第十一話:混ざり合う匂いと、微かなノイズ
予定通り、夕方の六時に俺たちは学食で合流した。
十月の京都の夕暮れは釣瓶落としだ。外に出ると、すでに太陽は西の山に沈み、空は濃い藍色から急速に夜の闇へと染まりつつあった。
俺と、サークルの後輩である佐々木ひまり、そして不安げに身を縮める市川葵さんの三人で、彼女のアパートへと向かう。
「道、暗くなると本当に静かになるんです……」
葵さんが言う通り、大学の喧騒から離れ、宗佑が言っていた『〇〇公園』の東側エリアへと入ると、急に街灯の数が減った。公園の鬱蒼とした木々が夜風にざわざわと揺れ、その影が道路に長く伸びている。大正期に隔離病舎があったという不穏な歴史を知っているせいか、確かに少し薄気味悪いロケーションではあった。
だが――。
(……不思議と、何も感じないな)
俺は自分の両手を見つめ、それから周囲の暗闇をぐるりと見渡した。
莉子さんの部屋に向かったあの夏の日、俺はアパートの周辺はおろか、玄関を開けた瞬間に「死ぬほどヤバい」と生存本能が激しいアラートを鳴らした。皮膚が粟立ち、背筋が凍りつくような、明確な恐怖があった。
しかし今は、そういった悍ましい寒気や、心臓を直接握られるようなオカルト的恐怖は一切感じなかった。
しばらく歩き、公園のすぐ脇に佇む、木造二階建ての少し年季の入ったアパートに到着した。
外観はそれなりに古く、一階部分が半地下のようになっている。葵さんの部屋はその二階、一番奥の角部屋だった。
「ここ、です……。開けますね」
葵さんが震える手で鍵を開け、ドアを押し開く。
俺は一歩、玄関へと踏み込んだ。
「…………」
やはり、何も感じない。
莉子さんの時のような、全身の毛穴が収縮するような悪寒はゼロだ。もちろん、心霊現象の気配が絶対にないとは言い切れないが、少なくとも「生存本能が逃げ出せと叫ぶレベルの怪異」は、この玄関には存在していなかった。
恐怖を覚えることはなかった。ただ――代わりに、何とも言えない奇妙な『違和感』が、俺の鼻腔をかすめた。
「お邪魔します。市川さん、電気つけてもいいかな?」
「あ、はい。どうぞ」
パチ、と壁のスイッチを入れると、玄関からワンルームの室内が明るく照らされた。
いかにも女子大生の一人暮らしといった風情の、清潔感のある、お洒落に整えられた部屋だ。白い家具で統一され、ベッドには可愛らしいクッションが並んでいる。
だが、俺は玄関から一歩も動けず、鼻をひくひくさせた。
女の子特有の、甘い柔軟剤やシャンプーのような雰囲気の部屋であることは間違いない。だが、それとは別に、何とも言えない「引っかかる匂い」が混じっている。
「ねえ、市川さん。部屋に何か、芳香剤とかルームフレグランス置いてる?」
「え? あ、はい。二週間くらい前から、好きな香りがあると夜に少しでも安心できるかなと思って、そこに置いてあります」
葵さんがテレビ台の横を指さした。そこには、お洒落なガラス瓶に木のスティックが刺さった、上品なラベンダーのルームフレグランスが置かれていた。
「やっぱりか……。でもね、市川さん。こんなことを言うのは、ちょっと失礼かもしれないんだけど……」
俺は言葉を選びながら、慎重に切り出した。
「そのラベンダーの香りと混ざって……何か、少し『嫌なにおい』がしている気がするんだ」
「え……? 嫌なにおい、ですか……?」
葵さんが不安そうに鼻をすする。
「うん。食べ物が腐ったような強烈な生ゴミ臭とか、そういう分かりやすい臭いじゃないんだ。なんというか……少し埃っぽくて、何かがじわじわと饐えたような、鼻の奥に残る変なにおい。ちょっと、部屋の中を調べてみていいかな?」
「はい、大丈夫です。お願いします……」
俺は靴を脱いで部屋に上がり、匂いの発信源を探るように、ゆっくりと歩いた。
横にいるひまりも「私もくんくんしてみます」と鼻を動かしているが、「私、柔軟剤の良い匂いしか分かりません……」と困り顔をしている。やはり、この微かな違和感は、霊感ゼロの俺の妙に鋭い本能だけが拾っているらしい。
ベッドの周り、キッチン、水回り。
特に異状はない。だが、お風呂場の扉を開け、さらにその横にある、入居前にリノベーションされたという綺麗なクローゼットの前に立った時、その「嫌なにおい」が一気に強くなった。
「ここだ……」
俺はクローゼットの折れ戸に手をかけ、ゆっくりと開いた。
中には、葵さんの私服がハンガーに整然と掛けられている。匂いは確かにこの中から漂ってくる。しかし、服から匂っているわけではない。壁の奥か、それとも床下から染み出しているような――。
その時だった。
「……ッ!」
クローゼットの奥の、洋服と壁の僅かな隙間。
俺が異変を感じて折れ戸をパタンと閉めようとした、まさにその一瞬。
――ジジ、ジジジ……。
極めて微小な、耳を凝らさなければ絶対に聞き逃してしまうような、細い機械のノイズが鼓膜を打った。
(これか……!)
