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第十七話:大金庫の『呪い』と、超低周波の罠

「な、何なの……あれ……。なんで、壁の中に、あんな恐ろしい金庫が隠されているの……?」


点検口の奥、スマートフォンの白いライトに照らし出されたその異様な光景を見て、遥さんは完全に怯えきっていた。

細い両腕で、俺の右の二の腕をぎゅっと力任せに抱きしめてくる。彼女の豊かな胸元が、衣服を隔てて俺の腕にぴったりと押し当てられているが、今の俺にはその感触を脳内で反芻はんすうしている余裕などこれっぽっちもなかった。


「……落ち着いて、水瀬さん。怪異が飛び出してくるわけじゃないから。まずは、深呼吸だ」


「は、はい……。すー、はー……っ。でも、あんなに太い鎖が巻き付けられて、南京錠までかかっていて……。あの中に、何か恐ろしい怨霊とかが、閉じ込められているんじゃないかしら……っ?」


遥さんの声は今にも泣き出しそうだ。普段のキャンパスで見せる理知的な表情はどこへやら、想像力が完全に恐怖の方向へと暴走してしまっている。


俺はスマホの光を大金庫の周囲、特にその床付近へと向けた。

金庫の底を濡らしているのは、泥のようなものが混じった、赤黒く濁った水たまり。そして俺の耳の奥を、キリキリと不快に震わせ続けている、あの電気ノイズのような不気味な超低音。


(……待てよ。この重低音と、この濁った水。それから、さっき聞こえたあの男の泣き声と、鎖の引きずる音……)


バラバラに散らばっていた情報が、俺の頭の中で、パズルのピースのようにはまり込んでいく。


「ねえ、水瀬さん。ちょっと聞きたいんだけど」


「な、何……? こんな時に、何を聞くの……?」


「このビル、大正時代に建てられたって言ってたよね。リフォームする前、ここが何の建物だったか、お父さんから詳しく聞いてない?」


「建物の歴史……? ええと……」

遥さんは俺の腕にしがみついたまま、恐怖に震えながらも、必死に記憶を呼び起こそうと視線を彷徨わせた。

「……確か、父が言っていたわ。ここはもともと、大正から昭和の初期にかけて、この地域で手広くお金を貸していた、大きな地主さんの『質屋』だったって。その質屋が廃業した後、何度か所有者が変わって、最終的に父がビルごと買い取って事務所にしたのよ」


「やっぱりか……! 質屋、大正時代……。すべてが繋がったよ」


「えっ……? どういうこと、進藤くん?」


俺はスマホのライトをさらに奥へと潜り込ませ、金庫の右側、コンクリートの壁とレンガの隙間に通っている古い配管を照らし出した。


「見て。あの金庫の後ろに通っている、錆び付いてボロボロになった鉄製の配管。あれ、昔の排水管だよ。そしてそのすぐ上にあるのが、天井の奥からじわりと雨水を漏らしている、古い雨水管だ」


