第十四話:法学部の才女からの、凍える依頼
水瀬遥編書いてみました
十月も終盤に差し掛かると、京都の街は急速に秋の深まりを見せる。夕暮れ時の風は薄手のシャツを通していっそう冷たく感じられるようになり、街路樹の葉がカサカサと音を立ててアスファルトを転がっていく。
そんなある日の講義の合間。俺はスマートフォンの画面を眺めたまま、廊下の隅で深いため息をついていた。
画面に表示されているのは、ここ数日で劇的に変化したメッセージアプリ『ルイン』のトーク履歴だ。
『先輩! 今日の放課後って空いてますか? 葵ちゃんが「新しいお部屋の候補を駆先輩にも見てほしいな」って言ってるんです! 私もついていきますから、三人でまたお部屋デート(?)しましょう!』(佐々木ひまり)
『進藤さん、こんにちは。昨日は素敵なお礼の品をありがとうございました。……あの、もしよければなんですけど、今度の週末、私の仮住まいの部屋で、お礼に手料理を振る舞わせてもらえませんか? ひまりちゃんには、内緒で……』(市川葵)
「どうしてこう、どっちもアプローチが極端なんだよ……」
胃のあたりがキリキリと痛むのを感じつつ、スマートフォンの電源を切る。
新築マンションの天井裏トラブルから救い出した葵さん。そして、サークルの後輩であるひまり。二人からのあまりにも甘すぎるメッセージ攻撃に、平凡な大学生である俺のキャパシティはとっくに限界を迎えていた。
「――進藤くん。ちょっと、今いいかな?」
不意に、上空から凛とした涼やかな声が降ってきた。
振り返ると、そこに立っていたのは法学部二年の水瀬遥さんだった。
肩のあたりできれいに切り揃えられた艶のある黒髪。知的で落ち着いた目元に、すっと通った鼻梁。今日も彼女は、キャンパス内で一際目を引く、大人びたトレンチコートをスタイリッシュに着こなしていた。大階段でのアクシデントの際、率先して保健室への搬送を手伝ってくれた、あの聡明な彼女だ。
「あ、水瀬さん。どうしたの? 次の講義、もうすぐ始まるけど」
「ええ、分かっているわ。だから、少しだけ手短にね」
遥さんは周囲に他の学生がいないことを確かめるように、きょろきょろと視線を走らせた。いつも冷静で堂々としている彼女にしては、妙に落ち着きがない。トーンを落とした声で、俺に一歩歩み寄ってきた。
「実はね、ちょっと個人的に、進藤くんに相談したいことがあって。……その前に、父から伝言を預かっているの」
「お父さんから?」
「うん。昨日、父から連絡があってね。『市川葵さんの件、本当にありがとう』って、すごく感謝していたわ。進藤くんが天井裏の動画を撮って、明確な証拠を提示してくれたおかげで、大家側との交渉がこれ以上ないくらいスムーズに進んだって。父もね、大学生でそこまで冷静に事態を把握して動ける子は珍しいって、すごく感心していたのよ」
「いや、俺はただ『怪しい匂い』に気づいて、スマホを突っ込んで確認しただけだからさ。水瀬さんのお父さんこそ、あのスピードで大家と施工業者を追い詰めるなんて、さすがプロの弁護士だなって驚いたよ。市川さんも、すごく感謝してた」
「ふふ、父は仕事が早いのだけが取り柄だから。法律の力でお仕置きするのは、あのお父さんの趣味みたいなものよ」
遥さんはクスリと悪戯っぽく微笑んだ。その笑顔は、普段の「高嶺の花」と噂される彼女のクールな印象を覆すほど、無邪気で可愛らしかった。
だが、その笑顔はすぐに消え、遥さんの表情がふっと曇った。
いつもの理性的で知的な彼女からは想像もつかないような、わずかに怯えをはらんだ瞳が、じっと俺の顔を見つめる。
「……でも、今日相談したいのは、その父の『法律事務所』のことなの」
「法律事務所? 何かトラブルでもあったの? 大家さんと揉めてるとか?」
「ううん、逆よ。私たちが店を借りているビル側の問題……。ううん、それも違うわね。もっと、その……非科学的な、問題なの」
「非科学的?」
俺の脳裏に、嫌な予感がよぎる。
まさか、莉子さんの部屋、葵さんの部屋に続いて、またしても『そっち系』の相談なのだろうか。
遥さんは、少し恥ずかしそうに視線を彷徨わせながら、自分の細い指先をぎゅっと握りしめた。
