閑話:熱帯夜と、九条姉妹の誘惑
「――ぷはぁ! やっぱり、夏のビールの最初の一口は、五臓六腑に染み渡るわねぇ!」
八月の半ば。京都の夏は、まるでサウナの中に閉じ込められたかのような容赦のない猛暑が続いていた。
そんな蒸し暑い日の夕方。
大学の近くにある居酒屋の座敷席で、ジョッキを片手に幸せそうな声を上げているのは、九条莉子さんだった。
あの「部屋中に溢れる視線の怪異(ただのポスターと鴨川の石)」を俺がお片付けで解決してから、早数ヶ月。すっかり体調も良くなり、元気を取り戻した莉子さんと、その妹で現役陸上部女子高生の九条柚葉ちゃんが、夏休みを利用してわざわざ俺の大学まで遊びに来てくれたのだ。
「お姉ちゃん、ちょっとペース早すぎ。駆さん、お姉ちゃんに無理して付き合わなくていいですからね?」
冷たいウーロン茶のグラスを手にした柚葉ちゃんが、呆れたように莉子さんを嗜める。
「いや、大丈夫だよ。でも、莉子さん本当に嬉しそうだね」
「だって、駆くんが救ってくれたお部屋、本当に快適なんだもん! 肩こりも頭痛も嘘みたいになくなって、毎日すやすや眠れてさ。……ほらほら、駆くんももっと飲んで!」
「あ、ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて……」
久しぶりの再会ということもあり、俺と莉子さんは、ついつい昔話や大学の話題で盛り上がり、酒のペースが上がってしまった。
そして二時間後――。
「うにゅ……。駆くぅん、もう一杯だけ、冷たいの飲も……?」
莉子さんは完全にベロベロに酔っ払っていた。
普段の大人びたお姉さんの面影はどこへやら、俺の肩にスリスリと頭を擦り寄せ、完全に赤ちゃん返りしている。俺も頭がふわふわと温かく、かなり良い気分だが、莉子さんの泥酔っぷりは尋常ではない。
「お姉ちゃん、もう完全にダメなやつじゃん。……駆さん、すみません、うちの姉が。……よいしょっと、立ち上がれる?」
柚葉ちゃんが必死に莉子さんの脇を抱えて持ち上げようとするが、ぐにゃぐにゃになった莉子さんの身体は、陸上部で鍛えた柚葉ちゃんの力でも支えきれそうになかった。
「これは……タクシー呼ぼうか。松ケ崎の家まで、柚葉ちゃん一人じゃ連れて帰れないだろ?」
「それがいいです。私一人じゃ、途中で道路に捨てちゃいそう……」
「やだぁっ! 帰りたくないぃっ!」
その時、莉子さんが大声を上げて俺の腰に両腕を回し、ギュッと力任せにしがみついてきた。
「松ケ崎まで帰るの、遠くて疲れちゃうのぉ! 駆くんのお家、ここから近いでしょ!? 今日は駆くんのところに泊めて! 泊めてくれなきゃ、明日から毎日駆くんの部室の前にテント張って寝るぅ!」
「テントって、何言ってるんだよ莉子さん!」
「お姉ちゃん、いい加減にして! 駆さんに迷惑でしょ!」
柚葉ちゃんが引き剥がそうとするが、莉子さんは「やだやだ!」と地団駄を踏み、俺の服を離さない。
泥酔した莉子さんのゴリ押しと、お酒が入って少し判断力が鈍っていた俺は、結局、ため息をつきながら白旗を上げるしかなかった。
「……はぁ。分かったよ。俺の部屋、散らかってるしベッドも一つしかないけど、それでもいいなら、おいで」
「わーい! 駆くん、だぁい好き!」
莉子さんは嬉しそうに俺の首に腕を回して抱きついてきた。
俺は顔を真っ赤にしながら、頭痛を抑えるようにこめかみを押さえた。
「柚葉ちゃん、本当にごめんね。とりあえず、コンビニで必要なものだけ買って、俺のアパートに行こう」
「いえ、こちらのセリフです……。本当にごめんなさい、駆さん」
柚葉ちゃんは恐縮しきりだったが、その瞳には、どこか少しだけ、いつもとは違う緊張が走っているように見えた。
コンビニでメイク落としや簡単な着替えセットを買い込み、俺の狭いワンルームのアパートへと到着した。
冷房を最強に設定し、部屋の中に冷たい風が行き渡る。
「ふあぁ……涼しい……。ねえ、駆くん。夏真っ盛りで身体がベタベタして気持ち悪いから、さっぱりしたいんだけど。シャワー、借りていい?」
莉子さんが、自分のブラウスの襟元をパタパタと扇ぎながら言った。
「ああ、もちろん。先に入りなよ。タオルと、着替えは……俺のTシャツとジャージで良ければ、そこに置いておくから自由に使って」
「ありがとっ!」
莉子さんは嬉しそうに脱衣所へと消えていき、すぐに水音が響き始めた。
残された俺と柚葉ちゃんは、狭い部屋の中で所在なさげに座り込む。
「駆さん……いつもこんな狭い部屋で一人で過ごしてるんですか?」
「まあね。大学生の一人暮らしなんて、こんなもんだよ」
「……ふぅん。女の子、呼んだことあるんですか?」
柚葉ちゃんが、じっと俺の顔を覗き込んできて、少しだけ意地悪そうに微笑んだ。
「な、無いよ! 莉子さんが初めてだよ!」
慌てて弁解する俺に、柚葉ちゃんは「へぇ……そうなんだ」と、どこか満足げに呟いた。
