第十五話:夜の法律事務所と、鎖の鳴る闇
金曜日の午後七時。
すでに太陽は完全に西の空へと没し、十月終わりの京都の街は、急速に冷え込む深い夜の帳に包まれていた。
俺は水瀬遥さんと大学の裏手で合流し、彼女の案内で、問題の古い赤レンガビルへと向かって並んで歩いていた。
「進藤くん、本当にごめんなさいね。金曜日の、こんな夜遅い時間に付き合わせちゃって」
少し厚手のトレンチコートを羽織った遥さんが、申し訳なさそうに俺の顔を覗き込んできた。いつものキャンパスで見せる凛とした表情とは違い、その表情には隠しきれない緊張が滲んでいる。
「いや、気にしないで。サークルの用事もないし、それに困っている水瀬さんを放っておけないからね。市川さんの時だって、水瀬さんのお父さんに助けてもらったんだし、俺にできることなら何でもするよ」
「……ありがとう。そう言ってもらえると、少しだけ心が軽くなるわ」
遥さんは小さく息を吐き、自分の腕をそっとさすった。
「実はね、父は今日、東京への出張が入っていて。だから今夜、あのアパート――じゃなくて、あの事務所のビルにいるのは、私たち二人だけなの」
「二人だけ、か。……まあ、調査する分には人が少ない方がやりやすいよ。でも、お父さんはその音について、本当にただの風の音だって言ってるの?」
「ええ、そうなのよ。昔からそういう現実的な人だから、オカルトや幽霊なんて、絶対にあり得ないって。でも、実際にその音を聞いた事務員さんは怯えて辞めそうになっているし、私も……本当に、背筋が凍るような思いをしたの。だから、どうしても今日、あなたに確かめてほしくて」
話をしながら大通りから細い路地へと入ると、周囲の騒がしさが一気に遠のいた。
街灯の光がぽつぽつと照らす暗がりの奥に、目的の赤レンガビルが姿を現した。
大正時代に建てられたというその建物は、歴史を感じさせる美しい洋館風の外観だが、夜の闇に浮かび上がるその姿は、お洒落というよりも、どこか周囲の空間から拒絶されているような、静謐で重苦しい雰囲気を漂わせていた。
「ここよ。……入りましょうか」
遥さんがバッグから鍵を取り出し、ビルの重厚な木製ドアの鍵穴に差し込んだ。カチャリ、と無機質な金属音が静まり返った路地に響く。
ゆっくりと押し開けられたドアの隙間から、ビルの内部の空気が漏れ出してきた。
(――っ!?)
俺は一歩を踏み出そうとした瞬間、思わずその場に立ちすくみそうになった。
莉子さんのあの地獄のような部屋で感じた、全身の毛穴が収縮するほどの狂気的な「呪いの冷気」ではない。
だが、このエントランスロビーを支配している空気は、明らかに普通ではなかった。
頭を上から見えない力でぐっと押し潰されるような、嫌に重い圧迫感。
そして、かすかに鼻腔を刺激する、古い鉄が錆び朽ちてボロボロになったような、鉄サビ特有のツンとした不快な匂い。
「進藤くん……? どうしたの? 急に立ち止まって……」
遥さんが不安そうに俺の顔を見つめてくる。
「あ、いや。ちょっと……空気が重いなと思って」
「やっぱり、そうよね? リフォームして壁紙も新しくしたはずなのに、どうしてか夜になると、このビルに入った瞬間から胸が苦しくなるような息苦しさを感じるのよ」
「気のせいじゃないよ。……行こうか」
「うん……」
遥さんは少し怯えたように、自然と俺のすぐ隣、肩が触れ合うほどの距離に寄り添ってきた。
彼女が廊下の壁にある電気スイッチを入れる。パチ、パチ、と白い蛍光灯の光が等間隔に廊下を照らし出したが、その光さえも、このビルの奥深くに溜まった本質的な暗闇を完全に払い去ることはできないように見えた。
靴音をコツコツと響かせながら、俺たちは廊下の突き当たりにある、問題の『応接室』の前へとたどり着いた。
「ここが、応接室よ……」
遥さんの声が、さらに小さくなる。
彼女が木製のドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた。
部屋の中は、高級感のある革張りのソファーと、重厚な木製のローテーブルが整然と配置されていた。一見すれば、ごく普通の、むしろ信頼できそうな立派な法律事務所の応接室だ。
だが、俺は部屋の中心に立った瞬間、足の裏からゾワゾワと這い上がってくるような不快な寒気に襲われた。
「まだ……音はしないわね」
「水瀬さん。ちょっと、耳をすませてみて」
「え……?」
俺がそう囁くと、遥さんはごくりと唾を飲み込み、周囲の静寂に意識を向けた。
――ジィィ、ジィィ、ジィィ……。
それは、耳鳴りのようでもあり、電気製品が発するノイズのようでもあった。
だが、その音は極めて低く、ほとんど音として認識できないレベルの『重低音』だった。部屋の床や、四隅の壁全体から、微弱な振動となって俺たちの体を揺さぶってくる。
気にし始めると、頭の奥が締め付けられるようにズキズキと痛み、軽い目まいと吐き気が襲ってくるのが分かった。
「進藤くん……なんか、頭痛が……。それに、急に体が重くなって……」
「水瀬さん、無理に音を聞こうとしなくていい。目まいがしたら、すぐにソファーに座って」
「う、うん……でも、怖いから、進藤くんのそばにいるわ……」
遥さんが俺のパーカーの袖を、細い指先でぎゅっと握りしめてきた。
彼女の体温が伝わってくる。だが、それを楽しむ余裕は一瞬で消え去った。
その瞬間だった。
――ガラ、ガラガラ、じゃり……。
不意に、部屋の北側の壁の向こうから、金属同士が激しく擦れ合い、重い鎖をコンクリートの床の上でズルズルと引きずり回すような、生々しく重苦しい音が響き渡った。
「――っ、きゃあああっ!?」
遥さんが短い悲鳴を上げ、とっさに俺の背中へと回り込んだ。
そして、俺の腰のあたりに両腕を回し、まるで子供が親にすがるように、全力で俺の背中にその顔を押し当ててきた。
「ひゃう、う、嘘……っ! 本当に出たわ、どうしよう、進藤くん……!」
「水瀬さん、落ち着いて……っ!」
彼女の豊かな胸元が俺の背中にピッタリと押し当てられ、その激しい心拍の鼓動がダイレクトに伝わってくる。
だが、俺の意識を引き裂いたのは、それと同時に発生した「異常な事態」だった。
エアコンは暖房設定で稼働しているはずなのに、応接室の温度が信じられないスピードで急降下していくのが肌で分かった。自分の吐き出す息が、白い霧となって目の前に漂い始める。
それだけではない。
――じゃり、じゃり……う、うう……。
さらに、金属の引きずる音に混じって、低くてかすれた、男の細い泣き声のような不気味な呟きが、壁の奥から漏れ聞こえてきたのだ。
暗闇と、凍てつくような冷気。
そして、壁の向こうから響く、呪わしい金属の音と男のすすり泣き。
恐怖のあまり、遥さんの細い指先が、俺の服を掴んだまま小刻みに震えているのが背中越しに伝わってきた。
「進藤くん、進藤くん……っ、どうしよう、やっぱりここ、呪われてるわ……! 私、もう足が動かない……っ」
彼女の潤んだ瞳が、俺の背後からすがるように向けられている。
(この冷気と、頭痛、そして鎖の音……本当に、ただの物理現象なのか……!?)
霊感ゼロのはずの俺の額に、凍りつくような冷や汗が、一筋、静かに流れ落ちた。




