第十話:二つの仮説と、深夜の調査計画
「天井からのパキパキ音、壁からのノック音、そして静まり返った部屋に響く『ジジジ』っていうノイズ、か……」
俺は学食のトレイの上で、冷めきったお茶のペットボトルを指先で弄りながら、葵さんが話してくれた内容を頭の中で整理していた。
隣に座る佐々木ひまりは、心配そうに葵さんの肩にそっと手を添えている。正面に座る葵さんは、自分の話が突飛すぎて信じてもらえないのではないかと不安なのか、青ざめた顔で俺の反応をじっと窺っていた。
「……市川さん。これ、かなり深刻だし、何より君の精神的な限界が近いのが一番ヤバい」
俺が真剣なトーンで告げると、葵さんは小さく肩を震わせ、弱々しく頷いた。
「はい……。ここ最近は、夜にあの音が鳴り始めるんじゃないかって思うだけで動悸がして。実家にいた頃は、肩こりも頭痛も全然なかったのに、京都に戻ってきてからは毎日体が重くて、頭痛薬が手放せなくなっちゃって……」
(莉子さんの時と、全く同じ症状だ)
俺の胸の奥で、確信めいた警報が静かに鳴り響く。
莉子さんも、あの「視線に満ちた部屋」で生活しているうちに激しい頭痛と肩こりに苛まれていた。それが、部屋の環境を片付け、鴨川の石を取り除いた途端に綺麗さっぱり治ったのだ。
あの時、俺は霊感ゼロだと言われながらも、部屋に入った瞬間に生存本能が「ヤバい」と叫ぶのを感じた。葵さんの部屋にも、莉子さんの時と同じような『何か』が澱んでいる可能性は極めて高い。
しかし、俺はオカルトサークルに所属していながらも、物事をすぐに心霊現象だけに結びつけるのは危険だとも知っている。実家が寺のくせに徹底的なリアリストである宗佑の影響かもしれない。
「市川さん。今の話を聞く限り、俺の中には二つの可能性……というか、仮説がある」
「仮説、ですか……?」
「うん。まずは一つ目。極めて現実的で、かつ今すぐにでも対処が必要な『物理的なストーカー』の可能性だ」
俺は人差し指を立てて説明を始めた。
「コンセントを全部抜いても聞こえてくる『ジジジ』とか『チリチリ』っていう小さなノイズ。もし、これが電化製品の内部や配線から出ている音じゃないのだとしたら……考えたくはないけど、コンセントの裏や、エアコンのダクト、あるいは部屋の家具の隙間なんかに、電池式の『盗聴器』や『盗撮カメラ』が仕掛けられている可能性がある」
「え……っ!?」
葵さんが息を呑み、顔からさらに血の気が引いていく。
「市川さん、この部屋に入居する時、鍵って新しいものに交換した?」
「ええと、不動産屋さんには交換したって言われましたけど……でも、古いアパートだから、前の住人とか、管理会社とか、あるいは……」
「そうだ。誰が合鍵を持っているか分からないし、最悪の場合、君の留守中に何者かが侵入して仕掛けた可能性もある。のぞき穴から見て誰もいなかったっていうのも、ドアノックの直後にアパートの階段の踊り場や、死角になる影に素早く身を隠せば、十分に可能だ。これはれっきとした犯罪行為だし、もしそうならすぐに警察を動かす必要がある」
「そ、そんな……。じゃあ、誰かが私の生活を覗いてるかもしれないってことですか……?」
葵さんの声が恐怖で震える。
「あくまで仮説の一つだよ」
俺は彼女を落ち着かせるように声を和らげ、次に二本目の指を立てた。
「そして二つ目。俺たちのサークルの本分である『そっち側』――つまり、心霊現象の可能性だ」
俺の言葉に、ひまりがコクりと生唾を飲み込んだ。
「市川さん、君のアパートは大きな公園の横にあるって言ったよね。……京都の『公園』、特に古いアパートが隣接しているような場所は、歴史的にいわくがあることが多いんだ。昔の古戦場だったり、処刑場跡地だったり、あるいは大きな寺社仏閣の跡地で、墓地を整理して公園にした場所だったりね。そういう土地から這い出してきたモノが、湿度の高い九月を境に、君の部屋へと引き寄せられたのかもしれない。天井のパキパキ音や、外壁からのあり得ないノック音は、その怪異が君の部屋の境界線を侵食しようとしている音とも取れる」
