第十六話:二重壁の奥、這い寄る悪寒
「し、進藤くん……進藤くん……っ! やっぱりおかしいわ、ここ。何かが、何かが絶対に壁の向こうにいるのよ……っ!」
俺の背中にピッタリと張り付き、震える声で訴えかけてくる遥さん。
普段、大学のキャンパスで見せる、法学部の知的なマドンナとしてのクールな面影はどこへやら、今や恐怖で完全にパニック寸前だ。
俺のパーカーの裾をぎゅっと力任せに握りしめる細い指先は、目に見えて小刻みにガタガタと震えている。背中に押し当てられた彼女の豊かな胸元の柔らかさと、早鐘のように打ち鳴らされる激しい心臓の鼓動が、衣服越しにダイレクトに伝わってきた。
(ヤバい、めちゃくちゃ心臓に悪い……! でも、ここで俺まで動揺したらおしまいだ)
男としての理性が別の意味で悲鳴を上げそうになるのを、俺は必死に押し殺した。
深く息を吸い込み、冷たくなった応接室の空気を肺に満たす。吐き出した息が、白い霧となって目の前の暗がりに漂った。エアコンは確かに暖房設定で稼働しているはずなのに、この部屋を支配する冷気は、まるで冬の発掘現場のように芯から凍えるものだった。
「水瀬さん。落ち着いて。大丈夫、俺がついてるから。まずはゆっくり深呼吸して」
「う、うん……。は、はー……っ、ふぅ……。でも、本当に怖いの。あの音……じゃり、じゃりって、何かをズルズル引きずっているような、冷たい音が……」
――じゃり、じゃり、ガララ……。
まるで見せつけるかのように、北側の壁の向こうから、重い金属同士がコンクリートの上を激しく擦れ合うような、あの嫌にリアルな音が再び響き渡った。
「ひゃうんっ!?」
遥さんが短い悲鳴を上げて、さらに俺の背中に顔を強く押し当ててくる。彼女の甘い石鹸のような香りと、この部屋に漂う不気味な錆びた匂いが混ざり合い、脳がクラクラとした。
だが、恐怖の音に混じって聞こえてくる、あの低くてかすれた「男のすすり泣き」のような呟き。これがただの霊的な現象なのか、それとも物理的なものなのか、俺は見極めなければならなかった。
「水瀬さん。ちょっとだけ離れても大丈夫? その音のする壁に近づいて調べてみたいんだ」
「えっ……!? い、嫌よ、行かないで! 私を一人にしないで……!」
「離れるのが怖かったら、俺の服を掴んだままでいい。俺の後ろについてきて。一緒にゆっくり歩こう」
「……う、うん。分かったわ。絶対に、急に動いたりしないでね?」
「ああ、約束するよ」
俺は遥さんを背後に庇ったまま、一歩一歩、慎重に音の発生源である北側の壁へと歩みを進めた。
一歩進むたびに、足の裏からゾワゾワとした嫌な寒気が這い上がってくる。頭の奥をキリキリと締め付けるようなあの『重低音』――耳鳴りにも似た微弱な振動が、壁に近づくにつれてより一層強くなっていくのが分かった。
壁の手前、あと数十センチというところで俺は足を止めた。
部屋の照明はついているが、この壁の周囲だけ、まるで光が吸い込まれているかのようにどんよりと暗い。
「水瀬さん。この壁、ちょっと触ってみてもいいかな?」
「え、ええ……。気をつけてね」
俺はゆっくりと右手を伸ばし、北側の美しい白い壁紙に手のひらを当てた。
(……冷たい。まるで氷に直接触れているみたいだ)
そして、人差し指の関節を曲げ、コンコン、と軽く壁を叩いてみる。
――コン、コン。
返ってきたのは、中身が詰まったコンクリートや赤レンガの壁とは思えない、妙に軽くて高い、空洞を思わせる音だった。
「……やっぱりか。水瀬さん、ちょっと聞きたいんだけど」
「な、何……? 何か分かったの?」
「このビルの北側の壁って、リフォームの時に何か新しく手を加えたりした? お父さんから、工事について何か聞いてないかな」
遥さんは俺の背中越しに少し首を傾げ、記憶を整理するように小さく「ええと……」と呟いた。
「そういえば……父が言っていたわ。このビルを事務所にするためにリフォームした時、古い建物だから冬場の結露や湿気が酷くて、特に日が当たらない北側の壁の痛みが激しかったって。だから、北側の壁の内側にもう一枚、新しく断熱と防音用の壁を作って、二重構造にしたって……」
「二重構造……『二重壁』か。確信したよ」
俺は壁をもう一度叩いた。
「つまり、この新しくて綺麗な壁紙のすぐ奥には、十数センチから数十センチの『隠された隙間』が存在しているんだ。そしてそのさらに奥に、大正時代からそのまま残されている『本物の外壁(赤レンガ)』がある」
「二重壁の……隙間……」
遥さんは驚いたように目を見開いた。
「じゃあ、あの重苦しい鎖の引きずる音や、男の人の泣き声は……その、壁の中の『狭い隙間』から聞こえているっていうこと……?」
「その可能性が一番高い。それと、水瀬さん。鼻をよく澄ませてみて。この部屋に漂っている、ツンとした古い鉄サビの臭い……これ以外に、何か泥のように饐えた、冷たい『水の匂い』が混じっている気がしないか?」
「え……? 水の匂い……? 言われてみれば、なんだか古い井戸の底みたいな、ジメジメした嫌な匂いがするかも……。リフォームしたばかりの部屋なのに、どうして……?」
