手のひらが、俺の目をすっぽりと覆い隠した。
「――っ!?」
俺が硬直すると、目の前の宮田がさらにニヤニヤと笑みを深くし、声を潜めて言った。
「おーっと! 駆、だーれだ!」
背後からの、どこか優しくて、少しだけおっとりとした気配。
嗅ぎ覚えのある、あの事件の時に何度も嗅いだ、清潔感のある柔軟剤のような匂い。
俺は少し照れくささを感じながら、直感のままに答えた。
「……市川、さん?」
視界を覆っていた手が、パッと離れた。
振り返ると、そこには優しく微笑む市川葵さんが立っていた。
「あはは、大正解です。進藤さん、よく分かりましたね?」
「ちぇー、つまんねえの!」
宮田がわざとらしく肩をすぼめてガッカリしてみせる。
「俺はてっきり、駆が絶対『ひまり!』って答えると思って、ひまりに怒られる駆の絵面を期待してたのによ」
「私もです(笑)」
葵さんも、小首を傾げて少しだけ悪戯っぽく笑った。
「進藤さんが『ひまりちゃん?』って答えて、ちょっと慌てる姿を期待してたんですけど……。すぐに私って分かっちゃうなんて、なんだか少し、特別に思われてるみたいで照れちゃいますね」
「いや、市川さんって、なんかすごく優しい雰囲気の匂いがするから、すぐに分かったんだよ。……ところで、今日は一人? ひまりは一緒じゃないの?」
いつもなら、葵さんの隣には元気いっぱいに喋り散らかすひまりがいるはずだ。
俺の問いかけに、葵さんの表情が少しだけ心配そうに曇った。
「あ、それが……ひまりちゃん、今日の午前中からちょっと風邪気味みたいで、講義をお休みしたんです。さっきルインしてみたんですけど、すごくしんどそうにベッドで寝てるみたいで……」
「え、ひまりが風邪?」
いつもサークルで嵐のように元気に動き回っているひまりが、体調を崩して寝込んでいる。
そのギャップに、俺の胸の中に微かな心配が過った。
「そうなんだ……。一人暮らしで風邪引くと、結構キツいよな」
「そうなんですよ。私もこれからバイトがあって、お見舞いに行ってあげられなくて……。進藤さん、もしよければ、ひまりちゃんの様子、見てあげてもらえませんか?」
「あ、ああ。分かった。放課後、ちょっと様子を見に行ってみるよ」
「ありがとうございます! よろしくお願いしますね」
葵さんはそう言って、嬉しそうに手を振って講義へと戻っていった。
午後三時。
すべての講義が終わり、俺は大学近くのドラッグストアに立ち寄っていた。
カゴの中に、スポーツドリンク、ゼリー飲料、冷えピタ、そして消化の良さそうなレトルトのお粥を買い込み、スマホを取り出してひまりにルインを送る。
『ひまり、体調大丈夫か? 葵さんから風邪だって聞いた。今からお見舞い用の食べ物、ドアの前に置いていこうと思うんだけど、大丈夫?』
送信してすぐに、既読がついた。
だが、返信はしばらく経ってから、掠れた文字を紡ぐようにして届いた。
『先輩……ありがとうございます。ドアの前じゃなくて、オートロック開けるので、お部屋まで来てください……。寂しくて死にそうです……』
末尾には、涙を流すアザラシの弱々しい絵文字。
「本当にしんどそうだな」
俺は急いで買い物を済ませ、ひまりの住むマンションへと向かった。
オートロックを抜け、エレベーターで彼女の部屋の前へ。
インターホンを押すと、しばらくして、パタパタと弱々しい足音が近づいてきた。
ガチャリ、と重いドアが開く。
「……あ、先輩。わざわざ、本当にありがとうございます……」
そこに立っていたひまりは、いつもの元気いっぱいの面影はどこへやら、熱のせいでトロンと潤んだ瞳をして、頬を林檎のように真っ赤に染めていた。
普段のポニーテールは解かれ、少し乱れた髪が肩にかかっている。服装は、薄手のパステルピンクのパジャマ姿だ。
「ひまり、大丈夫か? 顔、真っ赤だぞ」
「うぅ……頭がズキズキして、体中が熱くて……。でも、先輩が来てくれて、ちょっと元気出ました……」
ひまりは掠れた甘ったるい声で、弱々しく微笑む。