京都という街は、地面を一メートルも掘れば何かしらの骨や歴史の闇が出てくると言われる場所だ。
特に、鴨川の水系や公園の周りは、かつて多くの血が流れた場所や、遺体が遺棄された場所がそこかしこに点在している。オカルト的な観点から言えば、水場や大きな木々が集まる公園の横は、霊的な通り道――いわゆる『龍道』や『鬼門』になりやすい。
「物理的なストーカーか、本物の怪異か……あるいは、その両方が混ざり合っているのか。どちらにせよ、市川さん一人の手に負える状態じゃない。俺の予感だけど、これを放置してたら、君の体調はもっと悪化する」
俺がそう締めくくると、ひまりが身を乗り出すようにして言った。
「進藤先輩、どうしたらいいでしょうか……!? 私、葵ちゃんがこれ以上辛そうなの、見ていられません!」
「……一番確実なのは、実際にその部屋を見てみることだ」
俺は二人の顔を交互に見つめ、静かに提案した。
「市川さん。もし嫌じゃなければ、今夜、俺にその部屋を調査させてもらえないかな? 盗聴器の有無も調べたいし、部屋にどんな『気配』が満ちているのか、俺の体で直接確かめたい。……もちろん、ひまりも一緒についてきてもらう。男の俺と二人きりじゃ、市川さんも不安だろうしね」
「あ、私は全然大丈夫です! 喜んでついていきます!」
ひまりが力強く立候補してくれた。
葵さんは驚いたように目を見開いていたが、やがて、昨日の大階段で自分を受け止めてくれた俺の右腕を見つめ、意を決したように小さくコクリと頷いた。
「……はい。進藤さんが来てくださるなら、私、すごく心強いです。ぜひ、お願いします」
「よし、決まりだ。放課後、夕方の六時にこの学食で待ち合わせよう。暗くなる前に、アパートまでの帰り道の様子も確認しておきたいからね」
「分かりました!」
こうして、俺たちの「深夜の部屋調査計画」が決定した。
昼休みが終わり、次の講義へと向かう道中、俺は歩きながらスマホを取り出した。
実家が寺のリアリスト・御堂宗佑に、事前の情報収集を頼むためだ。
『宗佑、忙しいところ悪い。大学の近くで、大きな公園の横にある、一階が半地下っぽくなってる古い木造二階建てのアパートについて、何か地元のいわくとか歴史的な情報って持ってないか?』
数分後、歩きながらスマホが震えた。既読がつく。
『またお前は面倒な物件に首を突っ込んでるな。大学の近くで大きな公園の横……それ、もしかして「〇〇公園」の東側のエリアか?』
『そうだ、まさにそこだ』
『あそこはダメだ。古い京都の地図で見ると、昔は「送り火」の灰を流すための水路が通っていた場所で、さらに大正期までは小規模な隔離病舎があったっていう記録が残ってる。いわゆる「陰」の気が溜まりやすい湿地帯だ。何があった?』
宗佑の返信を見て、俺の首筋に冷たい汗が伝った。
隔離病舎に、送り火の灰を流す水路。怪異のロケーションとしては、これ以上ないほど「満点」の土地柄だ。
『……ちょっと、サークルの後輩の友達の部屋がそこにあってな。今夜、調査に行ってくる』
『ふん。怪異にしろ人間にしろ、深入りしすぎるなよ。危なくなったら、すぐに俺の実家の護符でも買いに来い。檀家価格で安くしといてやる』
『お前のそういう現金なところ、嫌いじゃないよ。ありがとう、また何かあったら連絡する』
スマホをポケットにしまい、俺は空を見上げた。
十月の秋晴れの空は高く澄み渡っているが、夜になれば、あの公園の横はどんな暗闇に包まれるのだろうか。
霊感ゼロのはずの俺の右手が、今から始まる夜への予感に、小さく、ガタガタと震え始めていた。
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