001
アキラは、少女の声で目を覚ました。
「ニコ、ニコ! 起きてよ〜」
彼は、ゆっくりと瞳を開いた。
見上げた先には、木造の天井——十二世紀のヨーロッパ、どこかの古い家屋にありそうな、そんな天井だった。視界はまだぼんやりと揺れ、夢と現実の狭間を漂っていた。彼は声のした方へ顔を向けた。
長い黒髪の、可愛らしい少女が、彼を見下ろしていた。
そして、突然——
記憶の奔流が、彼に襲いかかった。
彼自身のものではなかった。橋の下で死に、トラックの前に飛び出して二人の子供を救い、白い髯の茶好き老人の前で涙を流した、三十六歳の男・アキラの記憶では、決してない。
それは、*この* 身体の記憶だった。
**ニコ・アラート。** 十歳。アンドラ地方在住。物静かな少年。優しい両親。そして、養子の妹。
彼は、再び少女を見つめた。
*エレナ。*
記憶が教えていた——彼女は、実の妹ではない。二年前、彼女の家族に悲劇が起き、両親が引き取ったのだ。そして彼女は、あの優しい声で、毎朝こうして彼を「ニコ」と呼び続けていた。
アキラ——いや、*ニコ* となった彼は、ゆっくりとベッドから起き上がった。
この身体は、軽かった。あまりに軽い。かつて関節を軋ませた過剰な脂肪も、膝を蝕む痛みも、肩にのしかかる自己嫌悪も、何一つとして存在しなかった。
彼は、居間へと歩いた。
テーブルを整える、一人の女性がいた。彼女は優しい眼差しと、子供が愛されている家庭だけが宿す、温かな笑顔を湛えていた。彼女がニコに気づく。その顔が、ぱっと花開いた。
「ニコ! 起きたのね。さあ、朝ごはんにしましょう」
アンナ。今世での、彼の母。
エレナは、既にテーブルに座っていた。小さな手をきちんと重ね、静かに待っている。彼女はニコを見上げ、ほのかに微笑んだ。
ニコは、頷いた。
「……うん、母さん」
彼は腰を下ろした。アンナが、家の奥へ声をかける。
「アレックス! ごはんよ!」
間もなく、一人の男が現れた。背が高く、逞しい手と、穏やかな顔立ち。彼は微笑むと、目じりに優しい皺を寄せた。
アレックス。今世での、彼の父。
家族は、共に食事をした。
温かいパン。野菜のスープ。質素な料理だった。しかし、立ち昇る湯気は、*故郷* の匂いがした——アキラが、二十年以上も嗅ぐことのなかった、故郷の匂い。
エレナが、今日の出来事を話す。アンナが、穏やかに笑う。アレックスは、相槌を打ち、時折言葉を添える。
そして、ニコは——凍りついた。
箸が、宙で止まった。
この情景。
木窓から差し込む、温かな光。家族が言葉を交わし、共に食を頬張る、この音。*自分は、ここに属している* という、この感覚。
彼は、これを——二十年以上も前に、失っていた。
「ニコ?」
アンナの声が、彼を引き戻した。
「どうしたの? お口に合わなかった?」
ニコは、彼女を見つめた。
目頭が、焼けるように熱かった。
「ううん、母さん……」
声が震えた。それでも、彼は必死に保った。
「おいしいよ。すごく……おいしい」
彼は俯き、急いで飯を掻き込んだ。まるで、この瞬間が逃げ出してしまわないように。この温もりが、再び夢に変わってしまわないように。
アンナは、瞬いた。それから、微笑んだ。
アレックスが、優しく喉を鳴らした。
エレナが、手を覆って、くすくすと笑った。
やがて、家族全員が、穏やかな笑いに包まれた——嘲笑ではない、侮蔑でもない。ただ、不器用な少年が、何の理由もなく愛されている、その温かさだけが、そこにあった。
ニコは、食べ続けた。
しかし、涙は飯碗に落ちた。
誰も、それについて、何も言わなかった。
ニコは、エレナと共に家を出た。