「この二重壁の奥で、何かが起きているんだ。それを確認するための『点検口』が、必ずこの部屋のどこかにあるはずだよ」
俺は部屋の四隅に視線を走らせた。二重壁の内部をメンテナンスしたり、配管を確認したりするための、小さなフタや扉があるはずだ。
だが、一見すると美しい応接室の壁には、それらしきものは見当たらない。
「おかしいな、点検口がないはずはないんだけど……」
「進藤くん、あそこは……? 応接室の隅にある、あの大きな観葉植物の後ろ……」
遥さんが、俺の腕を掴んだまま、部屋の北西の隅に置かれた立派なパキラの鉢植えを指さした。
大きな陶器の鉢に植えられたパキラは、生い茂る緑の葉で、壁の低い位置を完全に覆い隠している。
「よし、行ってみよう」
俺たちは鉢植えの前まで移動した。
しゃがみ込み、生い茂る葉をそっと手でかき分けて、鉢植えの影にある壁を覗き込む。
するとそこには、壁紙と同系色のプラスチックでできた、一辺が三十センチほどの真新しい正方形のフタが、壁に埋め込まれるようにして設置されていた。
「あった……。ここだ」
「それが、点検口……?」
遥さんの声が緊張で上ずった。
「ああ。ここを開ければ、二重壁の内部……あの音が鳴り響いている『隙間』の中がどうなっているか、はっきり分かるはずだ」
俺は点検口のフタに指をかけた。
だが、遥さんは恐怖に耐えかねたように、俺の肩をぎゅっと掴んで引き止めた。
「待って、進藤くん……っ! 本当に開けるの……? 嫌よ、もし、もし開けた瞬間に、壁の奥から何かが這い出てきたら……! 鎖に繋がれた、何か恐ろしい化け物が飛び出してきたら、どうするの……っ!?」
お化けや怪現象を一切信じないはずの現実主義の彼女が、今や本気でオカルト的な恐怖に怯えている。その必死な表情が、たまらなく愛らしく、そして守ってあげたいという気持ちを激しく刺激した。
「大丈夫だよ、水瀬さん。何かが飛び出してきたら、俺が全力で前に立って水瀬さんを守る。絶対に傷つけさせないから」
俺がまっすぐ彼女の瞳を見つめてそう言うと、遥さんは驚いたように息を呑み、白い頬を一瞬にしてポッと赤く染めた。
「し、進藤くん……」
「だから、水瀬さんにお願いがあるんだ。俺が両手でフタを開けるから、水瀬さんはスマホを取り出して、ライトを準備してほしい。フタが開いた瞬間、奥を照らしてほしいんだ。できる?」
「……うん。分かったわ。不甲斐ないところを見せてごめんなさい。私、ライトを照らすから……!」
遥さんは震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、ライト機能をオンにした。鋭い白い光が、薄暗い足元を照らし出す。
「よし、開けるよ。……三、二、一……」
俺は点検口のプラスチック製のフタを掴み、一気に手前に引き抜いた。
ごとり、と無機質な音を立ててフタが外れた、まさにその瞬間だった。
「――っ!? う、頭が……っ!」
点検口の奥から、応接室に満ちていた冷気とは比較にならないほどの、文字通り「脳の芯まで凍りつくような不気味な冷風」が、強烈な鉄サビの異臭と共に、俺たちの顔へと一気に吹き付けてきたのだ。
それと同時に、気圧が急激に変化したかのように、キィィィンという激しい耳鳴りと、頭を鈍器で殴られたような強烈な圧迫感が俺の脳を襲った。あまりの苦しさに、一瞬目まいがして視界が歪む。
「きゃあああっ!? つ、冷たい……っ! なにこれ、臭いも……うっ……!」
遥さんが思わず鼻を覆って俺の背中に顔を伏せる。
だが、ここで怯むわけにはいかない。俺は歯を食いしばり、遥さんのスマホのライトを奪うようにして手に取ると、その白い光を、点検口の向こうに広がる暗闇の奥へと差し向けた。
二重壁の間の、幅わずか三十センチほどの、閉ざされた狭い暗闇。
埃が舞い散る光の筋の先。
そこに隠されていた『何か』をライトが捉えた瞬間、俺は全身の血が凍りつくような衝撃を覚え、思わず息を呑んだ。
「……なんだ、これは……!?」
そこには、大正時代の古い赤レンガの壁に半ばめり込むようにして置かれた、薄汚れて赤黒く錆び付き、塗装の剥げ落ちた、巨大な『金属製の大金庫』が鎮座していた。
大金庫の表面には、人間の腕ほどもある太い鉄の鎖が幾重にも巻き付けられ、錆び付いた南京錠でこれでもかと固く施錠されている。
そして、その大金庫の底部分は、天井の奥からじわりと染み出してきているのか、不気味に赤黒く濁った泥水の水たまりの中に、ドロリと深く浸かっていた。
暗闇の奥で静かに錆び朽ちる、巨大な大金庫。
そのぬめりとした赤黒い鉄の表面から、まるで何十年間も蓄積されてきた怨念のような、圧倒的なプレッシャーが、這い寄る冷気と共に俺たちに向かって押し寄せてくる。
(なぜ、こんな綺麗な法律事務所の壁の裏に……こんな不気味な金庫が隠されているんだ……!?)
その異様な光景を前に、俺の額から、凍りつくような冷や汗が、一筋、静かに流れ落ちた。




