第十八話:物理的なお清めと、隠せぬ体温
怪現象の物理的な原因を突き止めた、翌日の土曜日。
俺は朝から、自分のアパートの押し入れに眠っていた工具箱を引っ張り出し、さらにホームセンターで買い込んできた資材を抱えて、水瀬遥さんの待つ赤レンガビルへと向かっていた。
昨日、応接室であれだけの劇的な解決……というか、仮説の実証を行った後、遥さんはお父さんである水瀬弁護士に電話でことの顛末をすべて報告したそうだ。
最初は「幽霊なんてやっぱりいないじゃないか」と笑っていたお父さんも、駆のロジカルな説明と、二重壁の奥に錆びた金庫が本当に眠っているという事実に驚き、最終的には「ぜひともその男の子に、事務所の『物理的なお清め』を頼んでほしい」と快諾してくれたらしい。
「あ、進藤くん! 待ってたわ」
ビルの重厚な木製ドアを開けると、そこにはすでに遥さんが待っていた。
今日の彼女は、いつもの大人びたトレンチコートや知的なスーツ風の服装とは一転して、動きやすいグレーのパーカーに、タイトなブルーのジーンズという非常にカジュアルな姿だった。
「遥さん、その格好……」
「ふふ、今日は私もお掃除を手伝う気満々だから。昨日、進藤くんにばっかり大変な思いをさせちゃったしね。……どうかしら、変じゃない?」
遥さんは少し照れくさそうに、自分のパーカーの裾を引っ張りながら小首を傾げた。
タイトなジーンズは彼女の驚くほど細くて長い脚のラインを強調していて、ラフなパーカー越しでもスタイリッシュさが隠しきれていない。普段の「高嶺の花」感が少し薄れて、年相応の女の子らしい可愛らしさが全面に出ていた。
「いや、すごく似合ってるよ。むしろ、作業してもらうのが申し訳ないくらいで……」
「そんなこと気にしないで。さあ、応接室に行きましょう。お父さんから『事務所の備品や工具は好きに使っていい』って言われているから」
俺たちは応接室へと移動した。
昼間の応接室は、昨日の夜のあの凍りつくような不気味さが嘘のように、窓から柔らかな秋の光が差し込んでいた。だが、点検口のフタのあたりからは、まだかすかに冷たい空気と、あの饐えたような水の匂いが漂ってきている。
「よし、じゃあ『お清め(物理)』を始めるよ」
俺はジャージの袖をまくり、工具箱から資材を取り出した。
準備したのは、強力なゴム製の防振粘着テープ、金属用の防水補修パテ、そして大量のサビ止め潤滑スプレーだ。
「遥さん、まずは二重壁の奥に入って、あの排水管の補修からやるから、ライトを持ってきてくれる?」
「ええ、分かったわ。……これね。はい、進藤くん」
遥さんからスマホのライトを受け取り、俺はパキラの鉢植えをずらして、プラスチック製の点検口のフタを外した。
奥からひんやりとした風が吹き抜けるが、原因が分かっている今、恐怖は微塵もない。
俺は狭い点検口から、ずるりと上半身を潜り込ませた。
三十センチほどの隙間は、男の俺の体格だとかなり窮屈だ。
「進藤くん、大丈夫……? かなり狭そうだけど」
点検口の外から、遥さんの心配そうな声が響く。
「大丈夫、ちょっと身動きが取りづらいだけだから。……遥さん、悪いんだけど、そこにある防振テープとハサミを手渡してくれる?」
「ええ、待ってね。……はい、これを点検口の中に差し入れるわよ」
遥さんが点検口の中に腕を伸ばし、テープを渡してくれた。
その際、狭い空間での作業のため、どうしても彼女の指先や腕が、俺の肩や背中に何度も触れ合うことになる。
「あ、ごめんなさい! 触っちゃった……」
「いや、全然気にしてないから大丈夫。むしろ、狭くてやりづらいよね」
「ううん……。でも、こんなに近くだと、なんだか少し……緊張しちゃうわね」
外からの遥さんの声が、どこか少し上ずっているように聞こえた。
点検口の狭い密室の中に、彼女が動くたびにふわりと漂う、あの甘い石鹸のような香りが充満していく。俺の心臓は、作業の息苦しさとは全く別の理由で、勝手にドクドクとスピードを上げていった。
(ヤバい……意識しちゃダメだ。今は作業に集中しないと)
俺は心の中で自分を落ち着かせ、スマホのライトで古い排水管を照らし出した。
「よし、まずはこの排水管に防振テープを巻くよ。外からの振動がこの管を揺らして、金庫の鎖に伝わっていたからね」