朝の陽ざしが土の道に長く伸び、道端の草葉にはまだ露が光っている。風は優しく、冷たく、枯れ草の匂いと、何か別の——穏やかなものを運んでいた。
しかし、ニコの心は、決して穏やかではなかった。
*学校。*
その二文字を思っただけで——記憶が、押し寄せた。
ニコの記憶ではない。*アキラ* の記憶だ。
廊下。嘲笑。顔に投げつけられた汚れた靴下。制服の上に無理やり履かされた、ハート柄のピンクのパンツ。動画。トイレ。蹴り。絶叫。
*「おい、デブの変態!」*
*「食えよ、犬!」*
*「お前さ、死ねばいいのに」*
ニコの両手が、わななく。
呼吸が、浅くなる。
ついさっきまであんなに軽かった足が、まるで地面に沈み込んでいくようだった。
*駄目だ。駄目だ、駄目だ——*
「ニコ?」
エレナの声が、闇を裂いた。
彼は振り返った。彼女は、あの大きくて優しい瞳で、心配そうに首をかしげて、彼を見つめていた。
「どうかしたの?」
彼女は気づいていた。もちろん気づいていた。彼の顔色は、死人のように青ざめていたに違いない。
「……何でもない」
ニコは、早口に言った。あまりにも早口に。
「何でもないよ」
彼は首を振り、歩調を速めた。
---
ニコの家族は、町はずれに広い土地を所有していた——穏やかで、人里離れ、なだらかな丘と老木に囲まれた土地だ。周囲に家はまばらだった。五百メートルほど歩き、道が広がり始めると、ようやく村の中心部が、彼らの前に姿を現した。
そして——
ニコは、足を止めた。
*この世界。*
彼は、自分の恐怖に呑まれすぎて、今の今まで、本当に *見る* ことをしていなかった。
建物は、ひしめき合うように立ち並び、その木骨は年を経て黒ずみ、屋根は急勾配で、暖かなテラコッタ瓦が葺かれていた。石畳の道は、灰色の川のように、建物の間を縫って蛇行している。商人たちは、既に屋台を開き、パンや布地、陶器を並べ始めていた。遠くで、鍛冶屋の槌音が響く。簡素な麻の服を着た子供たちが、鞄を背中ではずませながら、笑い声をあげて彼らの横を駆け抜けていった。
それは、まさに中世ヨーロッパの町並みだった。
*待てよ。*
ニコの目が見開かれた。
*中世ヨーロッパ? 地球の?*
彼の鼓動が、速まり始める——だが、今度は恐怖からではない。
*もしここが中世ヨーロッパなら……俺は、これから何が起きるか知っているんだ。*
*歴史を知っている。戦争も、疫病も、大航海も、産業革命も。どの王国が栄え、どの王国が滅びるか。まだ発明されていない発明だって——*
*俺は……全てを変えられる。*
彼の唇の端が、歪んだ。
*金持ちになれる。権力者に。この時代で、最も影響力のある男に——*
彼は、エレナに向き直った。
「なあ、今って、何年?」
エレナは、瞬いた。突然の質問に、虚をつかれた顔で。
「……二零五年だよ」
彼女は、ゆっくりと答えた。
ニコの脳が、急停止した。
*……二零五?*
彼は、もう一度、周囲を見渡した。石畳の道を。木造の建物を。中世風の市場を。
*二零五年って、そんなの……あまりにも古すぎる。地球の西暦二零五年なんて、まだローマ帝国の真っただ中だ。こんな町並み、あるわけない。それに——*
背筋を、冷たい確信が這い上がった。
*待てよ。ここ、地球じゃないのか?*
「……で、ここは、何ていう国?」
エレナは、まるで彼が二つ目の頭を生やしたかのような目で、彼を見つめた。
「……エルドリアに決まってるでしょ」
*エルドリア。*
ニコの口が、開いた。閉じた。また開いた。
*地球に、エルドリアなんて国は存在しない。*
*一度も。*
*じゃあ、ここは、中世ヨーロッパなんかじゃない。*
*ここは……*
*異世界だ。*
息が、喉で止まった。
