第十九話:乙女たちの不穏な包囲網
「――さあ、駆くん。言い訳は聞くから、まずはじっくり教えてもらおうじゃない?」
週が明けた月曜日の放課後。
サークル棟の一角にある『現代仏教文化研究会』の部室に足を踏み入れた瞬間、俺を迎えたのは、アットホームな部室の空気とは似ても似つかない、ゾッとするほど凍てついた「冷気」だった。
パイプ椅子にドカッと腰掛け、腕を組んで俺をジト目で睨みつけているのは、後輩の佐々木ひまりだ。
そしてその隣には、すっかり体調も良くなった市川葵さんが、いつもより少しトーンの低い、じっとりとした潤んだ瞳で俺の横顔を見つめて佇んでいる。
「いや、言い訳って……。俺、何か悪いことしたっけ?」
俺はレジュメを抱えたまま、一歩後退りしながら苦笑いを浮かべた。
だが、ひまりの追及の手は緩まない。
「白々しいですよ先輩! 土曜日のこと、葵ちゃんから全部聞きましたからね! 遥さんの法律事務所で怪異が出たって言って、先輩、二人きりで夜のオフィスに乗り込んだんでしょう!?」
「いや、乗り込んだっていうか、調査に協力しただけで……」
「それだけじゃないです!」
ひまりはパイプ椅子から勢いよく立ち上がると、俺の目の前まで歩み寄ってきて、人差し指を突きつけてきた。
「狭い『二重壁』の隙間で、遥さんと何度も身体が触れ合いながらお清めをしたとか……挙句の果てには、遥さんの白いハンカチで優しくお顔の汚れを拭いてもらったとか! 葵ちゃん、それ聞いて私、部室でひっくり返りそうになりましたよ!?」
「市川さん、どこまで詳しく話したんだよ……」
俺が恨めしげな視線を向けると、葵さんは少し気まずそうに、けれど頬をぷくーっと膨らませて視線を逸らした。
「……だって、遥さん、昨日の夜にすっごく嬉しそうな声で電話してきたんです。『進藤くんが、本当に格好よくて……』って、惚気話みたいなことばっかり。私、新しく紹介してもらったお部屋で、一人で寂しく聞いてたんですよ?」
「そ、そうだったのか……」
「進藤さん……。私をお姫様抱っこで保健室に運んでくれた時もそうですけど、どうしてそうやって、次から次へと美少女をピンチから救って、メロメロにしちゃうんですか? 莉子さんの時もそうでしたし、先輩は天然のタラシなんですか!? 有罪です、完全な有罪判決です!」
「だから、俺はただ『怪しい匂い』と『不快な振動』の正体を調べて、普通にお片付けをしただけだって! 莉子さんの時も、市川さんの時も、今回も全部物理的な解決だろ!?」
必死に身の潔白を主張するが、二人の乙女の不信感に満ちた包囲網は、容易には崩れそうになかった。
オカルトサークルのはずなのに、この部屋に漂う空気はどの心霊現象よりも不穏で、俺の胃はキリキリと音を立てて痛み始めていた。
その時、部室の引き戸が、静かにガラガラと音を立てて開いた。
「あら、みなさんお揃いで。なんだか随分と賑やかね」
現れたのは、教科書を胸に抱え、いつもの大人びたトレンチコートに身を包んだ、法学部の才女・水瀬遥さんだった。
相変わらず、キャンパス内で一際目を引く端正でクールな美女。だが、彼女は俺の姿を見つけると、ふっとその知的な表情を柔らかく和らげ、周囲が息を呑むほどに美しい、温かい笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。
「進藤くん、こんにちは。……土曜日は、本当にありがとう」
「あ、遥さん。いや、こちらこそ。体調、もう大丈夫?」