しばらくして、シャワーの音が止まり、脱衣所のドアが開いた。
「ぷはー! さっぱりしたぁ!柚葉も借りたら?」
現れた莉子さんを見て、俺は思わず飲んでいた麦茶を吹き出しそうになった。
莉子さんは、俺が貸した少し大きめの白いTシャツ一枚を羽織っていた。裾は太もものあたりまで届いているものの、問題はその下だ。
明らかに、胸元の生地が不自然な立体感を描いており、Tシャツの薄い生地を通して、そこにあるはずのものが無いことが一目で分かった。
「お、お姉ちゃん!? あんた、何やってるのよ!?」
柚葉ちゃんが立ち上がり、顔を真っ赤にして叫んだ。
「えぇ? だって、暑いんだもん。お部屋の中だし、駆くんだし、別にノーブラでも良くない? 駆くんのTシャツ、すっごく落ち着く匂いがするしね」
莉子さんは悪びれもせず、くねくねと身体を揺らして俺に向かって微笑む。
「よくないです! 駆さんは男の人なんだよ!? 少しは自覚して!」
「いいじゃん減るもんじゃないし。ほら、駆くんも私のこと、もっと見ていいよ?」
「お、俺、ちょっと頭冷やしてくる!柚葉さん先にシャワーどうぞ!」
視線のやり場に完全に困り、心拍数がとっくに限界を迎えた俺は、逃げるように外に出た。
シャワーを浴び終わった柚葉さんがドア越しに伝えてくれた。
ドアの向こうの気配が遠ざかるのを確認して部屋に入りシャワーを浴びる。
冷たい水で無理やり雑念を追い払う。 その間、俺がいない部屋の中では、姉妹によるこんな会話が繰り広げられていた。
「お姉ちゃん、本当に駆さんの前だとガードが緩すぎる。……まあ、駆さん、下心が見え隠れしてる割にはすごく初心で、絶対に手を出してこないの、そこは評価するけどさ」
「でしょー? 駆くんって、本当に紳士的でいいよね。安心できるっていうか。……あ、でも柚葉こそ、さっきから駆くんのことじっと見てなかった?」
「な、何言ってるのよ! 私はただ……陸上部のユニフォーム、ちょっと際どいの着ると、部活の男どもの視線が鬱陶しくて。駆さんみたいに、変な目で見ないで助けてくれる人って、珍しいなって思っただけだし」
「ふふーん、怪しいなぁ。……ねえ、柚葉。駆くんのベッド、シングルだけど、せっかくだから真ん中に駆くんを挟んで三人で川の字で寝ようよ」
「は!? 何言ってるの、お姉ちゃん! それはさすがにやりすぎでしょ!」
「いいじゃん! ほら、ベッド、これ一つしかないし、床はフローリングで固くて痛いもん。駆くんをクッション代わりにして、挟んじゃおうよ」
「……もう、お姉ちゃんには勝てないなぁ。……でもね、お姉ちゃん」
柚葉ちゃんは、脱衣所のドアをチラリと見つめ、いたずらっぽく微笑んだ。
「私も……ちょっと駆さんのこと、気になり始めてるんだよね。だから、お姉ちゃんから取っちゃったら、ごめんね?」
「えっ!? 柚葉、それ本気!?」
シャワー室から出てきた俺は、そんな「ヤバい会話」が繰り広げられていたとは露知らず、髪を拭きながら部屋へと戻った。
「あ、駆さん。お疲れさまです」
「お、おう。……って、なんで二人ともベッドに入ってるんだ?」
見ると、俺のシングルベッドの左側に莉子さんが、右側に柚葉ちゃんがしっかりと潜り込み、真ん中のスペースだけをぽっかりと空けて待っていた。
「駆くん、早くおいで! フローリングは固いから、三人でここに寝るよ!」
「いやいや、無理だろ! 狭すぎるし、男の俺が真ん中なんて――」
「駆さん、早く来てください。お姉ちゃんが暴れてうるさいので、真ん中でストッパーになってくれないと眠れません」
柚葉ちゃんまでが、少し頬を赤くしながら、布団の端をパタパタと持ち上げて俺を誘ってくる。
結局、二人の抵抗に押し切られ、俺はシングルベッドの「真ん中」という、世界で一番ヤバい特等席に仰向けで横たわることになった。
右からは、ノーブラの莉子さんの柔らかくて甘い体温が、容赦なく俺の右半身に密着してくる。
左からは、健康的な陸上部女子である柚葉ちゃんの、引き締まったけれど女性らしいしなやかな身体の温もりが、左腕をぴったりとホールドしてくる。
「ねえ、駆くん……。あのね、私、本当に駆くんに出会えてよかったって思ってるの……」
右耳のすぐ後ろから、莉子さんの吐息が直接吹きかかるような、熱くて甘い囁きが聞こえた。
「駆さん……。私、お姉ちゃんには負けたくないんです。……だから、今度は私の方も、もっとよく見てくださいね?」
左耳からは、少し照れを含んだ、けれど真っ直ぐな柚葉ちゃんの甘い囁きが響く。
左右からのダブルの熱を帯びた囁きに、俺の脳はとっくに限界を超え、心臓はドラムロールのように打ち鳴らされていた。
エアコンの冷気はしっかりと効いているはずなのに、部屋の温度は最高潮にまで高まり、俺の額からは大量の冷や汗が流れ落ちる。
もちろん、この最高に「ヤバい」熱帯夜の中で、俺が朝まで一秒たりとも眠れなかったのは、言うまでもなかった。