俺は目を見張り、クローゼットのドアノブを握ったまま硬直した。
昨日の階段での出来事、そしてこの部屋に漂う「嫌な匂い」と、クローゼットの奥から聞こえた「ジジジ」という機械音。
いくつかの断片的な情報が、俺の頭の中で一本の線に繋がりかけていた。
だが、これ以上、この薄暗い部屋で一人暮らしの葵さんを怯えさせるわけにはいかない。もう外は完全に夜だ。
俺はゆっくりとクローゼットから手を離し、努めて明るい表情を作って二人に振り返った。
「よし、大体の状況は分かった。ちょっとお腹も空いたし、市川さん、この近くによく行く定食屋とかある?」
「え? あ、はい。アパートを出て大通りに向かう途中に、いつも行く定食屋さんがありますけど……」
「じゃあ、そこに移動しよう。俺、奢るからさ。そこでご飯を食べながら、少し整理した話をしよう」
「あ、はい! 私もお腹空いちゃいました!」
ひまりがナイスなタイミングで空気を和らげてくれる。
俺たちは一度部屋の電気を消し、鍵をしっかりと閉めて、近くの定食屋へと移動した。
定食屋は、黄色い蛍光灯が暖かく店内を照らし、おじさんとおばさんが元気に切り盛りしている、アットホームな空間だった。揚げ物の香ばしい匂いと、他のお客さんの賑やかな笑い声。
先ほどのアパートの不気味な静けさとは大違いで、葵さんの表情にもようやく少しだけ赤みが戻ってきた。
注文したチキンカツ定食を食べながら、俺はあえて、部屋で感じた「違和感の正体」については口にしなかった。 あの部屋には、確かに何かの気配があった。 それは、莉子さんの時のように命の危険を感じるような、悍ましい気配ではない。 だが、『人間』の身勝手でねっとりとした、悪意に近い執着の気配だ。それをこの場で、これから夜を迎える葵さんに伝えるのは、余計な恐怖心を与えるだけだと思ったからだ。
「うん、美味しいですね、ここのカツ」
「でしょ? 葵ちゃん、もっとたくさん食べなよ」
ひまりと葵さんのそんなやり取りを見守りながら、俺はただ静かに、これからの行動を頭の中で組み立てていた。
やがて食事を終え、俺たちは再び、あの公園横のアパートへと戻ることになった。
目的は、深夜に発生するという「パキパキ」というラップ音や、ドアからのノック音を実際にこの目で、耳で確かめるためだ。
アパートへの道を歩きながら、俺の脳内には、一つの明確な『仮説』が完全に形作られていた。
その仮説が真実だとしたら――。
俺の胸の中に湧き上がっていたのは、莉子さんの時に感じたような圧倒的な「恐怖」ではなかった。
代わりに、冷たく、静かに燃え上がるような、激しい「怒り」だった。
(もし、俺の考えている通りだとしたら……絶対に許さねえぞ、おい)
俺はポケットの中で拳を固く握りしめ、静かに夜の階段を登っていった。




