第十二話:天井裏の正体
定食屋での慌ただしい食事を終え、俺たちは再び、公園の横に佇む木造アパートへと戻ってきた。
築年数自体はそれなりに経っているものの、外観も内装も、まるで新築同様に綺麗にリノベーションされた学生向けの賃貸アパート。葵さんがここに住み始めてまだ半年。一見すれば、誰もが羨むようなお洒落で清潔な一人暮らしの城だ。
しかし、その「綺麗さ」の裏に隠された違和感が、俺の鼻腔を嫌というほど刺激していた。
ガチャリ、と葵さんがおそるおそる鍵を開け、俺たちは部屋の中へと足を踏み入れた。
その、瞬間だった。
――パキッ。
静まり返った部屋の天井から、乾いた高い音が響いた。
「ひゃっ……!?」
「うわっ……!」
間髪入れずに、今度は壁の向こうから「トントントン」と、何かが軽く叩くような音が連続して聞こえてくる。
恐怖に耐えかねた葵さんとひまりが、短い悲鳴を上げて俺の左右の腕に一斉にしがみついてきた。
右腕には葵さんの、左腕にはひまりさんの、それぞれの柔らかい感触がダイレクトに伝わってくる。男としては心臓が跳ね上がるシチュエーションだが、今の俺の頭は、別の感情で完全に支配されていた。
(やっぱり、そうか……!)
俺は、自分の仮説が「正しい」ということを完全に確信した。
恐怖を感じることは全くない。ただ、あまりにも身勝手で不誠実なこの部屋の『現実』に対して、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。
玄関で怯えて立ちすくみ、俺の腕をきつく握りしめている二人に、俺は静かに、けれど毅然とした声で語りかけた。
「市川さん、ひまり。……原因を確認するけど、二人とも、来る?」
「え……? げ、原因って、わかるんですか……?」
葵さんが涙目のまま、俺の顔を見上げてくる。
「ああ。たぶん、俺の予想通りだ。怖かったらここで待ってていいよ」
「い、嫌です! 一人はもっと怖いから、ついていきます……っ」
「私も、先輩の背中にくっついていきます!」
二人を両脇に引き連れるような格好で、俺は部屋の奥へと進んだ。
ダイニングから丸椅子を借りてきて、まずは匂いとノイズの気配が最も強かったお風呂場へと向かう。
お風呂場の天井には、プラスチック製の四角い「点検口」があった。
俺は椅子の上に乗り、スマホを取り出した。カメラを動画の録画モードに設定し、内蔵ライトを常時点灯させる。
「よし、ちょっと開けるよ」
点検口のフタをごとりと押し開け、できた隙間から、ライトを点けたスマホを差し込んでぐるりと周囲を撮影した。スマホの画面をリアルタイムで確認しながら、カメラの角度を変えていく。
そこに移し出された天井裏の光景は、あまりにも悍ましいものだった。
「……うわ、これは酷いな」
画面に映っていたのは、点検口の狭い隙間を通るサイズに、巧みに折り畳まれたり押し潰されたりしたプラスチックゴミの山だった。
空のペットボトル、お菓子の空き袋、コンビニ弁当のプラスチック容器。それが、梁の隙間や断熱材の上にいくつも散乱している。
そして、そのゴミの周囲に無数に転がっている、小さな黒い粒――ネズミの糞だ。
お風呂場の湿気と混ざり合い、天井裏の熱気で温められたゴミと排泄物の臭い。これこそが、俺が部屋に入った瞬間に嗅ぎ取った、あの「饐えた嫌な匂い」の正体だった。
一度スマホを下ろし、俺は部屋に戻って、クローゼットの上部にある点検口でも同じようにスマホを差し込んで動画を撮影した。
やはり、全く同じ光景が表示された。衣服を引っ掛けるクローゼットの真上に、大量のコンビニゴミと、それをエサにして繁殖したネズミたちの巣が存在しているのだ。
点検口を静かに閉め、俺は椅子から降りた。
スマホの録画を止め、青ざめた表情でこちらを見つめている二人に画面を向け、再生ボタンを押す。
「これを見てほしい」
二人はスマホの画面を凝視し、やがて、完全に顔色を失ってその場に立ちすくんだ。
「これ……ゴミ……? なんで、私の部屋の天井裏に、こんなものが……」
葵さんの声が、ショックで震えている。
「たぶんだけど」
俺は、湧き上がる怒りを抑えながら冷静に説明した。
「この古いアパートを綺麗にリノベーションした時の、工事現場の作業員か誰かの仕業だ。弁当のゴミやペットボトルを処分するのが面倒で、仕上げの前に点検口から天井裏にポイポイ投げ捨てて、そのままフタをして隠したんだよ。新築やリフォームの現場で、ごく稀に発生する最悪の手抜きと嫌がらせだ」
「そんな……。じゃあ、あのパキパキ音とか、ノック音は……」
ひまりが震える声で尋ねる。