「父の法律事務所はね、大学から徒歩十分ほどのところにあるの。大正時代に建てられた、古い赤レンガ造りのビルに入っているんだけど……。外観はレトロで素敵だし、内装もきれいにリフォームされているのよ。でも、最近、そこで奇妙な現象が起きているの」
「奇妙な現象……。具体的には、どんな?」
「ここ数週間、夜間に事務員さんや父が残って仕事をしているとね、誰もいないはずの奥の『応接室』から、奇妙な音が聞こえてくるのよ。まるで……重い金属の鎖を、コンクリートの床の上でズルズルと引きずり回すような、嫌に生々しくて重苦しい音が」
「鎖を……引きずる音?」
その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋を、冷たい指先でなぞられたような微かな悪寒が通り過ぎた。
ただの木造アパートの軋みや、ネズミの足音とは、明らかに「質感」が違う。
「ええ。それだけじゃないのよ。ときどき、低くてかすれた、男の人がブツブツと何事かを呟きながら、すすり泣くような声まで聞こえてくるらしくて。……事務員さんは怖がって、夜間の一人での残業を完全に拒否するようになってしまって。父は『古いビルだから風の音だ』って笑っているんだけど……実は昨日、私も夜に事務所へ忘れ物を取りに行ったときに、それを聞いちゃったの」
遥さんは小さく肩を震わせ、自分の身体を抱きしめるようにコートの襟元をきゅっと掴んだ。
いつも凛として、法律という「論理の塊」を勉強している現実主義の彼女が、本気でガタガタと震えている。
「暗い廊下の奥から、じゃり、じゃり……って金属が擦れる音が響いてきて。それと同時に、足元から這い上がってくるような、ものすごい冷気と頭痛に襲われて。私、足がすくんで、その場から動けなくなっちゃって……」
「冷気と、頭痛……」
「うん。……ひまりちゃんから聞いたの。進藤くんは、普通の人が気づかないような微かな『異常の気配』を嗅ぎ取って、それを解決するのが得意だって。……お願い、進藤くん。オカルトなんて信じたくないんだけど、あの音だけは、どうしても頭から離れなくて。一度、夜の事務所を見に来てくれないかしら?」
お化けや怪現象など一切信じなさそうな、法学部の超現実主義に見える水瀬遥。そんな彼女が、涙目を浮かべて、年下の俺を頼ってきている。
莉子さんや葵さんの時とは違う、何やら「歴史の重み」を感じるような、不気味で重苦しい現象だ。だが、放置しておけば、お父さんの仕事にも、そして遥さんの精神衛生上にも深刻な実害が出かねない。
「分かった。水瀬さん、そこまで怯えてるなら、放っておけないよ。今週の金曜日の夜、ちょうど講義が終わる時間なら事務所も人が少なくなるよね? その時間に合わせて、俺でよければ一度、調査に行かせてよ」
「本当に……? 迷惑じゃないかしら? サークルの用事とか、ひまりちゃんたちとの約束とか……」
遥さんは申し訳なさそうに、けれど期待に満ちた瞳で俺を見つめる。
「大丈夫だよ。サークルの用事はないし、ひまりたちにも上手く言っておくから。それより、水瀬さんの安全の方が大事だしね」
「ありがとう、進藤くん。……なんだか、あなたにそう言ってもらえるだけで、急に胸のつかえが取れたみたい」
遥さんは、張り詰めていた緊張が解けたように、ほっと柔らかい笑みを浮かべた。その表情は、今までに見たどの彼女の顔よりも、柔らかくて、年相応の女の子らしくて――不覚にも、俺の心臓が一瞬、跳ね上がった。
「じゃあ、金曜日の午後七時に、ビルの前で待ち合わせね。……頼りにしてるわ、進藤くん」
「うん、任せて」
彼女は小さく手を振ると、今度こそ軽やかな足取りで講義室へと消えていった。
だが、その美しい笑顔を見送りながら、俺の掌には、じっとりと冷たい汗が滲んでいた。
(大正時代のビル、夜中に響く鎖の音とすすり泣き、急激な冷え込み、そして頭痛……)
霊感ゼロのはずの俺の生存本能が、今度の相手は、今まで以上に「一筋縄ではいかないヤバさ」を孕んでいるのではないかと、静かに警鐘を鳴らし始めていた。