俺は古い鉄製の配管に、強力な防振粘着テープを何重にも、隙間なく巻き付けていった。これで、外を通る大型車の地鳴りが伝わっても、配管自体が激しく共振することはなくなるはずだ。
「次はパテを塗るから、そこにある金属用の補修パテをくれる?」
「はい、これね。……がんばって、進藤くん」
手渡されたパテを、配管の経年劣化による小さな亀裂や穴に、これでもかと大量に塗り込んで塞いでいく。
これで、ビール瓶の口を吹いた時の原理で「ヒューヒュー」と鳴っていた風切り音――あの不気味な「男のすすり泣き」の正体は、完全に沈黙することになる。
「よし、これで配管はオッケー。次は、あの巨大金庫だ」
俺はさらに奥へと体を滑り込ませ、錆び朽ちた大金庫の前に這い寄った。
昨日、俺たちを恐怖のどん底に陥れた太い鎖。
「サビ止めスプレーを、金庫の鎖と、南京錠の隙間全体に噴射する。錆びて長年放置されて緩んでいたから、ガタガタと大きな音が鳴っていたんだ。スプレーの油分で金属同士の摩擦とガタツキを極限まで抑えるよ」
シューッ、というスプレーの音が、狭い壁の中に響き渡る。ツンとした油の匂いが広がった。
鎖の隙間、そして金庫の扉の錆びついた蝶番に、これでもかと大量の潤滑油を流し込んでいく。
「最後に……金庫の底の水を吸い取る。遥さん、バケツと、そこの吸水スポンジを」
「ええ、はい! これね。気をつけてね、進藤くん」
遥さんから渡されたスポンジを使い、金庫の底を濡らしていた赤黒い泥水の水たまりを、何度も何度も吸い取ってはバケツへと絞り落とした。
濁った水がバケツにポタポタと溜まっていく。
これで、湿気の元を完全に断ち切った。
「よし……これで『お清め』は全部完了だ!」
俺は点検口から、ずるずると這い出すようにして応接室の床へと戻ってきた。
ジャージの膝や袖には、埃やスプレーの汚れが少しついてしまっている。
「ふぅ……。疲れたけど、これで完璧だよ、遥さん」
「本当にお疲れさま、進藤くん。……あ、ちょっと待って」
遥さんが、自分のポケットから取り出したお洒落な白いハンカチを手に、俺の方へと一歩歩み寄ってきた。
「え? 何……?」
「顔に、ちょっとススがついているわよ。じっとしていて」
「あ、いや、汚いから自分で――」
「いいから、じっとしていて」
遥さんは少し強めのトーンで言うと、俺の目の前にすっと顔を近づけてきた。
彼女の端正で整った顔立ちが、これ以上ないほどの至近距離にある。
彼女が右手を伸ばし、俺の頬についた汚れを、白いハンカチで優しく、トントンと丁寧な手つきで拭い始めた。
彼女の指先から、ハンカチ越しに伝わる柔らかな体温。
そして、彼女の甘い石鹸の香りと、お気に入りの香水のような上品な匂いが、俺の鼻腔をくすぐる。
近すぎる。近すぎて、彼女の切れ長で美しい瞳の奥に、自分の緊張しきった顔が映り込んでいるのがはっきりと見えた。
「……あ、ありがとう、遥さん」
俺が掠れた声でお礼を言うと、遥さんはふっとハンカチを引っ込め、少し照れくさそうに視線を彷徨わせた。
そして、自分の胸元のパーカーをぎゅっと握りしめながら、小さな声でぽつりと呟いた。
「私ね、大学で法律という『論理の塊』を勉強しているから……世の中のすべての物事は、理屈で割り切れて、証明できるものだって思って生きてきたの」
彼女は、まっすぐに俺を見つめてきた。
その瞳の奥には、昨日までの「恐怖」や「怯え」は微塵もなく、別の、熱くて激しい感情がトクンと高鳴り始めているのが分かった。
「でも、お父さんの事務所で起きたあの音は……どうしても私の理屈じゃ割り切れなくて、昨日の夜は本当に、本気で怖かったの」
彼女の声が、かすかに震える。
「それを……進藤くんは、あんなに冷静に、あんなに格好よく、すべての謎を解き明かして……こうして、身体を張って私を救ってくれた」
「いや、俺はただ『怪しい匂い』と『嫌な振動』に気づいて、お片付けをしただけだよ。莉子さんや葵さんの時と同じさ」
「ううん、違うわ。……少なくとも、私にとっては、進藤くんは……」
遥さんはそこまで言うと、それ以上言葉を続けるのが恥ずかしすぎるのか、ギュッと唇を噛み締め、さらに真っ赤になった顔を背けてしまった。
理性的で知的な法学部の才女が、いま、俺の目の前で、不器用極まりない「乙女の顔」をして佇んでいる。
二人の間に、不自然なほどに静かで、けれど最高に熱を帯びた「別の甘い空気」が、立ち上り始めていた。