「雨水……? だから、金庫の下が水浸しになっているのね。でも、それが鎖の音や、男の人の泣き声とどう関係あるの……?」


「今から、実演してみせるよ」


俺がそう言った、まさにその瞬間だった。


応接室の外、大通りからゴゴゴゴ……という、大型トラックか何かが通り過ぎるような重苦しいロードノイズが、微かな地鳴りとなってビルの床を伝ってきた。


次の瞬間、点検口の奥から、あの音が響いた。


――ガラ、ガラガラ、じゃり……。


「ひゃうっ!?」


遥さんが小さな悲鳴を上げて俺の背中に顔を伏せる。だが、俺はスマホを点検口の中に突っ込み、その様子を冷静に見つめていた。


「水瀬さん、よく見て。南京錠のところを」


「え……?」

遥さんがおそるおそる、俺の肩越しに点検口の奥を覗き込む。


スマホのライトの先で、大金庫に巻き付けられた太い鉄の鎖が、外部からの地鳴りを受けて、排水管と共にカタカタと小刻みに振動していた。


「あ……。鎖が、揺れてる……?」


「そう。外を通る大型トラックや、近くの地下を通っている地下鉄の振動が、地盤を伝ってこのビルに届いているんだ。そして、二重壁の奥にある『古い鉄製の排水管』が、その特定の振動と『共振』を起こしている。排水管がガタガタと激しく揺れることで、すぐ隣に接触している大金庫の『錆びて、長年放置されて緩んだ太い鉄の鎖』を激しく揺らしていたんだよ。それが、狭い二重壁の隙間という、完璧な『反響空間(共鳴腔)』の中で音が極限まで増幅されて、応接室の中に『リアルに鎖を引きずる音』として響き渡っていたんだ」


「共振……。じゃあ、あの鎖の音は、幽霊が這いずり回っている音じゃなくて……ただの物理的な、配管の振動だったの……?」

遥さんの目から、少しずつパニックの光が消え、いつもの論理的な思考回路が戻り始めているのが分かった。


「そう。そして、男のすすり泣きのような呟き。あれも同じだよ」


「え……? あれも、幽霊じゃないの? だって、確かに男の人がシクシク泣いているような声が聞こえたわよ……?」


「あれは、排水管の中を通る、ただの『風切り音』だ。雨水が流れ込む配管のどこかに、経年劣化で小さな亀裂か穴が開いている。そこに外からの風が吹き込むと、ビール瓶の口を吹いた時と同じように、ヒューヒュー、あるいはヒタヒタという音が鳴るんだ。それが、この細くて狭い二重壁の中で反響することで、人間の耳には、まるで誰かがブツブツと何事かを呟きながら泣いている、低い声に聴こえてしまう。人間は、ランダムな音の中から『人間の声』を無意識に抽出しようとする本能(パレイドリア効果)があるからね」


「風切り、音……。そんな、まさか……。でも、あの不気味な『冷気』と、部屋に入った瞬間に襲ってきた激しい『頭痛』は、どう説明するのよ? エアコンを暖房にしていても、息が白くなるほど冷え込んだのよ……っ?」


遥さんはまだ納得がいかない様子で、すがるように俺の顔を見上げてくる。その整った顔立ちが、これ以上ないほどの至近距離にあり、彼女の甘い石鹸のような香りが、錆びた異臭に混ざって俺の鼻腔をくすぐった。


俺は、自分の仮説の最も重要な核心部分を口にした。


「水瀬さん。君が感じた激しい頭痛と圧迫感、そして理由のない強い恐怖感。それこそが、この怪現象の真の正体だよ。……これらはすべて、配管の共振と、二重壁による反響によって生み出されていた、周波数が $20 \text{ Hz}$ 以下の『超低周波音インフラサウンド』が原因だ」


「超低周波、音……?」

法学部の遥さんにとって、それは完全に専門外の物理用語だった。


「そう。人間の耳には、音としてはほとんど聞こえない、極めて低い周波数の音波だ。でもね、この $20 \text{ Hz}$ 以下の低周波音は、人間の眼球や内耳、そして脳の組織と物理的に共振してしまうことが科学的に立証されている。直接脳を揺さぶられるから、激しい偏頭痛や、三半規管の異常による目まい、吐き気が引き起こされる。さらに、超低周波音を浴び続けると、自律神経が著しく乱れて、心拍数が急上昇し、理由のない強い『焦燥感』や『恐怖感』、呼吸困難、ひどい時には『幻覚』や『幻聴』まで誘発されることが、海外の心理学や音響学の実験でも証明されているんだよ」


俺は一息つき、点検口から吹き込んでくる、冷たい風に視線を向けた。


「エアコンをつけていても急激に部屋の温度が下がったように感じたのは、この超低周波音による自律神経のバグと血流の低下――いわゆる、脳が勘違いして起こした冷えだ。それに、点検口のフタのわずかな隙間から、二重壁の内部に何十年も溜まっていた『本物の冷たい湿気』が気圧の変化で部屋の中に吹き出してきたのも、物理的な要因として大きい。……どうかな、これですべての辻褄が合うはずだ」


