第十三話:二人だけの特等席
天井裏のネズミの巣と、リフォーム時に隠蔽された大量のゴミ。
あの衝撃的な発見から、事態は驚くべきスピードで、かつ「極めて現実的」に動き出していた。
翌日、葵さんは俺が撮影した動画を添えて、実家の両親に事の顛末をすべて連絡した。
娘の健康と安全を脅かすあまりにも悪質な手抜き工事と大家側の管理不足に、当然ながら葵さんのご両親は大激怒。即座に京都へと駆けつけ、葵さんの提案通り、法学部の水瀬遥さんを通じて、その父親である水瀬弁護士に正式に相談を持ちかけたという。
そこからの弁護士の仕事は、恐ろしいほどに迅速だった。
手抜きリフォームを行った施工業者に対しては不法行為による損害賠償を。そして物件の管理を怠り、不衛生な環境で学生を入居させていた大家に対しては、契約違反および慰謝料の請求を。
大家側も最初は渋っていたようだが、水瀬弁護士が提示した「天井裏の動画」という動かぬ証拠を前に完全にお手上げ状態となり、今度は大家が施工業者を相手取って訴訟を起こすという泥沼の裁判劇へと発展したらしい。
何はともあれ、葵さんは敷金や礼金の全額返還はもちろん、引っ越し費用やこれまでの家賃、さらには精神的苦痛に対する慰謝料もしっかりと勝ち取り、安全な別のアパートへ引っ越すことが決まった。
「――っていうのが、事の顛末。いやぁ、本当に水瀬さんのお父様が凄腕で助かったよ」
事件から一週間ほど経った、ある日の放課後。
サークルの部室で、俺はひまりからそんな後日談を聞かされていた。
「本当ですね! 葵ちゃんも『これでやっと安心して夜眠れる』って、すごく喜んでました。……あ、そうだ、進藤先輩!」
ひまりが思い出したように、足元に置いていた大きなトートバッグを持ち上げた。
「葵ちゃんのご両親と、葵ちゃん本人から、先輩にどうしても直接お礼を渡してほしいって言われて、預かってきたんです。高級なお菓子と、お父様からの御礼の品なんですけど……」
「えっ、わざわざ? そんなの気にしなくてよかったのに。……じゃあ、ありがたくいただくよ」
「それが、ここだと他のサークルの人に見つかって冷やかされちゃいますし……。私の家、ここからすぐ近くですよね? 今日、そこのエントランスで待ち合わせして渡します!」
「ああ、分かった。じゃあ、講義が終わったらひまりのマンションのエントランスに行くよ」
夕方。約束通り、俺は大学からほど近いひまりのマンションへと向かった。
オートロックの手前、エントランスのロビーにあるソファーで待とうと思い、スマホを取り出してひまりにメッセージを送る。
『エントランスに着いたよ』
すぐに既読がつき、返信が返ってきた。
『すみません先輩! お礼の品、お父様からのが思ったより大きくて重たくて、一人で下まで持っていけそうにないんです……! オートロック開けるので、お手数ですけど私の部屋まで取りに来てもらえませんか?』
「重たい……? お菓子と御礼の品だよな?」
疑問に思いつつも、女の子に重労働をさせるわけにはいかない。俺は「了解」と返し、開けられたオートロックを抜けてエレベーターでひまりの住む階へと上がった。
ひまりの部屋の前に立ち、インターホンを押す。
「はーい!」という元気な声とともにドアが開き、エプロン姿のひまりが顔を出した。
「お疲れさまです、先輩! さ、入ってください!」
「お邪魔します……って、玄関で受け取るだけで大丈夫だよ?」
「何言ってるんですか、せっかく来てくれたんですから、お茶くらい飲んでいってください! ほら、どうぞ!」
有無を言わさぬ勢いで背中を押され、俺は観念して靴を脱いだ。
一人暮らし用の一般的な1Kの部屋。仕切り扉を抜けてフローリングの居室へと入った瞬間、俺は「あ」と声を漏らした。
「……あ、進藤さん。こんにちは」
ソファーの横にちょこんと座り、淹れたてのお茶をテーブルに並べていたのは、すっかり顔色の良くなった葵さんだった。
「市川さん? なんでここに……」
「ふふ、葵ちゃんは引っ越しの準備が落ち着くまで、私の家に仮住まいしてるんですよ。今日はお礼を言うために、ずっとここで待ってたんです!」
ひまりがいたずらっぽく笑う。
なるほど、お礼の品が重いというのは、俺を部屋に入れるための可愛い嘘だったわけだ。
「進藤さん、本当にありがとうございました。これ、お父さんからと、私からのほんの気持ちです」
葵さんが手渡してくれたのは、老舗の和菓子が入った上品な包みと、デパートの商品券。思ったより全く重くなく、普通に片手で持てるサイズだった。
「ありがとう、市川さん。わざわざこんなに気を遣ってもらっちゃって」
「いいえ! 駆くんにはそれ以上のことをしてもらいましたから!」