*異世界。漫画みたいに。ライトノベルみたいに。俺が、あの薄暗くて狭い部屋で、夢中になって読んでた、あの異世界転生ものみたいに——*
「……マジか」
彼の両手が、再び震え始めた——だが、今度は、恐怖ではない。
それは、*興奮* だった。
*これだ。これ、まさにこれじゃん。*
*俺、死んだんだ。神様——茶ばっかり飲んでるじいさんに会ったんだ。そいつが、もう一度やり直すチャンスをくれた。そして、俺を異世界に送り出した。*
*つまり……*
*俺、主人公じゃん。*
ニコの顔に、ゆっくりと、危険な笑みが広がった。
*俺、メインキャラ。*
*つまり——*
*ハーレム。間違いなくハーレム。*
*美少女ヒロインたちが、次々と俺に惚れるんだ。冷徹な王女。ドジな幼なじみ。ミステリアスなエルフの娘。俺のこと嫌ってるフリして、実は密かに恋してる魔王の娘。*
*学校に行けば、みんな俺を見下して——そして、俺が秘めたる力を見せつければ、奴らは絶句するんだ。*
*そんで、俺は最強になって。世界の支配者になって。エルドリアを救う英雄に——*
*そして——そして——*
「YES!」
ニコは、叫んだ。
街のど真ん中で。
大声で。誇らしげに。完全に、正常の範囲を逸脱して。
「YES! YES! YESッス!」
彼は、宝くじとワールドカップと生涯分のアニメフィギュアを同時に当てた男のような面持ちで、拳を天に突き上げた。
誰もが、振り返った。
商人たちは、商談の手を止めた。鍛冶屋の槌音が、止んだ。鞄を背負った子供たちが、駆ける足を止めた。老女が、リンゴの籠を取り落とした。
誰も彼もが、肺の限り「YES」を絶叫する十歳の少年を、見つめていた。その顔は、純粋無垢な、この上ない陶酔に歪んでいた。
エレナは、ゆっくりと、一歩後退った。
「……ニコ?」
彼女の声は、とても、とても小さかった。
「……大丈夫、なの?」
ニコには、聞こえていなかった。
彼は、己のハーレムを夢想するのに、忙しかったのだ。
その叫びの後、ニコはエレナと一緒に学校へ歩いて行った。心臓はまだ興奮で高鳴っていた。
彼は好奇心でいっぱいだった。この世界では、人々は何を学ぶのだろう? もし地球、特に古代地球と似ているなら、どんな知識を教えているのだろう? 昔の人々は、後になって完全に間違っていたと判明することを教えられていたと聞いたことがある。それを誰かが覆すまで、何世紀もかかったものだ。
*この世界も同じなのだろうか?*
二人は学校に到着した。
大きくはなかった。地球の学校のように、一つの建物に二十から三十の教室が詰め込まれているようなものではない。ここには、全部でたった五つのクラスしかなかった。五つだ。
ニコは眉をひそめた。
*なぜこんなに少ないんだ?*
もしかすると、この町が小さいからかもしれない。人口が少なければ、生徒も少ない。それは理にかなっている。
彼はエレナについて中に入った。自分がどのクラスに入るべきなのか見当もつかなかった――しかし歩いているうちに、何か奇妙なことに気がついた。
六、七歳くらいの幼い子供たちがいるかと思えば、十七、八歳に見える者もいる。
*なんだ、これ?*
彼はエレナの袖を引っ張った。
「なあ……なんであんな成人した奴らがここで勉強してるんだ? もう、学校は終わってるんじゃないのか?」
エレナは瞬きをし、その質問に困惑した様子で彼を見た。
「どういう意味?」
ニコは躊躇した。「地球では小学校、中学校、高校って三段階に分かれてるんだよ」とは、さすがに言えなかった。
だから彼は、彼女が説明してくれるのを待った。
そして、彼女は説明した。