「ええ、おかげさまで。昨日の夜も、あの嫌な頭痛も鎖の音も、これっぽっちもしなかったわ。お父さんもね、今朝事務所に行って、エアコンの設定温度通りに部屋が温かいって、すごく驚いていたのよ」
遥さんは嬉しそうに小首を傾げると、俺の隣にすっと寄り添った。
その瞬間、部室の温度が一瞬にして氷点下まで急降下したのを、俺の生存本能が敏感に察知した。ひまりと葵さんの視線が、針のように鋭くなっている。
「それでね、進藤くん。今日ここに来たのは、お父さんからの伝言を伝えるためなの」
「お父さんから?」
「ええ。事務所の深刻な営業妨害を解決してくれた救世主をおもてなししたいからって、今日の夜、すごく美味しいフレンチのディナーをご馳走したいんですって。ぜひ、進藤くんを連れてきてほしいって頼まれちゃったの。……今夜、空いているかしら?」
「え、お礼のディナー!? いや、俺、本当にただの配管補修をしただけだから、そんな畏まった席なんて、申し訳ないっていうか……」
「そんなこと気にしないで。お父さん、本当に感謝しているのよ」
遥さんはそこまで言うと、少し悪戯っぽく、けれどどこか熱を帯びた瞳で俺を見つめた。
「……それにね。お父さんだけじゃなくて、私も、あなたと二人で……もっとゆっくりお話ししたいし」
そう言って、遥さんは大人の色香を感じさせる流れるような動作で、俺の右腕に、そっと自分の細い腕を絡めてきた。
ふわりと漂う、あの作業の時に嗅いだ、甘い石鹸のような上品な香り。
「ひゃあぁっ!? は、遥さん! 腕を絡めるのはずるいです!!」
ひまりが我を忘れたように叫び、俺の左腕をガシッと掴んで引っ張った。
「そうですよ、遥さん! いくらなんでも抜け駆けがすぎます!」
葵さんも、普段の大人しさからは想像もつかない俊敏さで俺の前に回り込み、服の裾をぎゅっと握りしめてきた。
右からは、大人の余裕と熱い体温を感じさせる遥さんの密着。
左からは、小動物のように目をつり上げて俺を引っ張るひまりのホールド。
そして正面からは、潤んだ瞳で必死に縋ってくる葵さんの視線。
「ちょっと待ってください、遥さん!」
ひまりが俺を自分の方へ引き寄せながら、遥さんに向かって声を張る。
「先輩は今夜、私と葵ちゃんと、新居の引っ越し祝いのご飯に行く約束があるんです! だから、遥さんのお父様とのお食事は、また今度にしてください!」
「あら、そうなの? でも、進藤くんのスケジュールを決めるのは、彼本人でしょう? 私の誘いを断るかどうかは、進藤くんが決めることだわ」
遥さんは、ひまりの抵抗を涼しい顔で受け流しながら、絡めた腕の力をさらに少しだけ強めた。彼女の柔らかな胸元が、衣服を隔てて俺の二の腕に押し当てられ、俺の心拍数はとっくに限界数値を叩き出していた。
「……進藤さん。私のお祝い、一緒に来てくれないんですか……?」
葵さんが、今にも泣き出しそうな上目遣いで俺の顔を覗き込んでくる。
「あの、みんな、ちょっと落ち着いてくれ……っ!」
俺の頼りない声は、部室の中に火花を散らす、乙女たちの静かで、けれど最高に熱い「恋の包囲網」の喧騒の中に、あっさりと掻き消されていく。
「霊感は、綺麗さっぱり無い」
五年前に高名な霊能者に言い切られた言葉が、脳裏を虚しくリフレートする。
怪異を退治するような格好いい力なんてこれっぽっちもない、ただの平凡な大学生。
それなのに、どうして俺の周りの状況は、こんなにも、世界で一番「ヤバい」ことになってしまっているのだろうか。
乙女たちの視線が俺の口元に集中する中、俺は冷や汗をだくだくと流しながら、この状況からどうやって生き残るか、必死に頭を回転させ続けるのだった。