ひまりがなぜか得意げに胸を張り、俺の隣に座るよう促す。
だが、一人暮らし用の狭い1Kの部屋だ。
部屋の中央にあるローテーブルを囲むように座るとなると、配置的に、壁際のテレビに向かって座るしかない。そしてその背後には、ひまりのシングルベッドが鎮座している。
俺がベッドの側面を背もたれにするようにして床に腰を下ろすと、すかさず、ひまりが俺の左側に、葵さんが右側に滑り込んできた。
文字通り、二人の美少女にピタリと左右から挟まれる形になった。
「え、ちょっと二人とも、近くないか?」
「狭いお部屋ですから、仕方ないですよ」
ひまりがクスクスと笑いながら、俺の左肩に自分の肩をピッタリと押し当ててくる。お風呂上がりではないが、ふわりとフローラルな甘い香りがして心臓に悪い。
「……進藤さん。あの時、天井裏を調べて原因を突き止めてくれた姿、本当に格好よかったです」
右隣から、葵さんが少し潤んだ瞳で俺を見つめ、そっと俺の右腕に自分の身体を預けるようにもたれかかってきた。
ふに、と柔らかい感触が二の腕に当たり、俺の全身の血流が一気に加速する。
「お、おい、市川さん……?」
「私もそう思います! 先輩、普段はちょっとボケっとしてるのに、いざって時は本当に頼りになりますよね。莉子さんの時もそうでしたけど、私、先輩のそういうところ、本当に素敵だと思います」
ひまりまで、俺の左腕を抱きしめるようにして体重をかけてきた。
右からはふっくらとした葵さんの温もりが、左からはスレンダーなひまりのしなやかな感触が、同時に俺を襲う。
お酒が入っているわけでもないのに、頭がどうにかなりそうだった。
表面上はなんとか冷静な「頼れる先輩」の顔を取り繕っているが、内心はパニック状態だ。
「あ、あはは、そうかな……。まあ、怪異じゃなくて本当に良かったよ。法的な解決の目処も立ったみたいだし、市川さんがこれで安心して眠れるなら、それが一番だよ」
必死に喉から声を絞り出し、当たり障りのないアパートの話題に話を逸らす。
「はい。今度の新しい部屋は、水瀬さんのお父様が紹介してくれた、管理のしっかりした大手のアパートなんです。今度は変な音もしません」
葵さんは嬉しそうに微笑みながら、さらに俺の肩に頭をコテンと乗せてきた。
「よかったな。……じゃあ、俺、次の予定もあるから、そろそろ帰るよ」
これ以上この部屋にいたら、俺の理性が限界を迎えて、それこそ「別のヤバい何か」を呼び起こしてしまいそうだった。
からかいと、そして隠しきれない好意がじっとりと澱む甘い空間から脱出するように、俺は二人の包囲網をなんとかすり抜けて立ち上がった。
「えー、もう帰っちゃうんですか?」
「お茶、おかわりありますよ?」
後ろ髪を引かれつつも、「またサークルでな!」と言い残し、俺はお礼の品をしっかりと抱えて、逃げるようにひまりのマンションを後にした。
夕方のひんやりとした秋風を浴びながら、ようやく熱くなった顔を冷ます。
松ケ崎の莉子さんの時といい、今回の葵さんの時といい、俺はただ「怪しい匂い」や「おかしな気配」に気づいて部屋の片付けをしただけなのに、どうしてこんなに女の子たちに囲まれる状況になってしまうのだろうか。
「霊感はない」と言われつつも、自分の周りの人間関係の風向きは、どうやら別の意味でかなり「ヤバい」方向へと傾いている気がしてならなかった。
最寄り駅へと向かって歩いていると、ポケットの中でスマホがブルリと震えた。
画面を開くと、数時間前にひまりから紹介されてルイン(Luin)を交換したばかりの、葵さんからのメッセージが届いていた。
『駆さん、今日はお礼を受け取ってくれてありがとうございました。
狭い部屋で、ちょっと驚かせちゃってごめんなさい。
でも……また、ひまりと一緒に、三人でご飯食べに行きたいです。
新しいお部屋ができたら、真っ先に駆さんをお招きしますね!』
メッセージの末尾には、可愛らしいハートマークの絵文字が添えられていた。
そして、間髪入れずにひまりからもルインが届く。
『先輩、今日はお部屋まで来てくれてありがとうございました!
葵ちゃん、進藤先輩のこと、かなりお気に入りみたいですよ?
もちろん、私も先輩のこと、一番応援してますからね!
今度は私の部屋、二人きりの時に来てくださいね。おやすみなさい!』
二人の美少女からの、甘いおねだりと宣戦布告。
俺はスマホの画面を見つめたまま、今度こそ完全に顔を真っ赤に染め上げ、京都の秋の夜風の中で、ただ一人立ち尽くすことしかできなかった。
第二章? 市川葵編終了です。
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