「とりあえず、これ冷たいドリンクとかゼリーとか買ってきたから。台所の冷蔵庫に入れておくよ。……ひまりはすぐにベッドに戻って寝てろ」
「はぁい……」
俺は部屋に上がり、買ってきたポカリスエットやゼリーを冷蔵庫に手際よく収めていった。
「よし、とりあえずこれだけあれば大丈夫だな。冷えピタもここに置いておくから、おでこに貼れよ」
作業を終え、俺は玄関へと向かった。
「それじゃ、俺はもう帰るから。長居したら安静にできないだろ。ゆっくり休んで、早く治せよな」
そう言って、靴を履こうとドアノブに手をかけた、まさにその瞬間だった。
ぎゅっ、と後ろから俺のジャケットの裾を、小さくて熱を帯びた手が力強く掴んで引き止めた。
「待って、ください……先輩。行かないで……」
振り返ると、ひまりが涙をポロポロと零しそうな、潤んだ瞳で俺を見つめていた。
「ひまり? どうした、まだ何か欲しいものあったか?」
「ううん……そうじゃなくて。一人になると、すごく寂しくて……。お部屋、暗くて、なんだかすごく寒くて……」
ひまりはそう言って、熱のせいで身体が上手くコントロールできないのか、俺の腕にしがみつくようにして、その細い身体をぴったりと押し当ててきた。
その時、俺の視線が、彼女の胸元に吸い寄せられた。
薄手のパジャマ。
熱のせいで頭が回っていないひまりは、パジャマの下に『つけていない』状態のようだった。
薄い生地を通して、そこにあるはずの柔らかい凹凸の形が、驚くほどはっきりと浮き出ている。
しかも、彼女が俺の腕に抱きついているせいで、その柔らかくて熱を帯びた感触が、衣服越しにダイレクトに俺の右腕に押し当てられていた。
「お、おい! ひまり、ちょっと待て……! 服、ちゃんと着てないっていうか、つけて……っ!」
俺は顔が一瞬にして爆発しそうに熱くなり、慌てて視線を天井へと逸らした。
「え……? 先輩、何がですか……? 身体、すごく熱いんです……。冷たいお水、ください……」
ひまりは完全に熱に浮かされていて、自分の無防備さに全く気づいていない。トロンとした目で俺を見つめ、さらに俺の腕をきゅっと抱きしめる力を強める。
(ヤバい、ヤバい、ヤバい! これ以上は俺の理性が死ぬ!)
「わ、分かった! とりあえずベッドに戻ろう! お水、持ってきてやるから!」
俺は必死に邪念を振り払い、ふらつくひまりの肩を支えて、なんとか彼女をベッドへと横たわらせた。
すぐに冷たい水をコップに入れて持って行き、彼女に飲ませる。
おでこに冷えピタをしっかりと貼り、布団を首元まで引き上げた。
「ふぅ……。これでよし。じゃあ、俺は――」
「先輩。……手を、握っててくれませんか?」
布団の中から、ひまりが熱い右手をスッと差し出してきた。
「手?」
「うん……。いつもね、私が実家で風邪引いたとき、お兄ちゃんが、私が寝付くまでずっとそばにいて、手を握っててくれたんです……。一人だと、怖い夢見そうで……」
ひまりはシーツに顔を半分埋めながら、上目遣いで、縋るように俺を見つめる。
いつもは元気で、先輩後輩の距離を弁えている彼女が、熱のせいか、完全に幼い子供のように甘えきっている。そのギャップの破壊力は凄まじく、俺の胸を激しく締め付けた。
「……お兄ちゃんの代わり、か。しょうがないな」
俺はベッドの脇の床に腰を下ろし、ひまりの熱くて小さな手を、そっと自分の手のひらで包み込んだ。
「冷てぇ手だな、先輩……。でも、すごく気持ちいいです……」
「お前が熱すぎるんだよ。ほら、目瞑って、早く寝ろ」
「はぁい……。えへへ、先輩、本当に優しいですね……」
ひまりは安心したように、ふにゃりと可愛らしく微笑むと、俺の手をぎゅっと握り返してきた。
「先輩……大好き、ですよ……」
かすれた、けれど熱を帯びた本音のような呟きを最後に、ひまりはすーすーと規則正しい寝息を立て始め、深い眠りへと落ちていった。
静まり返った部屋。
繋がれた、熱くて小さな手。
俺は、自分の額から流れる別の冷や汗を拭いながら、彼女が完全に眠りにつくまで、その愛らしい寝顔をただ静かに見守り続けるのだった。