「魔法教育は全部で五段階あるの」エレナは事もなげに言った。「レベル5に達すれば、魔法の基礎はしっかり身についたと見なされるの。それから冒険者ギルドに入ったり、いろんな仕事に就いたりできる――要するに、高等教育を受けた人として認められるってこと」
ニコの脳はショートした。
*魔法。*
*魔法教育。*
*レベル。*
*冒険者ギルド。*
「……マジか」彼は囁いた。
これだ。これこそ、あの薄暗い小さな部屋で読み漁っていたライトノベルそのものだ。
*魔法は実在する。ここは魔法の世界だ。俺は魔法の世界にいるんだ。*
彼の顔はクリスマスツリーのように輝いた。
しかし、まだ疑問はあった。
「わかった、でも……なんで生徒がこんなに少ないんだ? 全体で?」
エレナは、それが常識だと言わんばかりに軽くため息をついた。
「誰もが子供を学校に行かせるお金があるわけじゃないでしょ。それに、裕福な家は? 家庭教師を雇うの。わざわざ学校に来る必要なんてないわ」
彼女は肩をすくめた。
「うちは……まあ、暮らしていける程度。でも、そんなに裕福ってわけじゃない。だから、ここにいるの」
ニコはゆっくりとうなずいた。
「でも待って――」また別の疑問が頭に浮かんだ。「どうして親は、自分で子供を教えるのが学校より上手くいくって、そんなに自信持てるんだ? だって教師は……その……訓練を受けてるんだろ?」
エレナは首をかしげた。
「だって……前例があるから」
「何の?」
「十二人の魔導王のうち、三人は両親から完全に教えを受けたの。そして、信じられないほど強くなった」
ニコの目が見開かれた。
「十二人中、三人?」
「うん。それに、魔導王ガリアッチ自身がこう言ったって――」エレナの声の調子が変わり、有名な言葉を暗唱するかのようになった。「『私は両親が教えてくれたことに感謝している。もし両親が私を学校にやっていたら、自分が本当に何を得意とし、何を苦手としているかを、決して見極められなかったかもしれない。誰にも頼らず、時間をかけて独学し、鍛錬すること――それこそが真の力への道である』」
ニコは、凍りついたようにそこに立っていた。
*独学。*
*誰にも頼らずに鍛えること。*
*自分の長所と短所を見極めること。*
ゆっくりと、危険な微笑みが彼の顔に広がった。
*これ……これは完璧だ。*
*この世界は、独学を許容するだけじゃない――称賛しているんだ。*
*俺は、がちがちのカリキュラムに従う必要はない。俺を信じてくれない教師に自分を証明する必要もない。自分のペースで学べる。自分の道を見つけられる。自分のやり方で強くなれる。*
*物語の主人公たちみたいに。*
*ガリアッチみたいに。*
*まるで――*
「ニコ?」
エレナの声が、彼をトランス状態から引き戻した。
「またそれ、やってる。その顔」
「なにを?」
「その気持ち悪い笑顔」
ニコの笑顔は、たちまち消え失せた。
「……気持ち悪くなんかない」
「今、まさにやってた」
「やってない」
「やってた」
「やってないって」
「やってたの」
二人は、にらみ合った。
それから、エレナはくすくすと笑った。
そして、自分でも驚いたことに、ニコも一緒に笑っていた。
---
鐘が鳴った。
*授業の時間だ。*
ニコは、深く息を吸い込んだ。
*よし。異世界での初めての学校生活。しくじるな。目立つな。ただ……観察しろ。学べ。適応しろ。*
彼は教室に足を踏み入れた。
そして、瞬時に、全ての目が彼に向けられた。
彼と同じ年頃の少年――ブロンドで、鋭い目つきをし、高そうなコートを着た少年が、教室の後ろから嘲笑うような表情を浮かべた。
「お前が、アラート家のガキか」
ニコの心臓が止まった。
*また、このパターンか。*