霊感ゼロの俺の生存本能が、この部屋に入った瞬間に激しいアラートを鳴らしていた理由。

それは、霊的な呪いや悪霊に怯えていたからではない。俺の体が、人間の体に有害な『超低周波音』の直撃を受け、本能的に「この場所はヤバい、早く逃げろ」と脳に叫び続けていただけだったのだ。


「すべての怪現象には、ちゃんと物理的な理由がある。お祓いなんてしなくても、ただ排水管の振動を抑えて、隙間を完璧に密閉すれば、この怪奇現象は綺麗さっぱり解決するよ」


俺がそう言って、少し得意げに微笑むと、遥さんは呆然としたように口を開けて俺の顔を見つめていた。

やがて、彼女の細い肩からすーっと力が抜け、張り詰めていた恐怖が、霧が晴れるように霧散していくのが分かった。


「……じゃあ、私は……ただの古いビルの配管トラブルと、お父さんが残した錆びた金庫のせいで……あんなに本気で、幽霊が出たって怯えて、夜も眠れなくなっていたの……?」


「誰もがそうなるよ。超低周波音は『恐怖を人為的に作り出す音』と言われているくらいだし、暗闇の中でこんな太い鎖に縛られた大金庫を見せられたら、誰だって呪いだお化けだって思うさ」


俺は点検口のフタを静かに閉め、彼女の二の腕に、そっと安心させるように掌を置いた。


「原因さえ分かれば、もう怖がる必要は一切ない。水瀬さん、もう大丈夫だよ」


「あ……」


遥さんはハッとしたように、自分の二の腕に触れる俺の手を見つめた。

そして、自分が今、どれだけ駆に密着し、全身を預けるようにしてしがみついていたのかを、ようやく自覚したらしい。


彼女の白い頬が、秋の夕日のような、鮮やかで美しい赤色にみるみるうちに染まっていく。


「あ、あの……ごめんなさい。私、取り乱しちゃって、ずっと進藤くんに……こんなに、くっついちゃってて……っ」


「あ、いや! 俺の方こそ、どさくさに紛れて触っちゃってごめん!」


慌ててお互いに距離を取る。

だが、応接室の冷たい空気の中に、先ほどまでは存在しなかった、熱を帯びた「別の甘い空気」が、不自然なほどに静かに立ち上り始めていた。


「……進藤くん」


遥さんは自分のパーカーの胸元をぎゅっと握りしめ、少し上目遣いで、まっすぐに俺を見つめてきた。その瞳の奥には、恐怖とは全く異なる、熱く、激しい鼓動が、トクンと高鳴り始めているのが見て取れた。


「私ね、法律という『論理の塊』を勉強しているから、世の中のすべての物事は理屈で証明できるものだって思って生きてきたの。でも、昨日の夜のあの恐怖は、自分の理屈じゃどうしても割り切れなくて……本当に怖かった」


彼女の声が、微かに震える。


「それを……進藤くんは、あんなに冷静に、あんなに格好よく、全部の謎を解き明かして……私を救ってくれた」


「いや、俺はただ『怪しい匂い』と『嫌な振動』に気づいただけだよ。莉子さんや葵さんの時と同じさ」


「ううん、違うわ。……少なくとも、私にとっては、進藤くんは……」


遥さんはそこまで言うと、それ以上言葉を続けるのが恥ずかしすぎるのか、ギュッと唇を噛み締め、さらに真っ赤になった顔を背けてしまった。


理性的で知的な法学部の才女が、いま、俺の目の前で、不器用極まりない「乙女の顔」をして佇んでいる。

そのギャップの破壊力は、オカルト的な怪異よりもはるかに凄まじく、俺の理性を激しく揺さぶるのだった。

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