第五章 鎖と決意
空を覆い尽くす幽青色の鎖が、耳をつんざくような風切り音を響かせながら、暴風雨のように浮世書斎へと押し寄せてきた。
木造家屋全体が、規則そのものによる圧力に耐え切れず、軋み声を上げている。
まるで、次の瞬間には完全に崩れ落ちてしまいそうだった。
「このままじゃ、この通り全体の因果を強制的にフォーマットするつもりよ!」
墨清は歯を食いしばった。
肩の傷が激しく痛む。
それでも身体を起こし、寝台から降りようとする。
「原生書頁を持って、裏口から逃げて!」
「あなたの力なら、一時的に規則に抗うことはできる。でも、ここの騒ぎはもう編劇会の『審判長』を呼び寄せてしまった。これ以上ここにいたら、間に合わなくなる!」
林野は振り返らなかった。
片手で、無数の書物の背表紙が絡み合って形作られた刃なき聖剣を、強く握り締めている。
金色の光が、その決意に満ちた横顔をくっきりと照らしていた。
「逃げる?」
林野は小さく笑った。
「どこへ?」
自嘲するような声。
だが、その言葉には、誰にも譲るつもりのない頑固さが滲んでいた。
「ここは俺がやっと借りられた店なんだぞ」
「隣の唖叔はまだ外で気を失ってる。第七街区だって、千人以上がここで暮らしてるんだ」
林野は聖剣を握り直した。
「俺が逃げたら、この店の家賃は誰が払う?」
「それに――」
「俺の看板、どうしてくれるんだよ?」
言葉が途切れた。
次の瞬間。
林野は地面を強く踏み込んだ。
その身体が、弦から放たれた矢のように、無数の幽青色の鎖へ向かって一直線に飛び出していく。
「……狂ってる」
墨清は呆然と、その背中を見つめた。
彼女の記憶の中では、いわゆる修仙者や強者たちは、世界そのものの再構築に関わるような災厄に遭遇した時、誰もが自分の身を守り、我先にと逃げ出す。
それが普通だった。
だが、目の前の青年は違った。
一見すれば、ただの町場の店主。
なのに今は、まるで餌を守る獣のように、最も不器用で、最も決然とした姿で前に立っていた。
――ドンッ!!
刃なき聖剣が宙を薙ぐ。
金色の烈火と、空を覆い尽くす無数の鎖が真正面から激突した。
今回の衝撃は、これまでとは比べものにならなかった。
林野は、山が崩れ落ちてくるような凄まじい反動が両腕を伝い、そのまま心肺を貫いていくのを感じた。
喉の奥が熱くなる。
「っ……!」
次の瞬間。
口から鮮血が勢いよく吐き出され、空中に赤い霧となって散った。
それでも、林野は一歩も退かなかった。
聖剣をその勢いのまま横薙ぎに振り抜く。
数本の鎖に存在する核心論理ノードを、正確に断ち切った。
だが――
幽青色の鎖は、あまりにも多かった。
遠くの中心区から、重く低い鐘の音が響く。
ゴォォン――。
その音に呼応するように、さらなる鎖が虚空から生まれ出した。
無数の鎖が絡み合い、巨大な網へと変わる。
そして、それは浮世書斎そのものを覆い尽くすように、空から一気に押し潰してきた。
「違反物語を検知……」
冷たい声が響いた。
「強制リセットを開始します」
感情など一切存在しない、機械的な声。
それが突然、林野の脳の奥で炸裂した。
次の瞬間。
息が詰まるほどの高次元の威圧が降り注ぐ。
林野の手にある金色の聖剣が、突然その輝きを失った。
金色の光が急速に暗くなっていく。
まるで、その存在そのものを強制的に「消去」されようとしているかのようだった。
「まずい!」
墨清の顔色が変わった。
「『物語剥奪』よ!」
彼女は編劇会の手段を知り尽くしていた。
一度この力に捕捉されれば、人間そのものがフォーマットされる。
それだけではない。
その人間が持つ記憶も。
存在したという痕跡さえも。
世界から完全に忘れ去られてしまう。
無数の鎖が林野を完全に呑み込もうとした。
意識が次第に霞んでいく。
その瞬間――
林野の懐に、肌身離さず隠していた一枚の古い書頁があった。
坊市の端で拾った、何の変哲もない古びた一枚の頁。
それが突然、自ら燃え始めた。
弱々しい。
けれど、かすかに墨の香りを帯びた火だった。
そして――
浮世書斎の壊れかけた敷居の外。
さっきまで誰もいなかった通りに、いくつかの見慣れた人影が、ゆっくりと浮かび上がった。
隣で豆腐を売っている唖叔。
手には、豆腐かすの付いた木杓子を握っている。
路地の入口で、熱々の獣肉まんを売っている張じいさん。
そして、普段なら数枚の銅銭をめぐって林野と顔を真っ赤にして言い争っていた、何人もの近所の住人たち。
彼らの目には光がなかった。
両目には、幽青色の光が浮かんでいる。
――すでに、初期フォーマットを受けている。
彼らはぎこちない足取りで、浮世書斎へと近づいてくる。
手にした包丁や天秤棒が、一斉に林野へ向けられた。
「まさか……」
林野は歯を食いしばった。
「近所の連中まで、操られてるのか……」
鮮血が口元から滴り落ちる。
目の前にいるのは、毎日のように顔を合わせてきた普通の人々。
そんな彼らに、剣を向ける。
――林野には、できなかった。
だが、抵抗しなければ。
自分と墨清だけではない。
第七街区そのものが。
そこに暮らすすべての人々の記憶が。
すべて編劇会の脚本の中の傀儡へと変えられてしまう。
「本当に……」
林野は一歩ずつ近づいてくる「知り合い」たちを見つめた。
「他に方法は、ないのか……?」
その瞳に宿る金色の光が、激しく揺れ始める。
そして――
意識が闇へ沈み落ちようとした、その瞬間。
脳の奥から、あの曖昧な声が再び響いた。
今度は、耳元で囁かれているかのようにはっきりと。
「もし脚本が間違っているのなら……」
「その頁を――」
「引き裂けばいい」
林野の身体が、びくりと震えた。
深く息を吸う。
先ほどまで暗く沈んでいた瞳に、再び光が灯った。
それは、どこか狂気すら感じさせるほど真っ直ぐで、熱烈な光だった。
林野はもう、押し寄せてくる鎖を防ごうとはしなかった。
両手で刃なき聖剣を強く握り締める。
そして、身体に残されたすべての意志と力を、一切残さずその剣へと注ぎ込んだ。
「脚本だろうが、編劇会だろうが……」
林野が吠える。
そして――
虚空に浮かぶ巨大な虚構の書。
その本体へ向かって、刃なき聖剣を突き出した。
「俺の店の結末は――」
「俺自身が書くんだよ!」
轟――!!!
金色の烈火が、一輪の太陽へと変わった。
浮世書斎を中心として。
それは、空を貫くほど激しく――
天へと燃え上がった。




