第五十四章 帳簿を渡し、規則を書き換える
「貴様……」
先頭の金袍の長老は、肩に触れている無刃聖剣から伝わってくる、恐ろしいほど濃密な市井の因果の圧力を感じていた。
まるで何千万もの太古の神山に押し潰されているかのようだった。
その身体を支えていた法則金身さえ、すでに耐えきれないような悲鳴を上げ始めている。
長老は林野を睨みつけた。
その目には、抑えきれない悔しさと怒りが浮かんでいる。
「林野!」
「たとえ貴様が初期原稿に守られていたとしても、所詮は一介の市井の店主にすぎん!」
「編劇会総本部の物語権限を強引に奪えば、多次元宇宙の底層論理は瞬時に崩壊する!」
「そうなれば、すべての支流が完全な虚無へと落ちるのだぞ!」
「虚無、虚無って――」
林野は、まるで聞き飽きた話でも聞かされているように、眉一つ動かさなかった。
反対の手で帳簿を前へ押し出す。
金色の強制執行契約が十二人の長老たちの首をさらにきつく締め上げる。
「そんなもんで俺を脅すんじゃねえよ」
十二人は、もはや余計な言葉を一つ口にすることさえできない。
林野は淡々と言った。
「多次元宇宙が崩れるかどうかなんて、俺には分からねえ」
「だがな――」
「お前らがあと一言でもくだらねえことを言ったら」
林野の目が冷たくなる。
「今日この大殿には――」
「二度と息のできる『踏み倒し屋』を一人も残さねえぞ」
その隣では。
レインが機械義肢の指を握り締めた。
カキッ。
カキカキッ。
関節が不気味な音を立てる。
「そうだ!」
レインは冷笑した。
「いつも『大局』だの『宇宙全体』だの持ち出して、人を黙らせようとしやがる」
「ところが帳簿を見りゃ――」
「書いてあるのは、お前らが着服してきた裏帳簿ばっかりじゃねえか」
レインは拳を鳴らした。
「林野、もうこいつらと話す必要ねえだろ」
「権限を渡さねえなら、直接痛い目を見せりゃいい」
「どっちの骨が硬いか――」
「こいつらの骨か、帳簿か、試してみようぜ!」
墨清も断剣をわずかに下げた。
雪のように白く輝く刃が、静かな剣鳴りを響かせる。
その音だけで、人の心を刺すようだった。
「編劇会の防御中枢は、すでに完全に停止しています」
墨清は十二人の長老の背後を見つめた。
「総権限の鍵は――」
「その主制御光幕の中にあります」
その言葉を聞いた瞬間。
先頭の金袍の長老の顔から、血の気が引いた。
白紙のように青ざめる。
ようやく理解したのだ。
今日、自分たちが相手にしているのは――
多次元宇宙の官場の規則など、まるで相手にしない男だった。
認めるのは、帳簿と拳だけ。
それ以外には興味すらない。
極端な男。
このまま権限を渡さなければ――
何紀元にもわたって築き上げてきた編劇会そのものが、完全に消滅する。
そして。
自分たち十二人の、何万年、何億年と生き延びてきた金袍の老骨も――
ここで法に則って強制的に廃棄される。
「……やめろ」
その言葉は、歯の隙間から無理やり絞り出したようだった。
先頭の金袍の長老が、ゆっくりと握り締めていた両手を解く。
力なく。
虚空に浮かぶ、眩い金色の光を放つ分厚い帳簿を見つめる。
そして。
震える右手を上げ――
空中を指差した。
大殿の中央。
そこに浮かんでいたのは、これまで編劇会の最高絶対権威を象徴していた白い主制御光幕。
それが激しく明滅する。
そして――
轟!
一瞬にして、一枚の金色の鍵へと姿を変えた。
その表面には、多次元宇宙に存在する億万の支流の因果が渦巻いている。
長老の声が、静かに響いた。
「多次元宇宙――」
「物語総権限……」
一度、息を呑む。
「全権移譲する」
その言葉が発せられた瞬間。
十二人の金袍の長老たちを包んでいた法則の金光が、一気に消え失せた。
まるで。
一瞬で何万年もの歳月を重ねたかのように。
十二人の身体が力なく虚空へ崩れ落ちる。
林野は右手を伸ばした。
そして。
無数の因果を内部に巡らせる金色の鍵を、しっかりと掌中に収めた。
ヴン――!
その瞬間。
これまでにないほど巨大な情報の奔流が、林野の意識へと流れ込んできた。
多次元宇宙。
無数の支流。
その底層構造。
世界同士の帳簿のやり取り。
因果契約。
そして、長い年月の中で積み重なった無数の権利と債務。
それらすべてが――
一瞬にして林野の前へと開かれた。
だが。
林野は一切ためらわなかった。
胸元から分厚い帳簿を取り出す。
そして。
手にした金色の鍵を、そのまま帳簿の空白の頁へと押し当てた。
轟――!!!
まるで天地開闢そのものを思わせる轟音が響き渡る。
それまで「審判」「フォーマット」「冷たい秩序」を象徴していた編劇会総本部の宮殿が――
金色の市井の息吹に包まれていく。
無数の壊れた因果支流が、次々と修復される。
欠けていた帳簿が埋まり。
歪んでいた勘定が正され。
滞っていた契約が、ひとつずつ清算されていく。
やがて。
林野はゆっくりと帳簿を閉じた。
そして振り返る。
隣には、最後まで肩を並べて戦った墨清とレイン。
少し離れた場所には、力なく倒れ込んだ十二人の長老たち。
その光景を見渡して。
林野はようやく、心の底から軽やかな笑みを浮かべた。
「よし」
「ようやく――」
「帳尻が合ったな」
無刃聖剣をゆっくりと鞘へ収める。
そして。
環状宮殿の外。
再び輝きを取り戻した星海を見上げた。
そこには、冷たい法則だけではない。
人の世の息吹を感じさせる、温かな光が広がっていた。
林野は、声を上げて笑った。
「今日から――」
「多次元宇宙に、もう『至高編劇会』なんてものは存在しねえ」
「これからの帳簿は、全部――」
「浮世書斎の新しい規則でやる」
そして。
「借りたものは返す」
「滞納は――一切認めねえ!」
星海の彼方へ、その声が響き渡っていった。