「全部とは言わないけど、ほとんどはこれが原因だと思う。このゴミの匂いに引き寄せられて、ネズミや害獣が入り込んで住み着いたんだ。パキパキ鳴っていたのは木が軋む音やネズミがゴミを齧る音。壁のトントントンっていう軽いノック音は、壁の隙間をネズミが移動したり、頭をぶつけたりしていた音だろう。クローゼットを閉めたときに聞こえた『ジジジ』っていう音も、機械のノイズじゃなくて、ネズミが壁の中の配線や断熱材を齧っている音か、あるいは小型のネズミが威嚇して鳴き交わす声だ」
ストーカーでも、心霊現象でもなかった。
だが、一人暮らしを始めたばかりの女子大生にとっては、それ以上に悪質で、極めて不衛生な出来事だった。
「いつからゴミが放置されていたのかは分からない。でも、このままこの部屋に住み続けたら、ダニやノミ、それに乾燥した糞尿の塵を吸い込んで、アレルギーや感染症で本格的に体調を崩すことになりかねない。……市川さん、この部屋を契約してくれた親御さんに連絡して、大家や仲介業者にこの動画を見せて、厳重に抗議してもらうことはできる?」
「はい……。お父さんに、この動画を送って相談してみます。でも、大家さんがすぐに対応してくれなかったら、どうしたら……」
不安そうに俯く葵さんに、俺はもう一つの提案を投げかけた。
「あとは、こういう契約トラブルとか、法律的なことに詳しそうな相手に相談するとか。……誰か、心当たりはある?」
葵さんは少し考え、ハッとしたように顔を上げた。
「あ……。昨日、一緒に保健室まで付き添ってくれた法学部の、水瀬遥さん……。彼女のお父さん、弁護士なんです。学校の近くに法律事務所を構えていて、学生のトラブルの相談にもよく乗ってくれるって、以前遥さんから聞いたことがあります」
「水瀬さんか!」
まさか、昨日の階段での偶然の出会いが、ここで繋がるとは思わなかった。
「彼女のお父さんなら、これ以上ないくらい心強い味方だ。まずは親御さんにこの状況を伝えて、どう動くか決めるのがいいと思う」
説明を終えると、葵さんは少しだけ安心したように息を吐いた。
だが、今夜この部屋に一人で泊まるのは、いくら原因が分かったとはいえ精神的にも衛生的にも最悪だろう。天井裏にネズミとゴミの山があるのだ。
「市川さん。今日は、ひまりの家に泊めてもらったらどうかな? 正直、一人でこの部屋に居るのも嫌でしょ」
「あ、それすごくいいと思う! 私のマンション、ここから近いし、お布団も余ってるから葵ちゃん、おいでよ!」
ひまりが即座に、明るい声で快諾してくれた。
「……ありがとうございます。本当に、お言葉に甘えさせてもらってもいいですか?」
「もちろん! すぐに準備して行こう!」
夜もだいぶ遅くなりつつあった。
必要最低限の荷物だけをまとめた葵さんを連れ、俺たちはアパートを後にした。
途中でコンビニに寄りつつ、俺は二人をひまりのマンションの入り口までしっかりと送り届けた。
「本当に、ありがとうございました、進藤さん。進藤さんがいなかったら、私、今頃まだあの部屋で怯えてました……」
「いいよ、昨日の恩返しだ。ひまり、市川さんのことよろしくな」
「はい! 任せてください、先輩!」
二人の後ろ姿を見送り、俺はようやく肩の荷が下りたのを感じながら、自分のアパートへの帰路についた。
帰りの電車の中。
俺はポケットからスマホを取り出し、事前のいわく調査をしてくれた御堂宗佑にメッセージを送った。
ゴミとネズミの動画を添えて。
『調査終わった。心霊現象でもストーカーでもなかったよ。リフォーム業者が天井裏に捨てたゴミに、ネズミが住み着いてたのが原因だった』
数秒で既読がつき、宗佑から呆れたような返信が届いた。
『また女の部屋の片付けをしてたのかお前は。そろそろ現代仏教文化研究会じゃなくて「女子大生用便利屋サークル」に改名しろ』
『うるさい。でも、お前が言ってた通り、湿気とか土地の悪条件もあってネズミが引き寄せられたのかもな。色々情報ありがとよ』
『ふん。まあ、なんでもかんでも心霊現象や怪異のせいにしなかったのは、合格点だな。オカルトサークルのくせに冷静じゃねえか。さすがただの一般人(霊感ゼロ)』
宗佑のその言葉に、俺は思わずクスリと笑ってしまった。
『そりゃどうも。おやすみ』
スマホをポケットにしまい、暗い車窓に映る自分の顔を眺める。
プロの霊能者に「そっちの才能は綺麗さっぱり無い」と言い切られて五年。
怪異を退治するような格好いい力はないけれど、俺のこの「妙に鋭い生存本能」は、今回も一人の女の子を、最悪の部屋から救い出すことができた。
それだけで、十分すぎるくらい十分だった。
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