第四章 嵐の中心での目覚めと異変
遠くに見える雲中坊市の中心区では、天を貫き地を穿つような幽青色の光柱が、夜空の半分をまるで鬼域のように染め上げていた。
重く低い轟音が響くたび、天空に浮かぶ巨大な坊市全体が、荒波に翻弄される一葉の小舟のように、激しく揺れ始める。
第七街区の古びた木造家屋。
林野は顔をしかめながら、左肩の傷に包帯を巻いていた。
「いてて……あいつ、本当に容赦なかったな」
林野は痛みに耐えながら息を吸い、包帯をしっかりと結ぶ。
そして、床一面に散らばった木片と黄ばんだ古書を、適当にまとめて隅へ寄せた。
突然の異変によって、通り全体が死んだような静寂に包まれていた。
普段なら朝早くから夜遅くまで動き回っている散修や露店商たちも、今は皆、固く戸を閉ざしている。
誰も、息を潜めるようにして外の様子を窺っていた。
誰もが分かっているのだ。
夜空でゆっくりと頁をめくっている、巨大な虚構の書。
それが意味するものを。
――「至高編劇会」が、ついに完全に仮面を脱ぎ捨てた。
そして今、坊市全体に対する無差別な洗浄とフォーマットを開始したのだ。
林野は手についた埃を払い、内の部屋へと歩いていった。
粗末な一人用の寝台。
そこには、重傷を負った黒衣の女が、依然として目を閉じたまま横たわっていた。
先ほど簡単な処置を施し、止血したおかげで、青白かった顔にはようやく、かすかな血の気が戻っている。
鎖骨の下に浮かぶ、淡い金色の光を放つ歯車の徽章。
それが、坊市の外で起きているエネルギーの振動に呼応するように、かすかに明滅していた。
林野が腰をかがめ、彼女の額に置いた濡れタオルを交換しようとした、その時だった。
血と汚れにまみれた長い睫毛が、突然、大きく震えた。
「来ないで……」
かすかな寝言が、部屋の静寂を破った。
次の瞬間。
女は勢いよく目を開いた。
それは、ひどく澄んでいるにもかかわらず、血走った瞳だった。
そこにあったのは、目覚めたばかりの人間が見せる戸惑いではない。
長い殺し合いを生き抜いてきた者だけが持つ、警戒と冷たさだった。
目を開いたのとほぼ同時に、彼女の右手が本能的に腰へ伸びる。
――だが、そこには何もない。
半ばから折れた制式長剣は、すでに林野によって寝台脇の木製の机に置かれていた。
「起きたか?」
林野は温かい水の入った盆と、清潔なタオルを持っていた。
何の遠慮もなく寝台脇の椅子に腰を下ろすと、タオルを絞り、彼女へ差し出した。
「無理に動くなよ。肩の傷、さっき薬を塗ったばかりなんだから。暴れてまた傷が開いたら、俺が金創薬を無駄にすることになる。この辺じゃ、こいつは結構高いんだぞ」
女は一瞬、呆気に取られた。
視線が林野の顔をなぞり、それから警戒するように周囲を見回す。
粗末ではある。
だが、きちんと片付けられた部屋。
そして壁際に山のように積まれた古書。
さらに、空気の中にまだ完全には消えずに残っている、淡い金色の光。
それを目にした瞬間、彼女の瞳に極めて複雑な驚きが走った。
「ここは……浮世書斎?」
女の声は、二枚の粗い紙やすりを擦り合わせるように掠れていた。
「あなたが……私を助けたの?」
「当たり前だろ」
林野は呆れたように目を細め、タオルを彼女の手に押し込んだ。
「お前が店の前で死んだら、大家の張おばさんが明日にでも俺の店を、人間も骨もまとめて吹っ飛ばしかねないからな」
林野はそう言って、軽く息を吐いた。
「自己紹介しとくよ。俺はこの書斎の店主、林野だ」
女は林野をじっと見つめていた。
まるで、目の前にいる一見すると軽薄そうな青年が、敵なのか味方なのかを見極めようとしているようだった。
しばらくして。
張り詰めていた肩が、ほんの少しだけ下がった。
「墨清」
低い声で、女は名乗った。
「私は……『黎明の頁』の残存調査員」
「墨清?」
林野はその名前を口の中で転がし、眉を上げた。
「いかにも、真面目に暮らしてますって感じの名前じゃないな」
それから肩をすくめる。
「まあ、どうでもいいけど。俺の寝台を借りたんだから、お前は俺の客だ」
墨清は明らかに戸惑っていた。
これほどまでに生死の危機に直面していながら、家賃を取る日常と同じ調子で話す店主など、彼女は見たことがなかったのだろう。
墨清は身体を起こそうとした。
だが、肩の傷が引きつり、激痛が走る。
「っ……」
思わず息を呑んだ。
林野はそれを見ると、すぐに枕を少し高くしてやった。
「ほら、無理するなって。外の状況も見ただろ?」
林野は窓の外へ視線を向けた。
「白磁の仮面を被った連中が、坊市全体を封鎖してる。で、空に浮かんでるあの光る奴はいったい何なんだ? お前を狙ってるのか?」
その言葉を聞いた瞬間。
墨清の表情が、これまでになく険しくなった。
彼女は顔を上げ、壊れかけた窓から遠くにそびえる幽青色の光柱を見つめた。
そして、低く、重い声で言った。
「あれは……『脚本書き換え装置』」
「至高編劇会は、第一部で北境の因果網が完全に破壊された後、世界の底層規則に大規模な『制御不能な物語』が発生し始めたことを発見した」
墨清は一度言葉を切った。
「このまま制御不能な物語が広がるのを防ぐため、彼らは南方のすべての底層区域をフォーマットすることにした」
「この雲中坊市そのものを……中にいる数百万の凡人と散修ごと」
「そして、彼らの記憶をすべてリセットして、従順な『NPC』へと作り替える」
墨清は振り返った。
その瞳は、まっすぐ林野を射抜いていた。
「そして私は――」
「彼らが何としてでも取り戻そうとしているものを、ここまで持ち出した」
「世界の本当の歴史を記録した、一枚の『原生書頁』を」
「原生書頁?」
林野は顎に手を当てた。
だが、その時だった。
二人が話している最中。
浮世書斎全体が、何の前触れもなく――
ぐんっ、と沈んだ。
空気の中に、半透明の巨大な虚構の書が再び姿を現す。
しかし、今度は違った。
その標的は、まっすぐに林野の書斎へ向けられていた。
無数の冷たい幽青色のコードが、肉眼で見えるほどの鎖へと変わる。
それらは空を覆い尽くしながら、小さな書斎へ向かって一斉に伸びてきた。
墨清の顔色が変わる。
「まずい!」
「原生書頁の気配を追跡された!」
林野は、空を埋め尽くす鎖を見上げた。
だが、慌てる様子はなかった。
ゆっくりと立ち上がる。
そして手首を軽く回した。
その目には、日常を無理やり邪魔されたことへの、どうしようもない苛立ちが浮かんでいた。
「せっかく三日分の家賃を払ったばかりなのに……」
林野は小さくため息をついた。
「こいつら、本当に一日くらい静かにさせてくれないのかよ……」
次の瞬間。
林野は右手を反対の手で強く握り込んだ。
金色の光が、掌の中へと集まっていく。
無数の古びた書物の背表紙が絡み合って形作られた、刃なき剣。
それが再び――
堂々と、鞘から抜き放たれた。
――金色の光とともに。
刃なき聖剣が、再びその姿を現した。




