第五十五章 第七街区の特別営業
朝の光が、第七街区の濡れた石畳を通り抜ける。
その光が、「浮世書斎」の少しくすんだ木製看板を柔らかく照らしていた。
店先に吊るされた銅の風鈴が、そよ風に揺れる。
チリン。
チリン。
澄んだ心地よい音が、静かな街角に響いていた。
軒下には、名前も分からない小さな草が何鉢か置かれている。
葉先には透明な露が光り、人の暮らしの息吹が感じられる、どこにでもある朝の風景だった。
誰が想像できただろう。
ほんの数日前まで。
この一見どこにでもある小さな書斎が――
多次元宇宙全体を支配していた編劇会総本部の「資産再編」と破産清算を成し遂げていたことを。
そして今。
店の中は、いつも通りののんびりした空気に包まれていた。
レインは窓際の籐椅子に大股で腰掛け、淹れたばかりの熱い茶を手にしている。
湯気の向こうから外の街並みを眺めながら、しみじみと呟いた。
「へえ……」
「前にここを通るたび、狭すぎて身動き取れねえ店だと思ってたんだけどな」
レインは茶を一口すすった。
「それが今じゃ、多次元宇宙の財政権限が丸ごと俺たちの手の中だ」
「林野――」
ニヤリと笑う。
「お前、ずいぶん立派な『何もしない店主』になったじゃねえか」
カウンターの奥で帳簿をめくっていた林野は、顔すら上げなかった。
そのまま手元にあった布巾を取り、カウンターを拭く。
「何もしない店主ってなんだよ」
「ありゃ、資源配分の最適化っていうんだ」
林野は帳簿の頁をめくりながら答える。
「編劇会のあの踏み倒し屋どもが残していった後始末なんてな」
「ここ数日、分類して封印札を貼るだけで、北境総館と第77号支流の技術者たちがへとへとになってるんだぞ」
「俺まで現場に出てたら、店が潰れちまうだろ」
そのとき。
店の外から、軽い足音が聞こえてきた。
カラン。
扉が開く。
墨清が、街角で買ってきたばかりの朝食を包んだ紙袋を手に入ってきた。
油紙の包みをテーブルへ置く。
そして、手にしていた寒光鋭い断剣を、いつものように店の入口脇へ立てかけた。
その表情は落ち着いている。
「先ほど、因果支流の境界を巡回してきました」
墨清は淡々と報告した。
「以前、閉鎖循環になっていた高次元裂け目には、すべて浮世書斎の『適法契約錠』を設置済みです」
「各支流の商人や住民も、順次、通常の生産と生活を取り戻しています」
「今のところ、異常な因果変動は確認されていません」
「ご苦労さん」
林野は笑った。
そして、紙袋から包子を一つ取り出す。
一口。
もぐっ。
林野は満足そうに目を細めた。
「やっぱり、これだよな」
「これが生活ってもんだ」
「毎日毎日、殺し合いばっかりしてたら、何より和気が悪くなるからな」
そのときだった。
店の入口から、妙に遠慮がちな咳払いが聞こえてきた。
コホン。
三人が同時に顔を上げる。
そこに立っていたのは――
継ぎはぎだらけの作業着を着た、疲れ切った中年の男だった。
顔には長い旅の疲労が滲んでいる。
その手には、黄ばんだ古い契約書が握られていた。
――少し前に第108号支流から救い出された、カールだった。
かつて編劇会の高級代理人だった頃の傲慢さも、威圧的な態度も、もうどこにも残っていない。
カールは林野を見つめながら、どこに手を置けばいいのかさえ分からない様子で立っていた。
「その……」
「林……林店主」
一度、言葉に詰まる。
「俺……」
「いや、私、個人因果の再編手続きをお願いしたいんです」
カールは手にした古い契約書を見下ろした。
「以前、編劇会で署名した規則違反の契約なんですが……」
「今でも、あれは有効なんでしょうか?」
レインが横から吹き出した。
「おいおい!」
「こいつ、あの『鉄面の帳場』じゃねえか」
「どうした?」
「今度は浮世書斎で住み込みでもするつもりか?」
「レイン」
林野が手を振る。
「からかうな」
そして。
手にしていた包子をカウンターへ置く。
引き出しから一枚の真新しい契約書を取り出した。
そこには、浮世書斎の赤い印が押されている。
林野は、それをカウンターの前へ滑らせた。
声は穏やかだった。
だが。
そこには、浮世書斎の店主としての揺るぎない規則があった。
「昔の編劇会の腐った帳簿なら――」
「もう、とっくに俺が法に則って叩き潰した」
そして。
林野は目を上げる。
少し戸惑ったようなカールの顔を見る。
口元に、いつもの軽い笑みが浮かんだ。
「お前は……」
「せっかく第七街区まで来たんだ」
「だったら、ここの規則を守ってもらう」
林野は新しい契約書を指で軽く叩いた。
「今日からお前は――」
「浮世書斎・一級帳場見習いだ」
「まずは掃除から始めろ」
「それから、何万もの平行宇宙で使われてる、米や油や塩みたいな生活用品の帳簿を一つずつ覚えていけ」
林野はニヤリと笑った。
「飯と寝床は出す」
「因果の息吹は月締めだ」
「悪意のある無断欠勤は禁止」
そして。
「偽の帳簿をつけるのは――もっと禁止だ!」
カールはテーブルの上に置かれた契約書を見つめた。
そこからは、かすかな人の世の息吹が感じられる。
数秒。
いや。
もっと長く。
カールは何も言わなかった。
やがて。
張り詰めていた肩から、ゆっくりと力が抜けていく。
大きく息を吐いた。
そして。
顔に、ようやく安堵の笑みを浮かべた。
カールは契約書を両手で受け取り、深く頭を下げた。
「はい、店主」
「私……」
「ちゃんと、帳簿をつけます」
林野は何も言わなかった。
ただ。
小さく笑った。
朝の光が、浮世書斎いっぱいに差し込んでいる。
古びた本棚。
使い込まれたカウンター。
窓辺の籐椅子。
そして。
その一番奥に置かれた、あの分厚い帳簿。
帳簿は誰にも触れられていないのに、静かに頁をめくった。
最後の一頁。
そこにはもう、裁判も、格式も、審判もなかった。
ただ――
新しい時代の朝を迎えながら。
人の世にある、もっと小さく、もっと確かなもの。
一杯の茶。
一つの食事。
一つの契約。
そして、一枚一枚積み重ねられていく帳簿。
それらを静かに記録していた。
――完




